2 天草
三顧の礼の真意について、語りませんか?
本当にあったのかどうか?
当時、左将軍(かな?)の劉備が一般市民の孔明を幕下に迎える為に本当に三度も訪問したのでしょうか?確かに正史にも三顧の礼は登場しますが…皆さんはどう思います?
本当にあったのかどうか?
当時、左将軍(かな?)の劉備が一般市民の孔明を幕下に迎える為に本当に三度も訪問したのでしょうか?確かに正史にも三顧の礼は登場しますが…皆さんはどう思います?
(PC)
3 ヤスシ
あったと信じたいです。
それすら無かったとしたら、劉備って本当に悪人かも…。
孔明様、それなりに知識人として名前が通っていたはずですし、そんな人を喉から手が出るほど欲しがった訳ですから…。
それすら無かったとしたら、劉備って本当に悪人かも…。
孔明様、それなりに知識人として名前が通っていたはずですし、そんな人を喉から手が出るほど欲しがった訳ですから…。
(W11H/au)
4 子竜
劉備が諸葛亮のもとに三度足を運んだ話は正史の諸葛亮伝に見られます。そして何よりも諸葛亮本人が出師の表の中で「先帝は(中略)三度臣を草屋のうちにご訪問くださり…」と述べています。また、ハイ松之もギ略の記述よりもこちらの記述を是としております。従って、三顧の礼は史実と信じてもよろしいと思います。
(W11K/au)
7 独眼龍李克用
おっ、朝立てたのに繁盛している(≧◇≦)
劉備に仕えた理由は…司馬徽の推薦と漢王室再興のため?曹操があまり好きじゃないとか。あるいは伊尹や呂尚に憧れていた(伊尹は初めて三顧の礼をされた人、呂尚は言わずと知れた太公望)。
それで迎え入れようとした劉備を聖王(聖人)?とみて仕えた。
劉備に仕えた理由は…司馬徽の推薦と漢王室再興のため?曹操があまり好きじゃないとか。あるいは伊尹や呂尚に憧れていた(伊尹は初めて三顧の礼をされた人、呂尚は言わずと知れた太公望)。
それで迎え入れようとした劉備を聖王(聖人)?とみて仕えた。
(P900i/FOMA)
8 独眼龍李克用
自分で立てたスレなので、自分も議題を。
諸葛亮は軍師としてより最近では政治家としての認識が高いと思います。
彼は軍師としてはどうだったのだろうか?政治家としては何を成したのか?
皆さんの意見を聞かせてください。
諸葛亮は軍師としてより最近では政治家としての認識が高いと思います。
彼は軍師としてはどうだったのだろうか?政治家としては何を成したのか?
皆さんの意見を聞かせてください。
(P900i/FOMA)
9 大伴
「朝立てた」とは、卑猥な想像をする者も世の中にはいるし、好ましく無いねえ。
さて、時間が無いので概要しか書きませんが、孔明は三顧礼の前に一度、自分からアピールしに行っているのではないでしょうか?徴兵のやり方を示唆した形跡が記録されています。
無論、先に仕えていた徐庶の係わりも、あった可能性は低く無いですね。
さて、時間が無いので概要しか書きませんが、孔明は三顧礼の前に一度、自分からアピールしに行っているのではないでしょうか?徴兵のやり方を示唆した形跡が記録されています。
無論、先に仕えていた徐庶の係わりも、あった可能性は低く無いですね。
(F2102V/FOMA)
10 独眼龍李克用
大伴さん>自分でもちょっと思いましたが、本当に言われるとは思ってなかった(恥)気にしないで(爆)
諸葛亮から劉備に話を持ちかけたという説は確かにありますね。徐庶がどれくらい影響しているかですが。友人を推挙するのはありえますね。
諸葛亮から劉備に話を持ちかけたという説は確かにありますね。徐庶がどれくらい影響しているかですが。友人を推挙するのはありえますね。
(P900i/FOMA)
13 大伴
只今、手元に資料がある訳ではありませんので、宜しければどなたか以下を修正、補足して下さい。
兵数の少ない劉備に対して、住民の数を調べて徴兵すれば良いと、初めて会った孔明がアドバイスして、劉備が感心したという記述があります。恐らく<諸葛亮伝>だと思います。これは三顧礼の前という考え方ができはしないでしょうか?
才名など、話だけでしか知らぬ人物を三度訪ねた、というよりも、一度感心した人物であったが為に、熱心に求めた、という方が信憑性もあると思います。
徐庶が紹介したという記述も、<諸葛亮伝>にあったと記憶しています。
兵数の少ない劉備に対して、住民の数を調べて徴兵すれば良いと、初めて会った孔明がアドバイスして、劉備が感心したという記述があります。恐らく<諸葛亮伝>だと思います。これは三顧礼の前という考え方ができはしないでしょうか?
才名など、話だけでしか知らぬ人物を三度訪ねた、というよりも、一度感心した人物であったが為に、熱心に求めた、という方が信憑性もあると思います。
徐庶が紹介したという記述も、<諸葛亮伝>にあったと記憶しています。
(F2102V/FOMA)
15 子竜
大伴殿…
それはおそらく諸葛亮伝に記載されている「ギ略」の文章だと思います。但し、ハイ松之は、この文章は食い違っていると述べています。確かこの討論場のどこかに書いたと思いますが、「出師の表」で諸葛亮は自分で「三度訪ねて…」と述べています。出師の表そのものの存在を否定しない限り、三顧の礼はあったと信じられると思います。
それはおそらく諸葛亮伝に記載されている「ギ略」の文章だと思います。但し、ハイ松之は、この文章は食い違っていると述べています。確かこの討論場のどこかに書いたと思いますが、「出師の表」で諸葛亮は自分で「三度訪ねて…」と述べています。出師の表そのものの存在を否定しない限り、三顧の礼はあったと信じられると思います。
(W11K/au)
17 天草
ようやく見つけました!
大伴殿>確かにありますね。しかも司馬彪の『九州春秋』にも同じような内容があるようです。
これに対してハイ松之も確かに否定してますね。
しかし…もし、孔明の出師の表の中の文だけを信じて、陳寿やハイ松之が書いたとするなら、疑問は疑問ですよね。
もしかすると出師の表は、先主・劉備と自分との出会いを、より誇張し、より劇的なものにし、より敬意を払う為に作られた創作だとしたら…考えすぎかな?(笑)
大伴殿>確かにありますね。しかも司馬彪の『九州春秋』にも同じような内容があるようです。
これに対してハイ松之も確かに否定してますね。
しかし…もし、孔明の出師の表の中の文だけを信じて、陳寿やハイ松之が書いたとするなら、疑問は疑問ですよね。
もしかすると出師の表は、先主・劉備と自分との出会いを、より誇張し、より劇的なものにし、より敬意を払う為に作られた創作だとしたら…考えすぎかな?(笑)
(PC)
18 大伴
草盧対で孔明が語る内容は、
天下の三分
遜権との協調
漢室再興の標榜
と、やや話が大きい。当時の劉備にとってはあまり現実的な話でも無いと思います。私はそれよりも、先ず最初に一度接触があって、そこでより身近な問題の対処に対して示唆、それに感服した劉備が三度訪れた、としてもおかしくは無いと思うのですよ。
孔明の資質は、やはり優れた政治家。草盧対での内容も、戸籍調査のアドバイスも、いづれも、彼の得意分野でのもので、軍政には係わりますが、軍事上のものではありませんね。
天下の三分
遜権との協調
漢室再興の標榜
と、やや話が大きい。当時の劉備にとってはあまり現実的な話でも無いと思います。私はそれよりも、先ず最初に一度接触があって、そこでより身近な問題の対処に対して示唆、それに感服した劉備が三度訪れた、としてもおかしくは無いと思うのですよ。
孔明の資質は、やはり優れた政治家。草盧対での内容も、戸籍調査のアドバイスも、いづれも、彼の得意分野でのもので、軍政には係わりますが、軍事上のものではありませんね。
(F2102V/FOMA)
20 大伴
私は諸葛亮の事好きなのですが、(歴史を語る時に)彼を神算鬼謀の大軍師として神格化する事は、どうしても許せません(通俗演技での孔明ならば、正にそのとおりですが……)。まぁそれでいつも悪く書いてしまうのですね。
たまには孔明の成功談を話題にしたいですね。どなたか如何です?彼の偉業の一つ一つを、検証していきましょう。
たまには孔明の成功談を話題にしたいですね。どなたか如何です?彼の偉業の一つ一つを、検証していきましょう。
(F2102V/FOMA)
22 大伴
では政治家としての(成功の)略歴を
紫桑において、外交手腕を発揮。孫権に、協調して曹操と向かい合う事を、約束させる。
赤壁での戦闘の後、長沙、桂陽、零陵の三郡を監督し、上手く治める。これによって、劉備軍は軍資を得た。
蜀進攻後、劉備軍が成都を制圧すると、府事(事務の最高責任者)を命じられ、戸籍の調査(新兵の補充)と物資の補給を専任する。
劉備が帝位につくと、丞相として政務全般に関する権限を得る。
蜀科を法正、伊籍らと協力して制定。劉璋時代の、弛んだ政治を正す。
蒋エン、費イ、董允、宗預等、後の蜀を支える、多くの文官を抜擢。
武器の開発を進め、特に、全軍に良質の刀を配備させた。
とまぁ、主な物はこれ位でしょうか?抜けがあったら、補って下さい。陳寿は、
「人々の生活を保障し、儀軌を示し、官の職務を明確にして、誠の心で公正な布いた。刑罰は公平で、私を挟まず、善行はささいな事でも奨励した。庶事に精通し、物事の基本を理解し、偽りを言う者とは同席しなかった。敬愛され、厳格な政治を行ったにもかかわらず、怨まれる事が無かったのは、彼の配慮が公平で賞罰厳正であったからだ。彼は政治の本質を知る良才で、古き良い政治に並ぶ。が、戦争は下手だった(要約)」
と、その評でこう述べています。
紫桑において、外交手腕を発揮。孫権に、協調して曹操と向かい合う事を、約束させる。
赤壁での戦闘の後、長沙、桂陽、零陵の三郡を監督し、上手く治める。これによって、劉備軍は軍資を得た。
蜀進攻後、劉備軍が成都を制圧すると、府事(事務の最高責任者)を命じられ、戸籍の調査(新兵の補充)と物資の補給を専任する。
劉備が帝位につくと、丞相として政務全般に関する権限を得る。
蜀科を法正、伊籍らと協力して制定。劉璋時代の、弛んだ政治を正す。
蒋エン、費イ、董允、宗預等、後の蜀を支える、多くの文官を抜擢。
武器の開発を進め、特に、全軍に良質の刀を配備させた。
とまぁ、主な物はこれ位でしょうか?抜けがあったら、補って下さい。陳寿は、
「人々の生活を保障し、儀軌を示し、官の職務を明確にして、誠の心で公正な布いた。刑罰は公平で、私を挟まず、善行はささいな事でも奨励した。庶事に精通し、物事の基本を理解し、偽りを言う者とは同席しなかった。敬愛され、厳格な政治を行ったにもかかわらず、怨まれる事が無かったのは、彼の配慮が公平で賞罰厳正であったからだ。彼は政治の本質を知る良才で、古き良い政治に並ぶ。が、戦争は下手だった(要約)」
と、その評でこう述べています。
(F2102V/FOMA)
23 天草
確かに陳寿も政治家としての孔明を褒めるなら、もう少し具体的な例を挙げてもらいたいものですね。
人材の活用も法正のスレで触れましたが、自分の好みに頼らず、有能な人材を重用した事が分かりますよね。
人材の活用も法正のスレで触れましたが、自分の好みに頼らず、有能な人材を重用した事が分かりますよね。
(PC)
24 関羽
でも諸葛亮が戦下手ってのはちょっと。諸葛亮はギを牽制するために北伐し、ギを牽制するだけだから無理に勝ちにいかなくてもよい。
だからギ延の強襲策を却下したんでしょう。
諸葛亮は勝つに越した事はないが、犠牲を払ってまでも勝つ気はなかったのでは?
そういう意味では負けない戦をした諸葛亮はなかなかの軍才を持っていたと思います。
まぁ諸葛亮の本領は政治にありますけどね。
諸葛亮の治水は今も使われてますよ。
だからギ延の強襲策を却下したんでしょう。
諸葛亮は勝つに越した事はないが、犠牲を払ってまでも勝つ気はなかったのでは?
そういう意味では負けない戦をした諸葛亮はなかなかの軍才を持っていたと思います。
まぁ諸葛亮の本領は政治にありますけどね。
諸葛亮の治水は今も使われてますよ。
(W11H/au)
25 大伴
孔明の軍事的失敗例は、山程ありますよ。
関羽の樊城攻めなどは、連戦であり、疲労と消耗は激しかったと考えられます。にも拘わらず、後詰めを送ってはいません。荊州を狙っている事を知りながら、遜権との同盟を信用しすぎた事も、彼の落ち度でしょう。
又、劉備が長江に長々と拙劣な布陣をした時、これを聞いた曹丕は、劉備の負けだと断定しています。しかしこれも、孔明は何の手を打つ事もしていません。模様替えを要請するのは飽くまでも、通俗演技での話です。
第二次北伐の際などは、絶好の機会であったにも拘わらず、数万の兵を率いながら、千人程度の小勢を攻めあぐね、失敗しています。
彼は事実、実戦経験が少ないですし、政治と密接な戦略ならばまだしも、軍事全般に通じた大軍師、とするのには、大きな無理があると思いますね。
関羽の樊城攻めなどは、連戦であり、疲労と消耗は激しかったと考えられます。にも拘わらず、後詰めを送ってはいません。荊州を狙っている事を知りながら、遜権との同盟を信用しすぎた事も、彼の落ち度でしょう。
又、劉備が長江に長々と拙劣な布陣をした時、これを聞いた曹丕は、劉備の負けだと断定しています。しかしこれも、孔明は何の手を打つ事もしていません。模様替えを要請するのは飽くまでも、通俗演技での話です。
第二次北伐の際などは、絶好の機会であったにも拘わらず、数万の兵を率いながら、千人程度の小勢を攻めあぐね、失敗しています。
彼は事実、実戦経験が少ないですし、政治と密接な戦略ならばまだしも、軍事全般に通じた大軍師、とするのには、大きな無理があると思いますね。
(F2102V/FOMA)
26 関羽
北伐の時は本当の失敗でしょう。
しかし関羽の事は邪魔だったから殺させたんでしょう。
諸葛亮は劉備に帝にしたかった。しかし関羽は劉備と同盟者のような関係で、劉備が帝になると、関羽も帝になると反発する可能性もある。だから近くに関羽がピンチの時に助けに行くような将を置かず孟達のような保身に動く将を置いたんだと思います。
諸葛亮が関羽を助ける意志があれば、呉との関係も形だけですし、近くに良将を置くと思います。
諸葛亮は将の本質を見抜けぬ程凡庸ではないので。
まぁ諸葛亮にとって荊州を失う事は痛手だと思いますが。
すいません。
下手な説明で。
これは馬鹿な僕の考えですので気になさらず。m(_ _)m
しかし関羽の事は邪魔だったから殺させたんでしょう。
諸葛亮は劉備に帝にしたかった。しかし関羽は劉備と同盟者のような関係で、劉備が帝になると、関羽も帝になると反発する可能性もある。だから近くに関羽がピンチの時に助けに行くような将を置かず孟達のような保身に動く将を置いたんだと思います。
諸葛亮が関羽を助ける意志があれば、呉との関係も形だけですし、近くに良将を置くと思います。
諸葛亮は将の本質を見抜けぬ程凡庸ではないので。
まぁ諸葛亮にとって荊州を失う事は痛手だと思いますが。
すいません。
下手な説明で。
これは馬鹿な僕の考えですので気になさらず。m(_ _)m
(W11H/au)
27 独眼龍李克用
諸葛亮は戦にでると目が曇ってしまうタイプかもしれません。
孫子に彼を知り己を知るとありますが、戦において諸葛亮がそれをできていたとは思えないです。
司馬懿にたいして無意味な挑発、カク昭にたいしての内通。
孟達をあそこに置いたのは彼の能力と功績によるもので人間性を考慮に入れてない。馬禝は身近に置きすぎで命令を守らせれなかったので処断。文官である孔明が軍を率いることによる内訌、或いは不和。
良くも悪くも彼は法家であり能力重視の曹操に近いが戦に経験を積んでいないのに自分を楽毅や管仲になぞらえており軍事においても自負があり過ぎたと思う。劉備が死んだ後は蜀を一身に背負いすぎており劉禅がしなければならないこともある程度したであろうから疲労により頭が回らなくなったのではないか。
久しぶりにたくさん書いたのでおかしい文になってしまった…
孫子に彼を知り己を知るとありますが、戦において諸葛亮がそれをできていたとは思えないです。
司馬懿にたいして無意味な挑発、カク昭にたいしての内通。
孟達をあそこに置いたのは彼の能力と功績によるもので人間性を考慮に入れてない。馬禝は身近に置きすぎで命令を守らせれなかったので処断。文官である孔明が軍を率いることによる内訌、或いは不和。
良くも悪くも彼は法家であり能力重視の曹操に近いが戦に経験を積んでいないのに自分を楽毅や管仲になぞらえており軍事においても自負があり過ぎたと思う。劉備が死んだ後は蜀を一身に背負いすぎており劉禅がしなければならないこともある程度したであろうから疲労により頭が回らなくなったのではないか。
久しぶりにたくさん書いたのでおかしい文になってしまった…
(P900i/FOMA)
31 大伴ゴジョウ
あれ?寝てる間に出番逃したかな?
孔明を大軍師とする人々の根拠は、実現はしませんでしたが、その対魏戦略にあると思います。
孫権と争わず、劉備、関羽の二方向から同時に攻める。孔明を万能としたいが為に、孫権に関羽を殺させたとするならば、彼を優れた軍略家とする考え方自体を、否定する事になりかねませんよ。
孔明を大軍師とする人々の根拠は、実現はしませんでしたが、その対魏戦略にあると思います。
孫権と争わず、劉備、関羽の二方向から同時に攻める。孔明を万能としたいが為に、孫権に関羽を殺させたとするならば、彼を優れた軍略家とする考え方自体を、否定する事になりかねませんよ。
(F2102V/FOMA)
32 諸葛蘭
どうも、ちょいと立ち寄った記念に書き込みします。
関羽の荊州失陥の頃、孔明は軍事に関する権限を持っていましたか?
この時期の軍師はホウ統や法正であって、孔明が軍事に関ったのはホウ統戦死の緊急時だけです。あくまで役割は宰相であって参謀ではなかったと思います。そして、その緊急参戦においても成都攻略という結果を出しています。馬超を引き込むことによって。
孔明が初めて総司令官として参軍した南蛮侵攻も、孟獲を降伏させるなど一定の結果を出しています。
北伐においても、宿将趙雲を囮にし迂回して天水・安定方面を攻略しており、また武都・陰平の攻略、さらに追撃してきた司馬懿率いる魏軍を撃破したり、名将張コウを討ち取ったりと、一定の軍事センスは見せてはいます。
まぁ陳倉の失態や街停の人選ミスなどもありますが。
陳倉の敗因は、大軍を投入し攻城兵器も相当数用意した孔明だが、守将カク昭はそれを上回る篭城戦のスペシャリストだったから。
街停は完全に人選ミス。本来は魏延か呉懿のところ、馬謖の活躍と成長を願って抜擢したのが裏目に。
プラスマイナス差し引いても、評価出来る点のほうが多いように見えます。
基本的には宰相にしても、軍事的にも一定の評価は出来そうです。
感覚的に、曹操・劉備・司馬懿の域には届かず、賈クや法正に肉薄するレベルでは無いかと思います。
長文失礼しました。
関羽の荊州失陥の頃、孔明は軍事に関する権限を持っていましたか?
この時期の軍師はホウ統や法正であって、孔明が軍事に関ったのはホウ統戦死の緊急時だけです。あくまで役割は宰相であって参謀ではなかったと思います。そして、その緊急参戦においても成都攻略という結果を出しています。馬超を引き込むことによって。
孔明が初めて総司令官として参軍した南蛮侵攻も、孟獲を降伏させるなど一定の結果を出しています。
北伐においても、宿将趙雲を囮にし迂回して天水・安定方面を攻略しており、また武都・陰平の攻略、さらに追撃してきた司馬懿率いる魏軍を撃破したり、名将張コウを討ち取ったりと、一定の軍事センスは見せてはいます。
まぁ陳倉の失態や街停の人選ミスなどもありますが。
陳倉の敗因は、大軍を投入し攻城兵器も相当数用意した孔明だが、守将カク昭はそれを上回る篭城戦のスペシャリストだったから。
街停は完全に人選ミス。本来は魏延か呉懿のところ、馬謖の活躍と成長を願って抜擢したのが裏目に。
プラスマイナス差し引いても、評価出来る点のほうが多いように見えます。
基本的には宰相にしても、軍事的にも一定の評価は出来そうです。
感覚的に、曹操・劉備・司馬懿の域には届かず、賈クや法正に肉薄するレベルでは無いかと思います。
長文失礼しました。
(PC)
34 大伴
蘭さん、こちらでははじめまして。
さて、長阪の前に、樊城進攻と、蘭さんが挙げた人物の没年を。
214年 五月、ホウ統戦死。
219年 八月に関羽樊城へ進攻。同年十二月、関羽死亡。
220年 七月頃(?)、法正病没。
ホウ統は死んでいますし、法正も翌年病死していますから、実に妖しい。このころ孔明は、軍師将軍、左将軍府事ですから、軍事について意見を言えない立場では無いと思います。
また、天下三分計を良く思い出して下さい。荊州から中原を攻め、益州から関中平野を攻める事を、基本戦略としています。この戦略の実現に、関羽の荊州が重要な事は話すまでも無いでしょう。孔明という人は、軍事全般に秀でている訳では無いと思いますが、戦略思想にだけは、政治家だけあって明るいのです。この戦略の実現を目指していたとするならば、やはり忠告をすべきです。これは孔明の失策としても良いと、私はそう思いますね。
さて、長阪の前に、樊城進攻と、蘭さんが挙げた人物の没年を。
214年 五月、ホウ統戦死。
219年 八月に関羽樊城へ進攻。同年十二月、関羽死亡。
220年 七月頃(?)、法正病没。
ホウ統は死んでいますし、法正も翌年病死していますから、実に妖しい。このころ孔明は、軍師将軍、左将軍府事ですから、軍事について意見を言えない立場では無いと思います。
また、天下三分計を良く思い出して下さい。荊州から中原を攻め、益州から関中平野を攻める事を、基本戦略としています。この戦略の実現に、関羽の荊州が重要な事は話すまでも無いでしょう。孔明という人は、軍事全般に秀でている訳では無いと思いますが、戦略思想にだけは、政治家だけあって明るいのです。この戦略の実現を目指していたとするならば、やはり忠告をすべきです。これは孔明の失策としても良いと、私はそう思いますね。
(F2102V/FOMA)
35 飛
はじめまして!いやー皆さんの話、かなり深いっすね!諸葛亮好きなのでカキコさせて頂きます。
ちょっと思ったのですが劉備が自ら戦略をたてることが多かったというのはないんですかね?諸葛亮は皆さんの言うとおり政治家だったと思うので戦争になる前までの駆け引きが担当であとは劉備が。勿論部下の意見など聞いてでしょうが。まあ北伐は別ですが。長文失礼致しましたm(_ _)m
ちょっと思ったのですが劉備が自ら戦略をたてることが多かったというのはないんですかね?諸葛亮は皆さんの言うとおり政治家だったと思うので戦争になる前までの駆け引きが担当であとは劉備が。勿論部下の意見など聞いてでしょうが。まあ北伐は別ですが。長文失礼致しましたm(_ _)m
(W11K/au)
36 天草
飛殿>いらっしゃい♪よろしくです。
劉備が戦略を立てる。。。十分ありえますね。曹操に比べたら、それも少ないんでしょうけど…。
しかし荊州で人材を得てからの劉備の動きの殆んどは、誰かの進言で、誰かが必ず従軍してますから、諸葛亮をはじめ、軍師・将軍の意見を優先させたような気がしますね。
唯一、自分の判断だけで侵攻したのが、夷陵の戦いだったのではないか?と予想します!
劉備が戦略を立てる。。。十分ありえますね。曹操に比べたら、それも少ないんでしょうけど…。
しかし荊州で人材を得てからの劉備の動きの殆んどは、誰かの進言で、誰かが必ず従軍してますから、諸葛亮をはじめ、軍師・将軍の意見を優先させたような気がしますね。
唯一、自分の判断だけで侵攻したのが、夷陵の戦いだったのではないか?と予想します!
(PC)
39 飛
皆さんの意見さすがに説得力ありますね!言われてみればそうなのかも…と思いましたo(^-^)o劉備のイメージは戦上手とは思いませんけど。
ところで曹操も自軍が少数の方が戦績が良いように思えます。孫権もか(^_^;)
ところで曹操も自軍が少数の方が戦績が良いように思えます。孫権もか(^_^;)
(W11K/au)
40 天草
それは恐らく、そういう結果の戦いが後世に残ってるからだと思われます。
しかし殆んどの場面では、
大軍=侵攻側
少数軍=防御側
で、
防衛=有利
侵攻=不利
という図式があるのも確かですよね。
とは言っても、数々の名軍師達が立てた、神略の数々は揺るぎようがないですけどね!
しかし殆んどの場面では、
大軍=侵攻側
少数軍=防御側
で、
防衛=有利
侵攻=不利
という図式があるのも確かですよね。
とは言っても、数々の名軍師達が立てた、神略の数々は揺るぎようがないですけどね!
(PC)
41 飛
守る方が易し、ということですか!
また意見出してすいませんが孔明の北伐は無理があったように思えます!戦下手だったとしたら、それは本人も承知だったはず…。北伐せざるを得ない理由とかあったのでしょうか?
また意見出してすいませんが孔明の北伐は無理があったように思えます!戦下手だったとしたら、それは本人も承知だったはず…。北伐せざるを得ない理由とかあったのでしょうか?
(W11K/au)
42 天草
北伐に関しては諸説ありますね。
元より無理な侵攻だったのは誰の目から見てもはっきりしてます。しかも2〜3回じゃないですからね(汗)
たしか前スレのどこかで出ましたが、私の意見は…
○侵攻する事で、生き延びようとした。
○自分が生きてる間に攻められる前に攻めた
○長安さえ落とせば…
こんあ思惑があったと考えます。
もっとも先主・劉備の意志を引き継ぎ、漢という名の大義名分があったことも忘れてはならない事実かと。
元より無理な侵攻だったのは誰の目から見てもはっきりしてます。しかも2〜3回じゃないですからね(汗)
たしか前スレのどこかで出ましたが、私の意見は…
○侵攻する事で、生き延びようとした。
○自分が生きてる間に攻められる前に攻めた
○長安さえ落とせば…
こんあ思惑があったと考えます。
もっとも先主・劉備の意志を引き継ぎ、漢という名の大義名分があったことも忘れてはならない事実かと。
(PC)
44 諸葛豊
諸葛丞相の功績は計り知れないと思う。正史や演義でももちろん後の杜補なども詩にしているし人々に感動尊敬を与えたと思う。色々なことをしたと思うけど俺的には戦もうまかったと思うよ韓信、孫子ほどじゃないにしても
(N900iS/FOMA)
45 大伴
私自身は皆さんとは逆で、北伐を決定した事自体はまずく無いと思いますよ。
第二次などは特に、魏が慌ただしい時を狙っていますし、街亭での敗戦直後とはいえ、時期は悪くは無いのです。第三次のものにしても、李厳に兵站さえ任せなければ、ひっくり返った可能性はある。彼は有能な政治家であって、ちゃんと攻め入るべき時期を図っているのです。闇雲に攻めた姜維とは、器が違う。
しかし、戦略レベルで優れてはいても、作戦や戦術レベルで孔明はさほどではなかったのでしょう。ことごとく台なしにしてしまいます。彼がまずまずの成績を残した戦闘は、南征と、第三次北伐だけですからね。
第二次などは特に、魏が慌ただしい時を狙っていますし、街亭での敗戦直後とはいえ、時期は悪くは無いのです。第三次のものにしても、李厳に兵站さえ任せなければ、ひっくり返った可能性はある。彼は有能な政治家であって、ちゃんと攻め入るべき時期を図っているのです。闇雲に攻めた姜維とは、器が違う。
しかし、戦略レベルで優れてはいても、作戦や戦術レベルで孔明はさほどではなかったのでしょう。ことごとく台なしにしてしまいます。彼がまずまずの成績を残した戦闘は、南征と、第三次北伐だけですからね。
(F2102V/FOMA)
46 飛
やはり孔明は戦下手(言い過ぎかな)という結論ですかね?では北伐をあのショクの状況で、成功に導ける人物はいたのでしょうか?私はどんな天才でも出来なかったのではと考えます。私は三国志(演義ですが)を知って半年足らずの浅学ですので、孔明よりも良い戦績を上げられそうな人物がわかりません。
(W11K/au)
47 大伴
孔明は確かに、飛び抜け優れてはいなかった。しかしそれでも、蜀の中では優れた方だった為、やらざるをえなかった。ここにも、蜀の人材不足が見えてきますね。
もっとも孔明はでしゃばりだったようで、丞相であるにも拘わらず、帳簿をチェックした為に、担当のおっさんから叱られた……というエピソードもありますからねぇ。彼がワーキングホリックに患っていた感は否めません。この為に行軍の指揮までとった……という考え方もありはしますが……。
もっとも孔明はでしゃばりだったようで、丞相であるにも拘わらず、帳簿をチェックした為に、担当のおっさんから叱られた……というエピソードもありますからねぇ。彼がワーキングホリックに患っていた感は否めません。この為に行軍の指揮までとった……という考え方もありはしますが……。
(F2102V/FOMA)
48 天草
諸葛豊殿>お初です!
諸葛亮が軍師・戦略家・政治家・戦術家としてどうだったのか?というのは、話し始めると止まりませんね。結局は>>47の蜀の人材不足に行き着くのですが…。
だから>>46の飛殿の>孔明よりも良い戦績を上げられそうな人物がわかりません…というのは大正解なんですよね。
逆に孔明が嫌われてたとか、失敗をした(戦以外で)なんていう話はないですかね?
諸葛亮が軍師・戦略家・政治家・戦術家としてどうだったのか?というのは、話し始めると止まりませんね。結局は>>47の蜀の人材不足に行き着くのですが…。
だから>>46の飛殿の>孔明よりも良い戦績を上げられそうな人物がわかりません…というのは大正解なんですよね。
逆に孔明が嫌われてたとか、失敗をした(戦以外で)なんていう話はないですかね?
(PC)
50 天草
孟達の寝返りに失敗したのは確かに痛かったでしょうね。
長安挟み撃ち作戦が頓挫したのは、関羽の荊州を取られた状態に似てますよね。
孔明が亡くなった後、数人の人材に後を託して、その人物も大いに活躍しますよね?
人材推挙や人物眼としての孔明の実力はどうだったと思いますか?
長安挟み撃ち作戦が頓挫したのは、関羽の荊州を取られた状態に似てますよね。
孔明が亡くなった後、数人の人材に後を託して、その人物も大いに活躍しますよね?
人材推挙や人物眼としての孔明の実力はどうだったと思いますか?
(PC)
53 諸葛蘭
>>52:関羽殿
諸葛豊殿の『馬謖の時は間違えた』は起用の時期や場面を指していて、決して彼の優秀さを否定していないと思いますが…。
個人的に、馬謖の能力は戦略・謀略などに長じているのであって、実戦指揮官に起用されたのが不幸だったと思います。
孔明は自分の好むタイプの人材は上手く発掘・抜擢しますが、ウマの合わない相手には目が曇るようです。
魏延(謀反扱いで奮死)
李厳(地味な兵站を押しつけられ腐る)
王平(無学を理由に博学馬謖の下に配備)
これらの人物を実態に合わせて起用していたら、幾分違った結果も得られる可能性も。
諸葛豊殿の『馬謖の時は間違えた』は起用の時期や場面を指していて、決して彼の優秀さを否定していないと思いますが…。
個人的に、馬謖の能力は戦略・謀略などに長じているのであって、実戦指揮官に起用されたのが不幸だったと思います。
孔明は自分の好むタイプの人材は上手く発掘・抜擢しますが、ウマの合わない相手には目が曇るようです。
魏延(謀反扱いで奮死)
李厳(地味な兵站を押しつけられ腐る)
王平(無学を理由に博学馬謖の下に配備)
これらの人物を実態に合わせて起用していたら、幾分違った結果も得られる可能性も。
(N2051/FOMA)
54 飛
ちょっとお題目と変わってしまうのですが、王平って徐晃とも仲違いしてますよね?(演義だけ?)
私は彼が融通の聞かない人なのかな?と思いました。
孔明の人事は結果として失敗しました、が事を成す実力を持った馬ショクを配置するのは不思議ではないのでは?それに功をあせる馬ショクを抑えるため王平を付けた。見事期待を裏切りましたが(T_T)馬ショク許せん!
私は彼が融通の聞かない人なのかな?と思いました。
孔明の人事は結果として失敗しました、が事を成す実力を持った馬ショクを配置するのは不思議ではないのでは?それに功をあせる馬ショクを抑えるため王平を付けた。見事期待を裏切りましたが(T_T)馬ショク許せん!
(W11K/au)
55 天草
飛殿>確かに王平は徐晃を裏切ってます。
私は馬謖と姜維がなぜかダブります。
両者とも、孔明から寵愛を受けてます。
逆に法正などは個人的な趣味は合わないが、国事に関しては必ず相談したなどとも書かれてます。
そういう才能を愛すところも諸葛亮にはあったんですね。
私は馬謖と姜維がなぜかダブります。
両者とも、孔明から寵愛を受けてます。
逆に法正などは個人的な趣味は合わないが、国事に関しては必ず相談したなどとも書かれてます。
そういう才能を愛すところも諸葛亮にはあったんですね。
(PC)
58 天草
結論から言うと、私的にはかなり怪しいと思います。
何と言っても沢山の文献で批判されてる通り、生きているはずの趙雲が死んだ事になっているのは、どう考えてもおかしいですよね。
陳寿の『諸葛亮集』にもでてないみたいですし、唯一、呉の張ゲンという人が書いた『黙記』というものに記されてるらしいです。
何と言っても沢山の文献で批判されてる通り、生きているはずの趙雲が死んだ事になっているのは、どう考えてもおかしいですよね。
陳寿の『諸葛亮集』にもでてないみたいですし、唯一、呉の張ゲンという人が書いた『黙記』というものに記されてるらしいです。
(PC)
62 天草
諸葛豊殿>そうでしたか。他の皆さんはどうかな?
ただ、この時代、大軍を動かすのに、必ず上奏文が必要だったとしたら、孔明は五度の北伐で五回上奏文を提出しているのでしょうか?
それとも第三次とか、第五次とかは後の人が勝手に解釈しただけで、全てまとめて一度の北伐だった…なんてことも考えられませんか?
ただ、この時代、大軍を動かすのに、必ず上奏文が必要だったとしたら、孔明は五度の北伐で五回上奏文を提出しているのでしょうか?
それとも第三次とか、第五次とかは後の人が勝手に解釈しただけで、全てまとめて一度の北伐だった…なんてことも考えられませんか?
(PC)
63 独眼龍李克用
負けもありますので、同じ意味があっても一つ一つは別の軍事行動だと思います。結局攻めた成果はないですから繋がっているとは言い難い。
ただ、諸葛亮は蜀においては独断に近い形で、軍事行動を起こせたと思いますから一度上奏文をだせば後は、いちいちする必要は無かったのかもしれないです。
ただ、諸葛亮は蜀においては独断に近い形で、軍事行動を起こせたと思いますから一度上奏文をだせば後は、いちいちする必要は無かったのかもしれないです。
(P900i/FOMA)
65 独眼龍李克用
当時の人が、どう思っていたかで有名なエピソードは晋の時に蜀を統治していた桓温という人が、諸葛亮に仕えていたという老人(百数十歳と言われているので信じがたいが)に話を聞いたと言われています。
内容は、「生きていたときにはごく普通の人に見えた。今考えればあれほど立派な人はいない」とのことです。
しかし、これはよく聞くエピソードですが創作の疑いが濃いと思われるので、実際は分かりません。
内容は、「生きていたときにはごく普通の人に見えた。今考えればあれほど立派な人はいない」とのことです。
しかし、これはよく聞くエピソードですが創作の疑いが濃いと思われるので、実際は分かりません。
(P900i/FOMA)
66 YAS
お初です。
諸葛亮の起こした戦争は、ほとんど八百長ですね。特に五丈原においては。陳舜臣の『秘本三国志』にもありますが、司馬懿は曹操からは程よく好かれていましたが、天才的軍略を持つ彼は、曹丕、曹叡と代が変わるにつれて、次第に魏を乗っ取られるのではないかと警戒されるようになります。そこで自ら馬鹿に徹し、危機を免れようと、諸葛亮と一芝居、というシナリオを描き、提案したのです。諸葛亮も、元々は有能な政治家であり、軍略家ではありません。それまでの戦いにおいて、自ら軍の指揮を取ったのは南蛮平定のときくらいですが、どうやらその時も孟獲と一芝居しているらしく(このことについては後日)、実質、この北伐が諸葛亮にとっての初陣となります。しかし、馬謖とのいざこざ等、やはり自分には軍師の才能が欠けていることや、余命も儚いことに気付いた諸葛亮には、自分が楽して勝利と名声を手にすることができる司馬懿の提案を快く承諾しました。この芝居は諸葛亮の早死のせいで失敗しましたが、司馬懿は死んだ諸葛亮を怖れて走る等、最後まで馬鹿に徹しきることで、警戒され、暗殺されることを免れたのです。
諸葛亮の起こした戦争は、ほとんど八百長ですね。特に五丈原においては。陳舜臣の『秘本三国志』にもありますが、司馬懿は曹操からは程よく好かれていましたが、天才的軍略を持つ彼は、曹丕、曹叡と代が変わるにつれて、次第に魏を乗っ取られるのではないかと警戒されるようになります。そこで自ら馬鹿に徹し、危機を免れようと、諸葛亮と一芝居、というシナリオを描き、提案したのです。諸葛亮も、元々は有能な政治家であり、軍略家ではありません。それまでの戦いにおいて、自ら軍の指揮を取ったのは南蛮平定のときくらいですが、どうやらその時も孟獲と一芝居しているらしく(このことについては後日)、実質、この北伐が諸葛亮にとっての初陣となります。しかし、馬謖とのいざこざ等、やはり自分には軍師の才能が欠けていることや、余命も儚いことに気付いた諸葛亮には、自分が楽して勝利と名声を手にすることができる司馬懿の提案を快く承諾しました。この芝居は諸葛亮の早死のせいで失敗しましたが、司馬懿は死んだ諸葛亮を怖れて走る等、最後まで馬鹿に徹しきることで、警戒され、暗殺されることを免れたのです。
(J-SH53_a)
67 大伴
少し下った時代の人ですが、三国志を記した陳寿は、孔明をとても尊敬していた様です(もっとも後世の歴史家達は、陳寿が孔明を軍事的才能が無いとした為、中傷しますが)。又司馬炎も、孔明に仕えた樊建に話を聞き、現在の自分に必要な人物だと、感嘆したといいます。
「秘本三国志」は未読ですので何とも言えませんが、もしかしたらそれは、陳舜臣氏の推論では無いでしょうか?仮説として論じるには、充分な価値があり、大変面白いと思うのですが、検証の作業は、どの資料を用いて行われているのでしょうか?
「秘本三国志」は未読ですので何とも言えませんが、もしかしたらそれは、陳舜臣氏の推論では無いでしょうか?仮説として論じるには、充分な価値があり、大変面白いと思うのですが、検証の作業は、どの資料を用いて行われているのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
68 独眼龍李克用
YASさん初めましてその本については、私も未読です。
諸葛亮が八百長っていうのはあまり考えられないのですが、司馬懿がわざと才能を隠したというか馬鹿やったというのは考えられます。
諸葛亮が、野望を秘めていたとか名声欲があるっていう説はよく聴きますが、実際のところは、諸説ありすぎてわかりませんので八百長をするような人間だったのかもしれません。
しかし、司馬懿が軍を率いているからといってわざと敗走させるのは、考えにくいのではないかと思います。戦術で守りに撤するという蜀の弱点を衝いた要点をきちんとおさえています。諸葛亮が死んだときも、蜀を撤退させているので戦略面として成果はあるといえるのではないでしょうか?
南征に関しては、私は諸葛亮は行ってないと思っているのですが、行ったとしても示威行動であり、あまり戦ってないと思います。統治した者の手腕で民を蜀に取り込んでいったと思います。
正史読んだことがないので、南征については完全に持論です
諸葛亮が八百長っていうのはあまり考えられないのですが、司馬懿がわざと才能を隠したというか馬鹿やったというのは考えられます。
諸葛亮が、野望を秘めていたとか名声欲があるっていう説はよく聴きますが、実際のところは、諸説ありすぎてわかりませんので八百長をするような人間だったのかもしれません。
しかし、司馬懿が軍を率いているからといってわざと敗走させるのは、考えにくいのではないかと思います。戦術で守りに撤するという蜀の弱点を衝いた要点をきちんとおさえています。諸葛亮が死んだときも、蜀を撤退させているので戦略面として成果はあるといえるのではないでしょうか?
南征に関しては、私は諸葛亮は行ってないと思っているのですが、行ったとしても示威行動であり、あまり戦ってないと思います。統治した者の手腕で民を蜀に取り込んでいったと思います。
正史読んだことがないので、南征については完全に持論です
(P900i/FOMA)
70 エイ
YAS殿、宜しくです
さて、『秘本三国志』の名が上がっていますが、これは面白い小説ですよね\(^O^)/
かなり正史を踏まえた上で造り込まれていると思います。
野心ありありの劉玄徳とか、怒っていると大きく見える曹孟徳なんていう描写は生き生きとした姿が想像できます。
ですが、曹嵩を暗殺するのが、劉玄徳の命を受けた趙子龍だったり、
これを基として、八百長説を唱えるのは少しムリがあるのではないでしょうか?
あくまで小説なのですから
さて、『秘本三国志』の名が上がっていますが、これは面白い小説ですよね\(^O^)/
かなり正史を踏まえた上で造り込まれていると思います。
野心ありありの劉玄徳とか、怒っていると大きく見える曹孟徳なんていう描写は生き生きとした姿が想像できます。
ですが、曹嵩を暗殺するのが、劉玄徳の命を受けた趙子龍だったり、
これを基として、八百長説を唱えるのは少しムリがあるのではないでしょうか?
あくまで小説なのですから
(P2102V/FOMA)
71 天草
YAS殿どうも!
『秘本三国志』は私は読んだ事ないですが、エイ殿の書き込み見る限り、面白そうですね。
八百長は私も難しいと思います。そんな余裕はなかったでしょうし、実際に兵士が沢山命を落としているでしょうしね。
諸葛豊殿の、孔明のカリスマ性に対する当時の人民の気持ちは確かに気になりますね。
当時から、彼は人気あったでしょうが、神的な人気だったのか?英雄的な人気だったのか?それとも素直に立派な政治家としての人気だったのか?
どなたかそれらしい記述を知りませんか?
『秘本三国志』は私は読んだ事ないですが、エイ殿の書き込み見る限り、面白そうですね。
八百長は私も難しいと思います。そんな余裕はなかったでしょうし、実際に兵士が沢山命を落としているでしょうしね。
諸葛豊殿の、孔明のカリスマ性に対する当時の人民の気持ちは確かに気になりますね。
当時から、彼は人気あったでしょうが、神的な人気だったのか?英雄的な人気だったのか?それとも素直に立派な政治家としての人気だったのか?
どなたかそれらしい記述を知りませんか?
(PC)
72 YAS
確かに俺個人の推測であり、それが陳舜臣の推測と重なっただけですが、かなり有力だと思いますよ?笑
本当に北伐の意思があるなら、魏延の強襲策を取るべきです。それを魏延を嫌っていたから選択しなかったとすれば、諸葛亮はかなり自分勝手な理由で軍を率いたことになります。また、諸葛亮が安全策を好んだ為、選択しなかったとすれば、聞こえはいいですが、単に臆病なだけです。
次に、兵士がたくさん死ぬという件ですが、諸葛亮は半ば兵士を駒のように扱う節が見られます。何回目の北伐の時だったか忘れてしましたが、歳老いた趙雲を囮に北進したり、さっきも書きましたが魏延や李厳たちを毛嫌いする等、その行為は案外酷かったりします。そういう点から見ると、諸葛亮は神のような存在ではなく、本当に人間性溢れた人物ですね笑
本当に北伐の意思があるなら、魏延の強襲策を取るべきです。それを魏延を嫌っていたから選択しなかったとすれば、諸葛亮はかなり自分勝手な理由で軍を率いたことになります。また、諸葛亮が安全策を好んだ為、選択しなかったとすれば、聞こえはいいですが、単に臆病なだけです。
次に、兵士がたくさん死ぬという件ですが、諸葛亮は半ば兵士を駒のように扱う節が見られます。何回目の北伐の時だったか忘れてしましたが、歳老いた趙雲を囮に北進したり、さっきも書きましたが魏延や李厳たちを毛嫌いする等、その行為は案外酷かったりします。そういう点から見ると、諸葛亮は神のような存在ではなく、本当に人間性溢れた人物ですね笑
(J-SH53_a)
74 大伴
もう何度も書いたので、少々飽きがきているのですが、
「孔明には軍事の才能は無かった」
この考え方ですっきりするのでは?
天才軍師が勝てなかったのは何故か?
と考えるから、孔明が仲達と取引していた等と、突拍子も無い説が必要になるのですよ。
「孔明には軍事の才能は無かった」
この考え方ですっきりするのでは?
天才軍師が勝てなかったのは何故か?
と考えるから、孔明が仲達と取引していた等と、突拍子も無い説が必要になるのですよ。
(F2102V/FOMA)
75 諸葛蘭
秘本三国志は学生時代に読んだ記憶がありますが、確か張魯の母がどんなに年老いても美しい(吉永小百合みたいな感じかな?)という設定だったような。
ただ、小説家として結果を逆算して作られたストーリーなので、暗殺や裏取引などを事実ととらえるには少々難があります。
ただ、小説家として結果を逆算して作られたストーリーなので、暗殺や裏取引などを事実ととらえるには少々難があります。
(N2051/FOMA)
76 エロハシ
法正のスレに「人を評価する時、個人的感情を排して、その人物の能力を評価する。
孔明の美徳の一つですね。」とありますが、魏延の面ぁ見ただけで反骨の相がある。と判断した所や、劉備の諫めも聞かず馬謖を重用した所を見ると、俺には孔明が感情に流された人物評価をしていたとしか思えないのですが…
検証お願いしますm(__)m
孔明の美徳の一つですね。」とありますが、魏延の面ぁ見ただけで反骨の相がある。と判断した所や、劉備の諫めも聞かず馬謖を重用した所を見ると、俺には孔明が感情に流された人物評価をしていたとしか思えないのですが…
検証お願いしますm(__)m
(P900i/FOMA)
77 大伴
反骨の相は通俗演義ではありませんか?孔明は魏延を大事にしていたと思いますよ。長安急襲案を退けたのは、魏延の才を惜しんでの事ではないでしょうか。
馬謖に関しては、見込み違い、贔屓目(贔屓では無い)等、感情とは別の理由だと思います。
馬謖に関しては、見込み違い、贔屓目(贔屓では無い)等、感情とは別の理由だと思います。
(F2102V/FOMA)
78 くわぁまん
孔明は軍事より政治に精通していた…。
と言うのは有名な話。疲弊した蜀を豊かにするために手腕が発揮されるわけですが、前漢、武帝のとき『塩鉄論』なるものが論議されそれを用いて蜀の富国に力を入れた…。
と、この『塩鉄論』どなたか読まれた事有りますか?
と言うのは有名な話。疲弊した蜀を豊かにするために手腕が発揮されるわけですが、前漢、武帝のとき『塩鉄論』なるものが論議されそれを用いて蜀の富国に力を入れた…。
と、この『塩鉄論』どなたか読まれた事有りますか?
(SH900i/FOMA)
79 天草
もちろん読んだ事はありませんが、少し調べてみました。
漢の時代、連年の外征や土木工事によって財政が窮迫したため塩鉄の専売を始めた。漢の制度は純粋官営とも称すべき徹底的な専売制であり,生産・運搬・販売などすべてが官営によっていた。これにより国庫は充実したが,一面塩価の昂騰や塩質の低下を招き,民衆の立場からの反対論者が現われた。これらの論者と財務官僚とのあいだに展開された経済論争は『塩鉄論』にまとめられていて,漢代の政治・社会・経済考察する資料として重要である。
長文ですが、こんな感じです。話しは変わりますが、私の住む大分県には、温泉で有名な別府市という街があります。この温泉街の中に『鉄輪温泉』と呼ばれる地があります。何て読むか分かりますか?
漢の時代、連年の外征や土木工事によって財政が窮迫したため塩鉄の専売を始めた。漢の制度は純粋官営とも称すべき徹底的な専売制であり,生産・運搬・販売などすべてが官営によっていた。これにより国庫は充実したが,一面塩価の昂騰や塩質の低下を招き,民衆の立場からの反対論者が現われた。これらの論者と財務官僚とのあいだに展開された経済論争は『塩鉄論』にまとめられていて,漢代の政治・社会・経済考察する資料として重要である。
長文ですが、こんな感じです。話しは変わりますが、私の住む大分県には、温泉で有名な別府市という街があります。この温泉街の中に『鉄輪温泉』と呼ばれる地があります。何て読むか分かりますか?
(PC)
83 大伴
このスレッド、大人気だったのに、鉄輪で……。五徳はこの字で「かなわ」ですね。
孔明という人は、なまじ優れていた分、人に仕事を任せる事が出来なかったのではないでしょうか?確か帳簿を点検して、係のおっさんに怒られたりしていますよね?死因も過労死ではありませんか?
孔明という人は、なまじ優れていた分、人に仕事を任せる事が出来なかったのではないでしょうか?確か帳簿を点検して、係のおっさんに怒られたりしていますよね?死因も過労死ではありませんか?
(F2102V/FOMA)
84 ユウキ
過労死…何かのテレビで見ましたが過労死って病気は日本人特有で外国での病名もKAROUSHIだそうですスペル間違ってる
もし孔明が過労死なら日本人気質持ってそうですねただ孔明の病名だとか詳細ってあんまり聞かないですが…過労死は確か突然死亡って感じですよね
もし孔明が過労死なら日本人気質持ってそうですねただ孔明の病名だとか詳細ってあんまり聞かないですが…過労死は確か突然死亡って感じですよね
(P900i/FOMA)
85 天草
さすがにこのスレは息が長いし、100に届きそうですね。
魏では、荀イク・荀攸を初めとして、いろんな人物が多才な人物を推挙して、見事に大成してますよね。
孔明はこんな人物を推挙した!とかいう話はありませんかね?
人物眼という、方向から見た諸葛亮はどうなんでしょうか?
魏では、荀イク・荀攸を初めとして、いろんな人物が多才な人物を推挙して、見事に大成してますよね。
孔明はこんな人物を推挙した!とかいう話はありませんかね?
人物眼という、方向から見た諸葛亮はどうなんでしょうか?
(PC)
86 ユウキ
トウシなんかは諸葛亮の大抜擢ってイメージがありますが…結果同盟には成功してますね馬ショクに関しては能力とは別に人間性まで見抜けと言うのは酷かもしれないですが失敗、李厳に関しても陸遜と五分と言ってる割りに補給ミス、孟達の寝返りの際も孟達の詰めの甘さを見抜けなかった姜維に関しては何とも言えないですが…
逆にショウエン、ヒイ、トウイン、なんかはよく頑張ったようですし…。文官を見る目はあったが軍人を見る目は無かったのでは…?
逆にショウエン、ヒイ、トウイン、なんかはよく頑張ったようですし…。文官を見る目はあったが軍人を見る目は無かったのでは…?
(P900i/FOMA)
87 C
ジュン家は、もともと名門ですからねある程度は、なにもしなくても出世を志すなら集まるでしょう
どうも国力としての差のようです。育成面でも孔明もがんばったが追い付かなかったようです。
ここらの差は、完全に曹操の人材重視と才能重視によるものかと考えることも可能かと
どうも国力としての差のようです。育成面でも孔明もがんばったが追い付かなかったようです。
ここらの差は、完全に曹操の人材重視と才能重視によるものかと考えることも可能かと
(F900i/FOMA)
88 関羽
ショクには武官向きの人がなく、文官のなかで使えそうな人を武官にした感がないですか?
李厳は北伐に連れて行って欲しかったですが、馬謖は馬良みたいに外交官として使った方がいいような気します。
李厳は北伐に連れて行って欲しかったですが、馬謖は馬良みたいに外交官として使った方がいいような気します。
(W11H/au)
89 赤龍
そもそも、中国では文人が戦時では将軍職を与えられて、軍を率いるという事が一般的でした。文尊武卑の伝統です。戦乱時は武人の台頭も目立ちますが、時局が落ち着くにつれ、再び文人優位の傾向にもどりつつあるのでしょう。これは魏でも、呉でも同様と思います。
(J-SA05)
90 天草
すいません。
書き方が悪かったようです。
荀イク・荀攸らが推挙した魏の人物は、皆期待に応え、名を残しているのですが…という意味です。
孔明が推挙した人物に、そういう人物がいたでしょうか?
果たして孔明の人物眼は?
書き方が悪かったようです。
荀イク・荀攸らが推挙した魏の人物は、皆期待に応え、名を残しているのですが…という意味です。
孔明が推挙した人物に、そういう人物がいたでしょうか?
果たして孔明の人物眼は?
(PC)
91 ユウキ
孔明の人物眼…出師の表はある意味推挙??内政面ではとか、忠義の士である。とか…
ただ在野に眠る逸材を発掘、もしくは知人を推挙なんて聞かないですね…
前レスにも書きましたがトウシは孔明の大抜擢、ショウエンに関しても確かそんなエピソードがあったはず。ホウトウは孔明とゆうより魯粛かな?
ただ在野に眠る逸材を発掘、もしくは知人を推挙なんて聞かないですね…
前レスにも書きましたがトウシは孔明の大抜擢、ショウエンに関しても確かそんなエピソードがあったはず。ホウトウは孔明とゆうより魯粛かな?
(P900i/FOMA)
94 大伴
孔明の付き合いは、例えば徐庶は元は無頼漢ですし、催州平も銅臭とあだ名されていましたから、エリートと交わっていた訳では無いと思いますが……
そう言えば、孔明の友人として名が上げられている人は、一人も蜀にはいませんね。催州平を除き、皆魏に仕えています。誘えなかったのでしょうかね?
そう言えば、孔明の友人として名が上げられている人は、一人も蜀にはいませんね。催州平を除き、皆魏に仕えています。誘えなかったのでしょうかね?
(F2102V/FOMA)
95 佐奈
久しぶりです。言い方悪いですが。私は彼は自分の才能を見せ付けるために。劉備に仕えたのではとおもいます。曹操に仕えないのは私情もあると思いますが、才ある人物が多いので、目立てないから。けっこう、自分勝ってにやってますよね。馬ショクに大事任せてはいけない!と劉備は忠告したのに無視するし。人を見る目も・・いまいちだし。しょくに人材が少ないのも確かですが、自分の思うように、入れ替えたり、自らが行ったりしたので人材が育たなかったのではと思います。酷評でファンの方すみません。
(N252i)
97 伏仁傑
初めまして。武則天の臣テキジンケツです。テキは漢字が出ないので便宜上「伏」になってます。
諸葛氏の人材登用を語る上で徐庶は良い物差しになります。彼がギへ去った後に中郎将に任命されたと聞き「徐庶ほどの人物がそんな位とは…ギは人材が多いのか」と嘆息したエピソードがあります。ギは人材が多いのもあったのでしょうが、後の九品官人法に準ずるような勲功による登用制度があり、仮に徐庶が演義にあるほどの才能があったとしてもそう簡単に元勲達を押し退けて登用される環境では無かったのでは無いかと推測します。当時ギは正統王朝たる後漢の天子を擁する「公国」であり一方のショクは地方の軍閥でしか無い背景を忘れてはなりません。諸葛氏の人材登用のブレは俗に言う荊州派と益州派の諸将の権力闘争に影響されていると推論します。街亭での馬ショク任用は両派の影響を余り受けない新世代「ショク」の武将を育てようとした焦りから生まれた失敗なのです。孟達をあのような場所に任命せざるを得なかったのはショクがギに比較して「近代化」に立ち遅れていた証明と言えるでしょう。地方と中央の文明差は現代の我々が想像するより遥かにあったと思います。
諸葛氏の人材登用を語る上で徐庶は良い物差しになります。彼がギへ去った後に中郎将に任命されたと聞き「徐庶ほどの人物がそんな位とは…ギは人材が多いのか」と嘆息したエピソードがあります。ギは人材が多いのもあったのでしょうが、後の九品官人法に準ずるような勲功による登用制度があり、仮に徐庶が演義にあるほどの才能があったとしてもそう簡単に元勲達を押し退けて登用される環境では無かったのでは無いかと推測します。当時ギは正統王朝たる後漢の天子を擁する「公国」であり一方のショクは地方の軍閥でしか無い背景を忘れてはなりません。諸葛氏の人材登用のブレは俗に言う荊州派と益州派の諸将の権力闘争に影響されていると推論します。街亭での馬ショク任用は両派の影響を余り受けない新世代「ショク」の武将を育てようとした焦りから生まれた失敗なのです。孟達をあのような場所に任命せざるを得なかったのはショクがギに比較して「近代化」に立ち遅れていた証明と言えるでしょう。地方と中央の文明差は現代の我々が想像するより遥かにあったと思います。
(W11K/au)
98 伏仁傑
長文スイマセン。
諸葛亮が偉大な文官であった事は否定しませんが、当時ショクの荊益州の寄り合い所帯的な事情からおのずとやれる事に限界があったと思われます。法正との仲を正史で特筆されているのも、荊派である諸葛氏が益派の頭目株である法氏にいかに気を遣っていたか…とも読む事が可能です。
特に荊州失陥により荊派が地盤を失った後は益派に対する発言力はかなり低下したと思われますしその中で諸葛亮が音頭を取って国を動かして行くにはギとは比較にならぬ政治的な苦労があったでしょう。いずれにしても今日の感覚では一概に評価するのは実に難しい事だと思われます。
諸葛亮が偉大な文官であった事は否定しませんが、当時ショクの荊益州の寄り合い所帯的な事情からおのずとやれる事に限界があったと思われます。法正との仲を正史で特筆されているのも、荊派である諸葛氏が益派の頭目株である法氏にいかに気を遣っていたか…とも読む事が可能です。
特に荊州失陥により荊派が地盤を失った後は益派に対する発言力はかなり低下したと思われますしその中で諸葛亮が音頭を取って国を動かして行くにはギとは比較にならぬ政治的な苦労があったでしょう。いずれにしても今日の感覚では一概に評価するのは実に難しい事だと思われます。
(W11K/au)
99 天草
伏仁傑殿>初めまして!これからもよろしくお願いします!
お話し読ませていただきましたが、なかなかの知識をお持ちのよう。これからも意見してください。
さて、法正が益州派の頭目株…というのは私は少し違う気がしますが、他の書き込みは妙に納得しました。
特に馬謖や孟達を派閥に属さない新世代と考える意見は斬新で面白いですよね。
諸葛亮は彼らの力を見誤ったのではなく、仕方がなかったとするのは、そうなのかもしれません。
さて諸葛亮スレは相変わらずの人気で、100に届きそうですね。>>100の方は新スレをお願いします!
お話し読ませていただきましたが、なかなかの知識をお持ちのよう。これからも意見してください。
さて、法正が益州派の頭目株…というのは私は少し違う気がしますが、他の書き込みは妙に納得しました。
特に馬謖や孟達を派閥に属さない新世代と考える意見は斬新で面白いですよね。
諸葛亮は彼らの力を見誤ったのではなく、仕方がなかったとするのは、そうなのかもしれません。
さて諸葛亮スレは相変わらずの人気で、100に届きそうですね。>>100の方は新スレをお願いします!
(PC)