1 子竜

劉玄徳について

このサイトの中では悪人、偽善者と言われている劉備ですが、その理由は何でしょうか?皆様にはその理由を挙げてもらいたいと思います。私はそれに対して、逐一弁護していきます。あまり気分の良くなるものではありませんが、どうかよろしくお願いします。
(W11K/au)
2 天草
おもしろそうですね!

私が思う劉備のひどい素行は、何といっても妻子を何度も見捨てて、自分だけが生き残ろうとしているところです。

呂布による徐州占拠時、曹操による徐州占拠時、荊州からの逃避時、などなど。。。いかがでしょうか?
(PC)
3 独眼龍李克用
彼が生きているだけでたくさんの人が死んでいる(もちろん誰がいてもそうなんだろうけど)。
彼は民のためと言ってはいるが、結局自分の一族(漢王室)のためにしか行動していない。
蜀がよく治められたのは諸葛亮などのおかげで彼に実際能力(人のためになる)があったとはあまり思えない。
彼には皇帝になる野望があったと思われる(確証無し)。
彼は頼った人間を見捨てている。
最終的には自分の私怨(でないにしても個人の感情で)で軍を動かしている(たとえ戦略があったとしてもそうとしかみれない)。

徹底的に言いましたが、劉備はよくわからない人なので私は好きでも嫌いでもないです。なので悪いと思ったところだけ挙げてみました。
(P900i/FOMA)
4 子竜
早速お書きくださりありがとうございます。皆様の不快感を煽ってしまうのでは?と思い、内心ビクビクしておりました。一度に全部は無理なので、まずは管理人さんのご意見から
順番に弁護していきたいと思います。まず、呂布による徐州占拠のときについてですが、この時劉備は侵略してきたエン術とワイ陰で戦をしていました。双方睨み合ったまま1ヶ月が過ぎた時、呂布がその隙をついて下ヒを襲撃しました。その時城を守っていた曹豹は呂布に寝返り、彼を城に迎え入れてしまうのです。つまり、この時劉備は部下の裏切りの為に妻子はおろか、城まで奪われてしまったのです。その後劉備は、呂布と和睦をはかり、見事に妻子を取り戻しております。従ってこの件に関しては、戦わずに妻子を取り戻したことを誉められこそすれ、非難の対象にはならないと思います。
もっとも、この後再び呂布の裏切りにあい、曹操の所に落ち延びていくのですがね…。
(W11K/au)
5 子竜
先ので書き忘れましたが、二度目の裏切りの時にも妻子は捕まっていますが、これは劉、曹連合軍によって打ち破った時に取り戻しております。この点については呂布を評価できるのではないでしょうか。
続いて、曹操との戦いの時について述べさせて頂きます。
徐州の時については…これは推論になってしまいますが、曹操に軍勢をことごとく奪われ、関羽ですら捕虜になる位ですから、よっぽど酷い負け方だったのでしょう。おそらく劉備は身一つでエン紹の所に落ち延びていったのだと思います。確かに周りから見れば見捨てたように見えます…が、逆に聞きます。自分の身一つすら危ういこの状態で、妻子を連れて落ち延びることができますか?おそらく曹操はおろか、孫武にもできないと思います。誰にもできないことで非難するのは愚の骨頂だと思います。
(W11K/au)
6 子竜
最後に長坂の逃亡戦についてですが、当陽についた時、劉備軍の兵数はわかりませんがあまり多くなく、付き従う民衆は十万前後、荷車は数千台、これに対して曹操軍は精鋭の騎兵五千。大混乱に陥るのは火を見るより明らかです。確かに劉備伝には「妻子を棄てて…」とありますが…ここからまた推論になってしまいますが、、統制が取れなくなり、どこに行ったのかもわからない。やむを得ず見捨てたのが実状だったのではないでしょうか。
(W11K/au)
7 子竜
次に独眼竜李克用殿の意見ですが…
まず、劉備が生きているだけで…という項目についてですが、ご自身書いてらっしゃる通り誰だろうが天下人になった以上多くの人間を犠牲にするのはやむを得ないことだと思います。むしろ、それは英雄が背負うべき業だと思います。
次に、皇帝になる野心があった…という項目についてですが、これについては何も言えません。何しろ、判断材料が何一つ無いのですから。あえて言うならそれは結果論にしか過ぎないのではないでしょうか。考えようによっては曹操も皇帝になろうという野心があったと言えなくもないですからね。
まだ項目が幾つか残っていますが、小休止させて頂きます。
(W11K/au)
8 ヤスシ
劉備は好きですよ。
ただ、それ程能力があったようには思えません。
彼の能力は人気。
これがかなりクセモノかと思います。
退却戦の際、民衆を連れ逃げていますが、これは民衆を盾にしていたととれないこともないと思います。
ついて来た…のかもしれませんが、置いて逃げた方が民衆にとっては危険が少なく、劉備軍にとってはより早く逃げられるかと思います。
如何でしょう?
(W11H/au)
9 天草
信じた仲間>将兵>家族

という図式が劉備の根底にあったから、日本でも人気が出たんだと思います。日本人好みですもんね。しかし、実際にはこれが多くの悲劇を生んだという事ですよね。
最近ではこの構図に
信じた仲間と自分>将兵>家族
という構図が上乗せされ、批判の的になっている気がしますね。

そういう超ミーハーな私も大の蜀ファンなんですけどね(笑)
(PC)
10 子竜
小休止のつもりが大休止になってしまいました…。スイマセン。
さて、独眼竜李克用殿のご意見の続きから…
劉備が民のためと言いながら…という項目についてですが、これは何とも言えないと思います。なぜなら、自分が「こうなればいい」と希望して行動しても、必ずしもその結果通り行くとは限らないからです。このご意見は少々抽象的過ぎて答えにくいです。できればそう思う具体例を挙げてくださればもう少しうまく答えられると思うのですが…。
次に、ショクが良く統治されていたのは…という項目についてですが、確かに劉備には政治的才能といった民衆や戦に直接関係するような能力を伺うことはできません。その代わり、彼は優れた鑑識眼を持ち、人の能力を正しく評価する能力を有していたと思います。…続く
(W11K/au)
11 子竜
…続き
例えばギ延、馬ショク、張飛、諸葛亮、馬超などです(張飛、諸葛亮はズルいかな…)。また、これは推論ですが、無闇に能力に秀でていなかったために、部下の能力をさらに引き出すことができたと思います。部下が適材適所で大いに能力を生かせば、小さくは国益につながり、大きくは民衆のためになります。これは間接的に民衆に貢献したと言えないでしょうか?劉備の立場は兵の将ではなく、将の将といった立場です。何も政治、外交、軍事といったものだけが民衆のためになるわけではないのです。
(W11K/au)
12 子竜
次に、頼った人間を全て見捨てて…という項目についてですが、一応それぞれに義理は果たしていると思います。公孫サン…田楷と共に対エン紹との小競り合いで功績を挙げる。呂布…語る価値無し。曹操…下ヒの戦いに従軍。エン紹…官渡の戦いの最中に曹操に反旗を翻した山賊を率いて徐南方面を撹乱。劉表…理由はどうあれ劉キを荊州刺使として補佐する。また、見捨てた理由として…推論ですが、どれもこれも皆「漢朝再興」とは到底相容れない人間ばかりだったからだと思います。
(W11K/au)
13 子竜
最後の個人的な感情で…という項目についてですが、先に述べたことと共通してくるのですが、劉備は統率者としては当代随一ですが、武将としては極めて凡将です。彼に戦場での活躍を期待するのは酷というものでしょう。また、公人的識見よりも個人的感情を優先させるのは劉備の魅力の一つだと思います。だからこそ関羽、張飛、諸葛亮、趙雲といった武将が幾度となく死線に立ってもついてきたのではないでしょうか?それに、漢中侵攻戦は個人的感情で引き起こされた戦でしょうか?
(W11K/au)
14 天草
漢中へ侵攻したのは、法正の進言ですから、純粋に蜀の戦いと見てもよろしいかと。
最も問題なのは、やはり夷陵でしょうね。あれは間違いなく私怨でしょう。
(PC)
15 子竜
次に、ヤスシ殿のご意見についてですが…
最初に能力についてですが、これは先に述べたので飛ばします。
次に長坂にて民衆を連れて歩くよりは…という項目についてですが、確かにその通りです。が、それはあくまでも客観的に見ただけの意見です。もしこの時劉備が民衆を見捨てていたら、劉備は二度と歴史の表舞台に立つことはできなかったでしょう。何しろ劉備は民衆を味方につけてここまで生き残ってきたのですから。ここで民衆を見捨てれば確かに彼らは全部とは言えませんが、大多数生き残ることができるでしょう。しかし彼らは見捨てられたことを怨み、口々に「あいつは民のためと言いながら結局危機に陥ると我が身可愛さ逃げやがった」と蔑まれるでしょう。…続く
(W11K/au)
16 子竜
…続き
結果、夏口にたどり着いても、劉備はすっかり評判を落としてただの偽善者に成り下がっているので誰にも受け入れられず、曹操か、孫家の坊ちゃんに滅ぼされることになるでしょう。繰り返しになりますが、劉備は世論…民衆を味方に付けたからこそ、最終的に三国の一角を担うことができたのです。それに現場の人間にしてみれば、倒懸の急の如き状態にあった民衆を見捨てて自分達だけで逃げ出すのは愚の骨頂、下の下策だと考えると思います。もっとも、ショク好きの私としては、自分のくだらない推論抜きで、劉備は真心から民衆を見捨てていくことはできない…と考えたと信じたいですものですが…。
(W11K/au)
17 子竜
管理人さん…
世論というのは必ずしも一定ではなく、必ず人の感情、考えによって変わってくるものです。それが悪い方向であっても…です。もっとも、私は気に入った人間を弁護できる限りするだけですけどね…。
イ陵に関しては明らかに私怨だとわかります。…が、旗揚げした時からずっと共に歩いてきた仲間を殺されたことに対しての行動を諫めこそすれ、誰が非難することができましょうか。それに、曹操の虐殺に比べれば、まだささやかなものだと思うのですが…。
(W11K/au)
18 子竜
ここまでに書かれているもの全てに一通り、意見を書かせて頂きました。「この文章は明らかにおかしい」などありましたら、どんどん指摘して下さい。
ここまで超×∞長文、連続の書き込み失礼致しました。
(W11K/au)
19 独眼龍李克用
蜀をとるときはあまり大義名分がないし、だまして乗り込んだようなものですよ。
まあ民はあまり気にしてないようですが。

劉備に人を扱う能力はなかったと思いますよ。
ホウ統は言われるまで能力に気が付きませんし、部下の意見を結構突っぱねてますし。
後、結構配下が離反してますしね(曹操は自分で敵をつくっているようなものだが、劉備はここぞというときに裏切られている。人望はあるが人の心を止められないのではないか)。
(P900i/FOMA)
20 大伴
天下を狙う気持ちがあった事でしょうから、劉備の行為はそういう観点から見れば納得できます。
野心を持つ事を罪としないならば、曹操を裏切り、劉表を裏切り、赤壁後の対呉外交と、裏切りの人生である事も、やむをえないでしょう。

しかし劉備の戴けないところは、徳が有る……というイメージで勝負している所でしょう。人心を得る事によって、物事を有利にしようとしています。
偽悪家を気取る曹操の、颯爽とした態度と比べて、あまりにも潔くない。
現代に例えるならば、払ってもいない年金を払った様な顔をして、他人を攻める政治家みたいなものでしょう。
(F2102V/FOMA)
21 独眼龍李克用
私は劉邦みたいに始めからダメな人はかまいませんが、劉備はよい評判をつくる一方で悪いこと考えているのはどうも…
(P900i/FOMA)
22 子竜
益州侵攻戦の大義名分について…この頃劉備は荊州四郡を統治下において、勢いは大いに盛んでしたが、曹操と正面きって戦うのは無理でした(何しろ相手は中華の約2/3を統治してますからね)。漢朝再興を果たすには、どうしても穫らざるを得ませんでした(戦力的にも道義的にも江東は無理)。まさに苦渋の選択だったと言えます。諸葛亮ですら劉備に天下の大計を尋ねられたときに益州制圧を進めていますしね。それとも李克用殿には他に良い手があったとお考えでしょうか?
ちなみに、民衆があまり騒がなかったのは劉ショウが内政にさして興味を示さなかったのと、劉備がこれまでに大事に培ってきたのが理由ではないかと私は考えます。
(W11K/au)
23 独眼龍李克用
他に方法はないですね。奇想天外なのはありますが、それは現実的でないのでいいません。
食うか食われるかの乱世なので仕方ないとはいえますが。

負けず嫌いなんでいわれるたびに反骨意識が湧き出てくる。
まあ劉備がいなけりゃ張飛なんてどっかの山賊ですし趙雲は公孫サンの所で死んでたでしょうしあの時代を魅力的なものにしたのは劉備ですよね( -_-)
(P900i/FOMA)
24 子竜
次にホウ統についてですが、正史を読む限りでは無能と判断されてもしょうがないんじゃないでしょうか?仕事をロクにしてなかったんだし…。
次に部下の意見を…という項目についてですが、劉備だってそれなりに人の意見は聞いてると思います。今はホウ統の件しか挙げることができませんが。それに何でも人の意見を聞いていたら傀儡政権になってしまいますよ。
(W11K/au)
25 子竜
李克用殿…
意見書いているうちに熱くなりすぎてました。文章上でのご無礼お許し下さい。
最後の裏切った部下についてですが、
士仁、ビ芳は関羽の、ハンキョウ、張達は張飛の身から出た錆だと思います。曹豹、孟達は小者で語るに足らず。黄権は進退きわまってやむなくギに投降したのは非常に残念なことです。陳グンは…推論ですが、ただ一度意見を却下されたがために、袂をわかつことになったのではないでしょうか。とりあえず思いつくのはこの八人ですが、結局そのような事態になったのはやはり劉備にありますね。ですので、優れた鑑識眼がある…という項目は却下します。
(W11K/au)
26 天草
私はやはり劉備の悪行を語る上では夷陵は避けて通れないと思いますよ。
私怨の兵を挙げて、多大な損害を出した。確かに聞き方によってはある意味美談かもしれませんが…。
事実、多くの将兵を失ってますからね。
(PC)
27 大伴
フ水関で劉備は勝ち戦の為に宴会を開き、「今日の会、楽しと謂うべし」と述べたそうです。これにホウ統が返した言葉は以下のものでした。
「人の国を伐し、而似歓を為すは、仁者の兵に非ざるなり」
彼の本質を言い得ている気がします。窘められた劉備は腹を立て、ホウ統を下がらせました。

まぁ劉備の上手さはここからかも知れませんね。すぐにホウ統を呼び戻しています。人心掌握の為の計算には、流石に抜群の才がある様です。一度立腹しながら、それを損とみればすぐに忘れたふり。頭ではわかっても、なかなかできる事ではありません。
(F2102V/FOMA)
28 子竜
長らく間を空けて申し訳ありませんでした。大伴殿のご意見について返答を考えているうちに、劉備はおろか、全ての武将の良い所、または何をもって人を善人として評価すれば良いかわからなくなりました。天下を正したい。しかし金も軍事的、政治的才能もない。だったら善人という部分で乱世を生き残っていくしか方法がないじゃないですか。それが駄目なら劉備はどうやってエン紹、曹操といった有力大名のお坊ちゃん共と渡り合っていけば良いのですか?また劉邦も劉秀も趙匡インも劉裕も劉備と同じように寒門の出です。彼らも善人を売りにして帝位につきました。彼らも全て偽善者と評価するのですか?無礼を承知でお聞きします。
管理人さん…
今の私には劉備は深く考えず、全てその場の感情で言葉を発し、行動したのでは…としか述べることができません。すいません。
少し頭を冷やすことにします。
(W11K/au)
29 大伴
子竜さんを攻撃するつもりではなかったのです。結局は大昔の話。我々は想像や推測をするより他なりません。
しかし↑の話は、少なくとも、ホウ統は、劉璋から国を奪っている、という自覚があったという事ではあるでしょう。

私は世の中に、絵に書いた様な善人がいるとは思わないのです。

善人振る人。
善人を目指す人。
善人のつもりの人。

これらの人々が、善人だと思われているだけだと思っているのです。
劉備は確かに、人材、資金、出事、どれをとっても他人にかないませんでしたから、人心を得るという行為が、最も効果的だったのでしょうね。
(F2102V/FOMA)
30 天草
子竜殿>頭を冷やす必要などないですよ!子竜殿の意見は立派です。

劉備が善人か悪人か?
という二つの判断だけなら、なかなか答えが出ませんよね。曹操だって孫権だって、良い話しと悪い話が後世に伝わってますしね。

ただ、長い間日本人に劉備=善人というイメージが根付いているから、反論が多くなるのでしょう。

元々この討論場自体、答えの出るものは少ないんですから、ガンガン主張していきましょう!
(PC)
31 大伴
>>>168では別の話題が進行中ですので、こちらで質問します。

呂布の配下の名前は、臧覇や楊奉などの協力者を除いてもかなりの名前が上げられますよね?この徐州で呂布と争っていた時の劉備配下には、誰がいますか?呂布に比べて本当に人材が薄かったのでしょうか?

関羽、張飛、麋竺、麋芳、孫乾、簡雍

私はこの程度しか把握していません。どなたかご教授下さい。
(F2102V/FOMA)
32 ユウキ
大伴さん、陳登は違いますか??
(P900i/FOMA)
33 大伴
陳登は呂布配下で曹操のスパイです。後に曹操に仕えています。
(F2102V/FOMA)
34 たろう
チンゲン(チングン?)もいませんでした?
(W21SA/au)
35 赤龍
陳登は、陶謙死後の劉備が徐州を支配してた時期は劉備配下。劉備が徐州を追われ、呂布が徐州を支配してからは、呂布配下。後に曹操に内通。といったとこでしょうか。
(J-SA05)
36 赤龍
陳羣は豫州刺史時代(陶謙に身を寄せ、徐州を譲られる前)の劉備に仕えてましたが、劉備が徐州に行く際には(陳羣は反対している)、ついて行かなかったと思われます。先の陳登といい、一般的な地元の有力者にとって、土地を離れてまでついて行く義理も、魅力もまだ無かったという事でしょう。麋竺なんかが特殊なんでしょうね。蜀の記録には最後まで従った人だけが記録され、その他の記録は無かったのでは?
(J-SA05)
37 大伴
しかしここまで劉備配下の記録が無いと、蜀が人材不足だったというのもわかる気がします。

曹操には陳留で旗揚げして以来の人々がいますし、孫権には父親の時からの家来がいますからね。
(F2102V/FOMA)
38 大伴
意外なところにヒントが(笑)私、すっかり見逃していました。>>>166がいましたね。
(F2102V/FOMA)
39 騎都尉
初めまして、私の劉備像は、聖人君主ではなく、むしろ野心に満ちた機転のきく男だったと思います。今までの、イメージが良すぎた。君主としては意志が強く寛大、将としては機敏、そしてなにより人を引きつける魅力があった。そしてその魅力と真偽不明の血筋で庶民から皇帝になったやはり英傑だと思います。
(W21H/au)
40 しす
劉備=聖人君主というのは水滸伝の宋江、西遊記の三蔵、封神演義の姫発と同じで、所謂中国人の理想的な君主像をおしつけられたものでしょうね。
だがそれは現代の日本人から見ればかえって劉備という男の魅力を損ねているような気もします。
(PC)
41 しす
劉備スレあったの忘れてた…
危うく新スレ立てるとこでしたよ(汗)
というわけでage
(PC)
42 無問題
しかし、この人も散々非難されてもおかしくないようなことをやってるのに名声がおちてないですよね…。そのへんが曹操と違いますよね。
(W21K/au)
43 寿君
 やっぱり、名声が落ちないように色々手を講じてたんでしょうかね。
 でも、私の知り合いにもいるんですが、いますよね。「この人、結構ズルイのに、なんでこんなに人気があるんだろう。得な人だなあ」って人が…。例えば、今の我が国の総理大臣の就任当初とか…。
(P900i/FOMA)
44 門弟
劉備は平和のために蜀を建国しました。人民のためには規則が必要だから、時には非道な事も必要なんじゃないんですかね。例えば養子の劉封を処刑したとか。関羽への援軍を断ったせいで、関羽はしんでしまいましたし、これは現代でも通用すると思いますよ
(W21T/au)
45 子竜
>>44
門弟さん、初めまして!
早速、門弟さんの御意見についてですが、劉備が何の為に戦っていたか…というのは、史料だけでは判断するのは難しいと思いますよ。言い替えれば、美味しい所盗りの腹黒いヤツと断定することもできませんが。また、劉封については、他スレにやむをえず断ったという話が出ていたと思います。また処刑については何より劉備自身が後悔しているので、英断とは言い難いのではないでしょうか。
(W31SA/au)
46 門弟
子龍さんとの話しは勉強になります。劉備は黄巾の乱の人々の飢え、恐怖を見て関羽、張飛と立上がりました。また蜀自体が漢を再建しようした理由も人民の生活安定=平和とおもい、もう一度漢を再建しようとしたんでしょう。そうでなかったらあの正義感に厚く現代まで「関廟」がある関羽が劉備に付くはずがありません。劉封が援軍を断ったのは武将・孟達の進言で断ったと書いてありました。だから孟達を切れば終わる、ということではないでしょう。いくら家臣が進言しようと判断するのは大将ですからね。しかし劉備も関羽が死に自分の立場上息子を切らないと行けない。自分なら到底耐えきれる事じゃありません。(自分は子供はいませんが)そこまでしても漢の再建は必要と考えていたんじゃないんですかね。
(W21T/au)
47 ストラップ
>>46
信仰の対象である関帝爺と、歴史上の人物である関羽を同一視している時点で、推論に短絡がある。
(PC)
48 赤龍
そもそも、劉備の旗揚げの理由、そして目指したものが、純粋に民のため、平和のためというのは小説である『演義』なんかの設定と思えます。それを事実と決めつけるのは危険。
実際はどうだったのか?>>45で子竜さんの言われるように難しいものがあります。
例えば、劉備は幼い頃家の隅にある見事な桑の木の下で「こんな飾りの皇帝の車に乗るんだ」と言ってます。野心あふれる人物で、戦乱を出世の機と考えたとはとれないでしょうか?漢の再興は自分の劉姓を生かす武器として、大義名分にしたのだとは?
(PC)
49 赤龍
という感じで、『演義』は極めて蜀に好意的に、美化して書かれているもので、実際の歴史はもっと様々な見方があります。
いま話題の漫画『蒼天航路』なんて読まれてみても、そうした事が感じられると思いますよ。
(PC)
50 しす
私も劉備の挙兵の目的は野心、あるいは上昇志向の強さからだと思います。
一方で個人的には、演義に見えるような戦下手で女々しくて、何かと言うとすぐに涙を流したりといった人物像からは程遠い、下層階級上がりの逞しさを感じます。
これは彼に限ったことではなく、『水滸伝』の宋江、『西遊記』の三蔵法師、『封神演義』の姫発にも言えることですよね。
物語的にはちょっと情けない大将を豪傑が支えるという構図の方が受け入れられやすいということなんでしょうか。
私は上品なイメージの演義の劉備よりも、どこか野卑な印象のある正史の劉備像の方が好きですけどね。
(PC)
51 陳礼
皆様初めましてデスm(__)m
ROM専でしたが思い切って書かせていただきますm(__)m大した知識もない稚拙な文ですが、宜しくどうぞm(__)m

>>46
門弟サン、劉備=正義という認識は演技限定だと思います
劉備が漢室を潰さないでおこうとした理由は>>48で赤龍サンがおっしゃっていますが、皇室と同じ劉氏を武器にするためだと思います。
事実、劉備は自ら中山セイ王劉勝の末裔と名乗っています。(実際そうかどうかは別として)

だから必ずしも民を憂いた結果という訳ではないと思います

劉封を処断した理由ですが、諸葛亮が馬謖を処断した理由と同じで、親しい者でも容赦なく処断することで軍紀を揺るぎない物にする為と、劉備自身の激しい怒りの表れではないでしょうか??
拙く重複する内容の長文・乱文失礼しましたm(__)m
(F901iC/FOMA)
52 はくふ
皆さんお願いします。
私の劉備像は曲者、喰わせ者、人たらし。好きです。
さて、どうもしっくりこないのは益州侵攻なんですが、子龍さんが仰っていたようにあの時点で劉備の中原回収は不可能なんですし、劉璋を擁立してもいいはずでは?少なくとも劉備よりは確実に漢王室と縁があるんですし。劉璋は名君ではないですが暗君でもないのですから。劉備の目的が本当に漢王室復興ならそっちのほうがいいでしょう。皇帝への野心見え見えのような気がします。
(P900iV/FOMA)
53 門弟
みなさんご意見ありがとうございます。たしかに劉備は野心家で自分が中山王・劉勝の末裔の立場を利用した結果、漢の再建がなったといってもおかしくないことです。しかし劉備が野心家というのは少し違うと思いますよ。関羽からの信頼、孔明への三孔の礼、劉表から荊州を譲り受けるとかはすべて劉備には魅力があり、その思考もしっかりしていたと考えたら理屈が通る気がしますがどうでしょう?
(W21T/au)
54 じょ〜
おや?演義でも劉備は荊州を譲り受けてはいないはずですよ?
劉表の次男、劉ソウが後継者になったけれど、南下してきた曹操軍に降伏して荊州は曹操軍のものになったはずですから。
ただ、劉表の長男の劉キの名を利用して、劉備がいろいろやっただけで(;^_^A


説明不足ですいませんm(__)m
(N900iS/FOMA)
55 くわぁまん
おおぉ、激論が繰り広げられてますなぁ。(好いぞ、好いぞ)

劉備は正義か?と言う話は演義は悪で正史は善か?と議論にすり替わっている様に思えますが、如何かな?

時代の背景、情勢により正史が必ずや正しい物とは限りません。皇帝と記録係との関係が係わっている事は多々有りますからね…。

さて、劉備は正義かと言う議論についてですが、彼は黄巾の討伐の為に旗揚げしたのであり、少なくとも初期の段階では国盗りは考えていなかったのではないでしょうか?
劉備が心底軍師の必要を考え始めたのは司馬徽に会ってからです。ですから魏、呉に比べ人材集めに遅れをとったのが蜀の国力の弱さに繋がったのだと思います。

彼、劉備が真に国盗りに力をいれば陳グン、陳登、袁カン等の逸材は手放してはいないでしょうね…。
(F901iC/FOMA)
56 赤龍
>>53
野心家=悪=魅力がない、というイメージをもたれているかもしれませんが、それは偏見ですよ。
野心家とは、しすさんが言われるように上昇志向ともとれます。野心家とは、確固たる目標・夢を持ち、それに向かって進んでいるわけですから、魅力が無いわけではありません。
企業のトップとか考えるといいですね。今は中小企業だが、日本一、世界進出を狙っている。これは野心家ですね。さあ、どうでしょうか?
諸葛亮も田舎の一書生に過ぎなかった身。そうした劉備の野心に賭けてみたのかもしれませんよ。
(PC)
57 ぺろ
赤龍さんの意見すごくうなずけますね!!むしろ諸葛亮こそ真の野心家かもしれないと思いますね。
(PC)
58 しす
スレの内容とはズレますが…
「野心」という言葉について。
よく優れた芸術品を見た時に「野心作だ」とか「野心的だ」という表現を用いますよね。
この場合の「野心」という言葉は悪のイメージではなく、むしろ「意欲的」なんて意味で使われますよね。
もっと解りやすい例を挙げれば…
「野心家」という言葉を英語にすると「ambitious person」になりますが、この「ambitious」という言葉、「Boys be ambitious(少年よ、大志を抱け)」クラーク博士の有名な言葉でも使われているように「大志」あるいは「大望」といった意味を含んでいます。
もちろん日本語にした場合、それぞれの言葉に多少の違いはあるにせよ基本的には同じような内容の意味だということがお解りだと思います。
もちろん「野心家」という言葉に悪の意を込めて言う場合もありますが、基本的には大望家と類似の言葉であり、劉備を野心家と称したところでなんら貶めるものではありません。
当然>>56で赤龍殿が指摘されているように「野心家」と「魅力的な人物」相反するものでも相乗するものでもなく、別個に語られるべきことだと思います。
(PC)
59 バイン
自分の劉備に対する評価は…

劉備とは…素晴らしい俳優であった…です。
劉備自身の本心は基本的には出世と長生きであったかと思います。彼ほど多くの陣営を渡り歩いた人はいないでしょう。

人を(いい意味でも悪い意味でも)だますことにかけては随一のスターですね。人に取り入るのがうまいといった方がいいかもしれません。徐州を得た時も、劉表のもとにいた時も。結局劉キをも利用し最終的には南郡を我が物にしてますし。

義の人を演じることによって様々な人の心をとらえていった劉備はある意味、賢い人間だったと言えるかもしれません…というのが自分の劉備に対する評価の一部分です。
(W21T/au)
60 ぺろ
バインさんの意見凄くうなずけますね!役を演じるというのは、何の基盤も持たなかったわらじ売りの男が民や名士から支持を受けるうってつけの手段...そして役を演じ続けた男は最後に生涯のライバルを勢力比はかなりあるとしても地位においては抜くことが出来ました、やっぱ劉備はただ者じゃないですよ!!
(W21H/au)
61
ageます。
(EZ)
62 天草
久々に三国志の主役の一人に目を向けましょう♪

蒼天の劉備などは、現代の日本でいうヤ○ザの様な感じで描かれてますよね。
恐らく侠という人達をそう捉えたのでしょうが、実際にそうだったのでしょうか?

皆さんはどうイメージしてますか?
(N900i/FOMA)
63 ピエール
久々にカキコさせていただきます。
僕のように長い間、演議しか知らなかった人はこの討論場などで聖人君子のようなイメージが根本から崩れてしまいました。
蒼天ではいい意味で期待を裏切られましたが・・・・・
それでも無一文からあれだけの優秀な人材を従わせ、広い中華の一角を占める蜀を建国したのだから資金や地盤のあった曹操わ孫権にはない人としての大きな魅力があった!・・・と信じたいですね。
(W21SA/au)
64 ピエール
連ガキ失礼_(._.)_

○...曹操や

×...曹操わ
(W21SA/au)
65 天草
劉備ほど、負け続けたのに、どこに行っても優遇された人物はいませんよね。

公孫サン・陶謙・袁紹・劉表…

彼はなぜ負け続けたのでしょう?
それなのに他の群雄達に徴用されたのはなぜでしょう?
そもそも彼は戦上手だったのでしょうか?
(N902i/FOMA)
66 沢庵
私は三国志正史の方を特集し雑誌を立ち読みしたのですが、劉備は冷徹なリアリストでゲリラ戦の達人と評価されてました。
演技の影響で戦下手といわれてますが主に負けたのは曹ソウ自身が率いた部隊が主で配下の武将達には結構勝利してるようなのです。行く先々で重用されたのは曹ソウ軍に対して戦の経験が買われた軍事的利用価値あるとおもわれたのでは?漢中戦も夏侯淵に勝ってますし。         雑誌では相手の特徴を観るに長け利に聡いが決断に迷うことがある故に果断な判断を下せる法正との相性が良いと載ってます。   もしこの解釈がいーところまで行ってるなら意外と劉備は名将なのでは・・・ 長文失礼しました。
(N700i/FOMA)
67 寿君
 先月号の「文芸春秋」連載の宮城谷昌光氏の「三国志」で、劉備対曹仁の汝南戦が描かれてたんですが、この中で劉備は自分の予想外の方向から攻められ、勝てない事が判ると、
「やめた」
 と言って撤退してました。
 これを読んで思ったのですが、
「劉備は勝てない戦は最初からしないんだろうか?」
 と感じました。
 そういえば、夷陵以外の劉備の敗戦は圧倒的不利か突発的災難(呂布の裏切り等)が原因である事が多いように思います。
 意外と単なる戦争屋で、統治家としての才覚がないから領土が増えないのではないかと…。徐州でも太守の仕事を関羽に委任してるし…。いかがなもんでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
68 無問題
しかし、この人長期戦が多いですね〜。短い間に決着をつけられない手際の悪さを指摘するべきか、それとも長期戦を続けられるだけの持久力を褒めるべきか難しいところです。(益州争奪戦の時はホウ統が死んだので仕方がないと言えば仕方がないですが)
(W32SA/au)
69 無問題
連スレ失礼…m(_ _)mただ、キャリアの長さがあるからそれなりに戦上手だったのでしょうね
(W32SA/au)
70 寿君
無問題さんの意見に賛成ですね。
 後に行く程うまくなってるから、ほんとに百戦してる内に、経験値がアップしたのかも知れませんね。張飛もそんな感じだし。
(P901iS/FOMA)
71 しす
私も個人的には劉備の戦術的な才能は評価して然るべきかと。
持てる兵力で最大限の戦果をあげ、それ以上踏む留まる理由がなければ、とっとと撤退する。
少なくともこれだけ負け続けながら、しっかり逃げおおせてる人は他に皆無ですよね。
夷陵の大敗にしたところで、劉備がマヌケというよりは、老獪な劉備をまんまと出し抜いた陸遜を評価すべきでしょう。
考えようによっては劉備ほど実戦経験の豊富な人も珍しいわけで、袁紹や劉表、劉璋が迎え入れたのはそのような彼の経験も考慮に入れるべきだと考えます。
以前どこかで書いたと思いますが、当時の劉備の軍は傭兵部隊のようなものだと思っています。
そして戦火に巻き込まれそうな所を狙っては売り込みにいったと考えれば、彼が各勢力で重用された理由も解る気がします。
(PC)
72 赤龍
各地を転々としていている為、負けの印象ばかりが残りがちですが、先主伝をよく見ていくと結構勝ち星もあげています。
注の『典略』にも「平原の劉子平は劉備が武勇に秀れていると知っていた」と、武の面で評価されていたことがわかります。
負け戦であれだけ各地を渡りながら、劉備軍の核となる部分はしっかり温存されてるとこも注目ですね。
私も劉備は戦場経験豊富で、結構戦上手だったと思っています。演義では人徳が売りの御方ですが、実際は荊州で独自の地盤を持つまでは、むしろその武を売りにしていたのではないかと思います。
(PC)
73 赤龍
ついでに、劉備が弱いイメージがある原因は、やはり演義での劉備軍の勝利が、関羽、張飛の武勇か、諸葛亮の知略のおかげということにされ、勝っても劉備の手柄にはならないことも大きいでしょうね。部下のおかげでやっていける仁の人と。
それプラス、夷陵の敗戦の際に、曹丕なんかに「劉備は戦争を知らない」なんて言われてしまったせいもあるでしょうね。
(PC)
74 無問題
寿君さん・張飛はどうでしょうか…。しかし、張合なんかをやぶってますから、それなりに戦上手だったのではないでしょうかね?
しすさん・陳寿の陸遜の評価にひきあいに名がありますから自分も評価していいと思ってます。ただ、各地で厚遇されたのは彼の人柄も影響したのではと思います。無口で表情を顔を出さず、人を持ち上げるのがうまい性格…。自尊心が高そうな孔融やら袁招、性格に難がある陶謙やら呂布、公孫サンとくせ者達に相手にわたりあるいてますからね。
赤龍さん・自分は劉備は少なくとも曹丕なんぞよりも戦上手だと思いますね。まあ、彼もまだまだ若かったですから酷評するのは酷ですね。しかし、徐盛の偽の城壁にだまされたり、伏兵に襲われ車の飾り(飾りだったかな?)をとられたりと…、なかなかへっぽこなのかな〜とおもいますがね(苦笑)
(W32SA/au)
75 ストラップ
天草さんのブログ記事を参考までに。
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50183561.html
(PC)
76 寿君
 以前から私も先主伝の戦歴を熟読して調べてはいたんですが、徐州以前の戦闘の年代順がはっきりしないのが、困りもんです。
 「英雄記」や「典略」もどこらにはめ込んだらいいのか判然としないし、劉備が全軍を指揮してるか一隊長なのかでも状況は違ってきますしね。

無問題さん>張飛も「張飛伝」見た限りでは荊州以降は一軍の将としてかなり進歩してると思ってます。下弁でも不利と見たら、潔く撤退してます。張コウ戦も敵が隘路から出てくる前に食い止め迂回して挟み撃ちする作戦使ってるし…。
 あっ、後半はスレ違いになってましたが、張飛もそれなりに評価してるって事です。m(__)m
(P901iS/FOMA)
77 陳宮
皆さん劉備はただの腕の良すぎた詐欺師だと思います。
討論する余地などないのでは?
関羽を討たれてキレたのはやはり大事な局面で優れた武将、土地を失い天下が厳しくなった怒りから無謀の特効がでたのでは??
案の定大敗。
私の結果劉備は人を騙すペテン師、
(PC)
78 天草
>>77
その意見は良く聞かれますよね?
果たして本当にそれだけなのでしょうか?
それを>>65で問題提起したわけです。
(PC)
79 寿君
 ブログで天草さんが赤壁を機に勝率が違ってるって指摘されてるのを見て思ったのですが、赤壁前の劉備って寡勢とか寄せ集めとか借りた兵隊を率いてたりしますよね、劉備の前半の黒星の多さは戦闘指揮以前に、兵を訓練したりする作業をしてない(と言うかする暇なし)で戦になってるのも原因かと。
 例えば、沛で一万の兵が集まった→呂布が危険視して襲撃ってのがあります。
 逆に孫権と同盟し、荊州を獲得し安定すると、勝ちだしますよね。
 劉備の場合、用兵云々よりその前の段階に問題があったから負けてたんではないでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
80 無問題
寿君さん・まあ、彼は曹操のような戦略・戦術のプロフェッショナル的な才はなかったのでしょうね。赤壁後は法正やらホウ統やら優れた人材が参入したから勝ち星がふえたのも分かるような気がしますね
(W32SA/au)
81 巫俊(ふしゅん)
訓練していないからという理由はどうでしょうか。
例えば、張飛は訓練の厳しさで定評がありますし。

用兵は得意だったからこそ、曹操に袁術遠征軍の司令官を一任されたのですし、負けるときは敵の方が劉備と比較して上だったということでしょう。
(PC)
82 巫俊(ふしゅん)
借りた兵や、借りた地盤でも自身のものにしてしまう刺史や太守もいれば、
借り物を使うのは得意だったが、敵が強くてどうにもならなかったということもあるでしょう。
それでも劉備は借り物の将校・兵卒たちの人心を摑むことに才能があったということでしょうか。
(PC)
83 寿君
 いやいや袁術の時は、戦になってないでしょう?。その前に袁術は北上中に死んでるじゃありませんか?。
 まあ文が変だったんでわかりにくかったかも知れませんが。
 私は劉備が戦場で兵を指揮する能力がどうこう言ってる訳じゃなく、そういうケースで敵と戦う羽目になった事もありますよね?という意見を申したまでです。
 たぶんすべてがそうだと受け取られたのなら、私の書き込みが不十分だったのでしょう。
 どうかスルーしてやってくださいませm(__)m
(P901iS/FOMA)
84 飛燕
黒星の多かった前半、戦う目的という物が、何かはっきりしない気がします。侵攻するにしても、戦略を予め描き、実行する。曹操はそれが出来てました。対して、劉備は侵攻戦そのものが無い気がします。乱世で侵攻しないことは、戦略どころか野心さえ無かったのではないでしょうか。結局野心が無いから、執念も大して無く、防衛も出来ない。彼が急に勝ち始めたのは、戦略が決まり、野心が芽生えたからだと思います。
って、いつの間にか本題からズレちゃいましたね(汗)とにかく、前半は戦に手を抜いていたのでは?、とそういうことです。
(F900iC/FOMA)
85 寿君
巫俊さん>貴方のご意見も正しいと思ってます。私は可能性の意見を述べただけです。
 それと私は劉備の戦場における用兵には及第点の評価をしてますよ。
 曹操なんかは軍事の天才的人物で配下将兵も精強。それに勝ちまくる事は困難でしょうね。
 その曹操でも敗れる事があるんですから、確かにおっしゃる通りかも知れませんね。
(P901iS/FOMA)
86 無問題
ふむ…、野心がなかった…。確かに、陶謙の後釜に就いたときも、なんか明確な方針をもって行動したとゆうよりかも、いきあたりばったりで行動したように思えます。しかも、呂布を招き入れているし…。この頃の劉備は何がやりたかったのか謎ですね
(W32SA/au)
87 ヒロサトル
皆様こんにちは。
歴史に於ける
劉備玄徳と云う人物の、善か悪かの評価は、彼の成した結果だけを見れば、漢の滅亡とギの統一と云う歴史の流れを、
遅らせた。或いは、
破綻させた人物であると言えます。 しかし、
当時の価値観に於いては、比較的安定した統治を続けた漢の衰退に際し、それを支え、さらに復興させようとする動きは、歴史の必然でしょう。
またそれに、取って代わろうとする勢力の出現も、必然の流れです。
つまり劉備は、それ以外の劉家(劉表や劉ショウ)と
同類で、しかも
成り上がりの部類。
時と場合にもよりますが、倒れた家の上に、
新たに家を築くより、
一度傾き掛けた家を
補修する方が、費用も
労力も掛かりません。
そこで劉備玄徳は、
日本人好みの、極めて
保守的な人物の一人にも見えます。しかし、
戦乱の世で、実際に彼を動かしたその動機は、
間違いなく、若かりし頃、関羽・張飛と結んだ
"桃園の誓い"でしょう。その志は一貫していて、彼が皇帝になっても
変わりませんでした。
劉備玄徳は、
曹操の側から見れば、
歴史の流れに逆らう
"賊"ですが、
一人の人間として見れば、初志一貫した、見事な人物と言えるでしょう。三国時代の英雄=
劉玄徳を、どう評価するに至っては、評価する側の立場によって、
大きく異なります。
右翼の人が見れば間違いなく英雄でしょうし、
左翼の歴史家が見れば
カン雄の部類でしょう。
しかしその実は、
時代に流れに翻弄され、そして時代を動かした、一人の偉大な人間
なのかも知れません。
またその意味合いから、三国志は、古くから、
単なる歴史ではなく、
人間の"生き様"を綴った、東アジアで不動の
ベストセラーだったの
でしょう。
(PENCK/au)
88 ヒロサトル
しかし、勘違いされては困るのですが、初志貫徹することは、それが
間違いでなければ、
人としての根本的な美徳ですが、劉備玄徳を、
人間として評価出来ても、それが今日の政治に
意義を持つかどうかは、全く別の問題です。
私怨で戦争されたり、
私的に政治を行われたのでは、庶民は、たまったものではありません。
三国志はあくまで、
西暦200年代の、
人間ドラマとしての見るべき価値があり、今日の政治家や政治に、
応用されるべきものではありません。今日では、左翼の歴史家の言葉に
こそ、耳を傾けるべき
でしょう。私の言ってることは、難しいですか?
(PENCK/au)
申し訳ありません。
皆様に向かって、
「難しいですか?」は
ありませんね。
失礼しました。

三国志と云う物語と
三国史(そんなの無い?)と云う歴史を混同すると、結論が破綻してしまうような気がします。
劉備玄徳と云う人物は、それだけの
二面性を持っています。
…難しいですね。
(PENCK/au)
90 飛燕
何だか、(初めの頃の)劉備って何が目的かはっきりしないですよね。
天下を争うなら、曹操や袁紹のように、自分から人材をかき集めるのに、そうした印象を受けない。武力によって、自分から勢力を広げようとしてない。戦にも、そこまで懸けていないからやばくなったらすぐ逃げる。そんな感じがします。
徐州を手に入れたのも、偶然だし、呂布を入れたのもよくわからない。ホントに目的が謎な気がするのですが…
(PC)
91 赤龍
>>86
>>90
そもそも、当初の劉備の立場を考えると、天下とか、天下を取るための戦略とか考えてないのが普通だと思います。眼前の戦いに勝つことが目的といっていい、一軍団(一傭兵部隊)のボスにしかすぎませんから。そうした彼の立場を考えると、行き当たりばったり的、大局的な戦略のなさも、たいして不思議ではないと思います。
後の蜀漢皇帝だから、最初からそれを目標にして生きてきたはずだという思い込みが、本質を見誤らせることになるのではないかと思います。
野心も充分あったとは思いますが、それもまた身の丈に応じた野心だったと思います。野心=天下とか、皆が皆天下を目指して戦っていたというのも、また幻想の一種だと思います。
(PC)
92 赤龍
ところで、演義では劉備の売りはというと、やはりその人徳ですが、実際は当初はその経歴をみても軍事力を売りにしていたと思えます。
そして、各地で最前線を任されたり(うまくこき使われたともとれますが)、徐州を任されたりしたのも、その軍事的な実力が評価されていたからこそではないでしょうか?
戦の弱い人徳の人なんかを、陶謙、孔融、陳登らが推戴するほど甘い時代でしょうか?
私はそういうわけで、やはり劉備は戦下手なんかではないと思っています。
(PC)
93 しす
一介の傭兵隊長とも言うべき人が具体的に天下へのビジョン持ってる方がおかしくないですか?
恐らく当初の劉備の当面の目的は「名を売る」ことだと思います。
そう考えれば劉備の敗戦の多さもさほど不思議ではないと思います。
と言うのも勝ち戦にのこのこ出て行ったところでおこぼれに預かる程度で傭兵稼業の劉備がさほど名声を得られるとは思えません。
むしろ圧倒的不利な状況でどんな戦をするか、どんな負け方をするかは非常に大事だと思います。
一見疫病神、穀潰しに思える彼ですが、公孫サン、陶謙、曹操、袁紹、劉表、劉璋…彼が身を寄せた中では袁紹以外は切羽詰まっていた状況です。
己の力量を最も高く買ってくれる所に身を寄せたと考えれば、彼の行動はちっとも不自然でもなんでもないはず。
曹操ですら最初から天下を狙っていたかどうかも微妙なのに、劉備が予め天下を目標にしていたと考えることの方がナンセンスだと思うんですよね。
(PC)
94 飛燕
当時の彼の評価が戦上手なのでしたら、どこで評価されたんでしょう?いくら曹操達が相手だったとはいえ、負けて評価が上がることは何か考えにくい。
そこで考えたのですが、彼の当時の評価は、上手くも下手でもなかったんじゃないでしょうか?彼の軍団が「札付き」の傭兵部隊だとして、戦が弱そうな孔融、陶謙、陳登が頼るのは当然かもしれません。けれども、それって、両刃じゃ有りませんか?下手したら、自分の領地がとられてしまうとは考えないのでしょうか?曹操や公孫サンにしても、切羽詰まった状況で、強いと評判の彼を受け入れるほど、彼はそこまで信のおける人物だったんでしょうか?傭兵という、目的があんまりはっきりしない軍団であるのに。「名を売る」というのも、「裏切り」という形で名を売ってもいいと思いますが。
劉備の実力はそこそこ有ったとは考えます。けれど、評価はそれほど高くなかったと思います。
(F900iC/FOMA)
95 ヒロサトル
こんにちは
劉備軍は黄巾党の乱でも、反董卓連合でも、活躍し、"皇叔"として、一定の名声は得ていたと思います。そこそこの信用度も、あったと思います。呂布の争乱により、
曹操とも共闘したりと、波乱の境遇ですが、
やはり尊皇攘夷の主将として、君側のカン(曹操)を除くのが目的だったのではないでしょうか?
(PENCK/au)
96 天草
劉備の話が盛り上がるのは、やはり当然と言うか、しかし一方の主役にしては、残されている事実が少ないのが残念ですよね。

>>95
ある程度の戦上手だったのだろうと思いますが、私はあくまでも人柄・人望論を支持します。
そういう意味で彼は廬植・公孫サン・袁紹…と知り合う人物にも、恵まれていた様な気がします。

>>94
傭兵という概念が当時あったのかは微妙ですから、今の考え方での、お金をもらって戦に参加する…というような感じではないと思いますよ。
あくまでも自分の信念において、敵と味方を区別し、戦に参加する…ここで皆さんが言っている傭兵とはそのような感じであると理解してます。
そういういくつかの義勇兵のような傭兵団の中では、群を抜いて目立っていたのかもしれませんね。

>>95
こんにちわ!初めまして♪
よろしくお願いします。

さて、ヒロサトルサンの仰る『皇叔』というのがどういう意味なのか、分かりませんが、そこまでの名声はさすがになかっただろうと思います。
劉備が全国区としてデビューするのは、私の感覚では陶謙から徐州を譲られた時(皆さんはどうでしょう?)ですから、そこまでは全く無名と考えても良いのではないでしょうか?
(PC)
97 天草
失礼!
一番上のアンカーは
>>95
ではなく
>>92(赤龍サンの書き込み宛)
ですね。
(PC)
98 しす
>>94
負けたら評価が上がらないという考え方には賛同できません。
くどいようですが、負けたという事実だけに固執しては彼の評価はできないと思います。
負け戦で武勇を証明した例はありますから。
そもそも傭兵が「名を売る」ことがそんなにおかしいでしょうか?
そもそも「優秀な人材」=「裏切られるかもしれない」という極めてマイナス思考では国を保つことなんてもともとできないと考えます。

>>96
恵まれていたというのもありですけど、そーいう所に積極的に売り込んだとも考えられますよね。
それもまたあるいは彼の才能かも。
(PC)
99 しす
>>>168に類似スレがありますから、そちらに移行しましょうか。
(PC)
100 しす
参考までに
>>>16 劉備の悪行
>>>139 夷陵の戦いについて
>>>195 曹と劉の決定的な差
>>>261 赤壁での劉備軍
>>>267 劉備は、漢室の末裔?
>>>293 劉備と関羽の関係…
>>>332 劉備軍、益州侵略作戦

とりあえずこのスレは終わりなので以降
>>>168 劉備という男
を暫定的に本スレにします。
(PC)