2 天草
まず私は江東の虎・孫策を挙げます。
享年26歳。
弟に寿命を吸い取られたのでしょうか?
彼が長生きならば、あるいは…。と夢を膨らませるほどの人物ですよね。だって、孫権が配下武将になるんですからね。
享年26歳。
弟に寿命を吸い取られたのでしょうか?
彼が長生きならば、あるいは…。と夢を膨らませるほどの人物ですよね。だって、孫権が配下武将になるんですからね。
(PC)
4 大伴ゴジョウ
孫策自身は、治める事にはたして向いていたのか、権はその手腕を、兄の下で充分に震えただろうか、と考えると一考の余地がありますが、その将来を考えると惜しい気は確かにしますね。
三十六で実力を発揮できぬままに生涯を終えたホウ統も、確かに残念です。
蜀でいえば、白眉も三十六で没しています。
他にも……曹沖、郭嘉、戯志才と、活躍が期待されながら、早くに舞台を降りた人々の物語を以下は論じると致しましょう。
私が師と仰ぐ作家、中島敦も三十三の若さでこの世を去りました。彼は一生について作品「悟浄出世」で次の様に述べています。
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外に無いことを知らぬ者は愚かじゃ(中略)大椿の寿も、朝菌の夭も、長さに変わりはないのじゃ……」
人の一生は、長くても短くても等しく価値がある、と言っている訳ですが、確かに、何ができたか、という事やも知れませぬ。
三十六で実力を発揮できぬままに生涯を終えたホウ統も、確かに残念です。
蜀でいえば、白眉も三十六で没しています。
他にも……曹沖、郭嘉、戯志才と、活躍が期待されながら、早くに舞台を降りた人々の物語を以下は論じると致しましょう。
私が師と仰ぐ作家、中島敦も三十三の若さでこの世を去りました。彼は一生について作品「悟浄出世」で次の様に述べています。
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外に無いことを知らぬ者は愚かじゃ(中略)大椿の寿も、朝菌の夭も、長さに変わりはないのじゃ……」
人の一生は、長くても短くても等しく価値がある、と言っている訳ですが、確かに、何ができたか、という事やも知れませぬ。
(F2102V/FOMA)
8 天草
どうやら歴史に残されてるのは孫紹という息子がいるようです。あと、顧雍の息子・顧邵に娘を嫁がせてるようで。
驚いたのは、陸遜の奥さんも孫策の娘のようです。
大伴殿から名前の挙がった郭嘉についてはどうでしょうか?誰もが疑う余地のない大軍師ですが、彼が生きていたら、赤壁だけにとどまらず、統一自体がもっとスムーズにすすんだでしょうか?
驚いたのは、陸遜の奥さんも孫策の娘のようです。
大伴殿から名前の挙がった郭嘉についてはどうでしょうか?誰もが疑う余地のない大軍師ですが、彼が生きていたら、赤壁だけにとどまらず、統一自体がもっとスムーズにすすんだでしょうか?
(PC)
10 大伴
郭嘉は初め、袁昭に仕えておりましたが、彼が決断力に欠ける事を知り、その元を去っています。劉備を素早く討つ事を勧めたのは、その袁昭の気質を知っていたからでもありましょうね。
又逆に、郭嘉は袁昭を攻める際、「兵は神速を貴ぶ」と示唆しました。これは孫子の「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを観ざるなり」や、春秋左氏伝の「速戦に如かざれば、請う其の士卒を以って之を誘え」に通じるものがあると思います。郭嘉は何にせよ、迅速果敢な事の利を知っていたのでしょうね。
又逆に、郭嘉は袁昭を攻める際、「兵は神速を貴ぶ」と示唆しました。これは孫子の「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを観ざるなり」や、春秋左氏伝の「速戦に如かざれば、請う其の士卒を以って之を誘え」に通じるものがあると思います。郭嘉は何にせよ、迅速果敢な事の利を知っていたのでしょうね。
(F2102V/FOMA)
12 プリン
郭嘉は本当に惜しい死だと私も思います。もっと長生きしていれば…とあれこれ考えてしまいます。蒼天航路に出てくる郭嘉も好きでした『もしあの人が長生きしてたら…』シリーズでは郭嘉は三本指に入りますね。一番は孫策です
(P900i/FOMA)
14 天草
郭嘉・孫策・ホウ統は早死にの三大英雄ですな。
周喩・孫策コンビが生きていたら、呉の繁栄はどうだったと思います?ifの話しは苦手ですけど、周喩の目論み通りに行けば、劉備の入蜀はなかったかも知れませんね。
周喩・孫策コンビが生きていたら、呉の繁栄はどうだったと思います?ifの話しは苦手ですけど、周喩の目論み通りに行けば、劉備の入蜀はなかったかも知れませんね。
(PC)
15 大伴
折角やすしさんがナイスな名前を出していますし、戯志才の話もしてちょ。
しかし戯志才は、情報が少な過ぎて、話題にならぬかな?天才的軍略家、という事はわかっていますが、没年、死因、享年、一切不明ですしね。
しかし戯志才は、情報が少な過ぎて、話題にならぬかな?天才的軍略家、という事はわかっていますが、没年、死因、享年、一切不明ですしね。
(F2102V/FOMA)
17 大伴
そうですね。後任の様なものです。
ただ、郭嘉は曹操軍がある程度大きくなってからの幕僚ですから、戯志才程一人で何でもはやっていないでしょう。
郭嘉→複雑で大きな仕事の一部分を担当
戯志才→小さな軍隊の動き全てを担当
と、仕事内容は若干異なるかも知れませんね。例えるならば、高校野球の監督と、プロ野球のコーチみたいな感じでしょうか。
あ、私の個人的野望としては、此処は戯志才応援サイトに……(笑)
ただ、郭嘉は曹操軍がある程度大きくなってからの幕僚ですから、戯志才程一人で何でもはやっていないでしょう。
郭嘉→複雑で大きな仕事の一部分を担当
戯志才→小さな軍隊の動き全てを担当
と、仕事内容は若干異なるかも知れませんね。例えるならば、高校野球の監督と、プロ野球のコーチみたいな感じでしょうか。
あ、私の個人的野望としては、此処は戯志才応援サイトに……(笑)
(F2102V/FOMA)
18 智
割り込みですみませぬー!自分は親父さんですな(孫堅)少なくとも、曹操があそこまで大きくならなかつたかも
陸遜のよめさんが孫策の娘になったのは孫権のはからいだったりする・・。理由は孫策が陸遜の父殺してしまい険悪ムードになったため。陸家は名家の一つなんで不服住民をまとめるには不可欠だったから。
陸遜のよめさんが孫策の娘になったのは孫権のはからいだったりする・・。理由は孫策が陸遜の父殺してしまい険悪ムードになったため。陸家は名家の一つなんで不服住民をまとめるには不可欠だったから。
(N900iS/FOMA)
22 ユウキ
孔明が『法正が生きていればっこんな大敗はしなかったろう』って言ったみたいですけどイリョウの戦いには馬良も行ってますよねリュウビの近くにいたんでしょうか馬良では何とかできなかったんですかね二人の武将は種類は違うにせよ法正の方が人材として若干上かなとゆう事は馬良より上と言われた姜維は法正レベルもしくは若干劣るぐらいの人材だったんですかね
(P900i/FOMA)
27 元歎
>>8-12に郭嘉の話が出てるので、またこんなページを見つけました。http://d.hatena.ne.jp/mujin/20050711/p2 ちなみに携帯OKです。
>>26曹叡も若死にですね〜。ですが、彼の晩年は孫権と同じく悲惨ですよね。孫権よりマシかもしれませんが…
>>26曹叡も若死にですね〜。ですが、彼の晩年は孫権と同じく悲惨ですよね。孫権よりマシかもしれませんが…
(PC)
32 くわぁまん
自分はやっぱり曹沖と秦フクかなぁ…。
曹沖は言わずと知れた曹操の天才息子。まだ五、六歳で大人をしのぐ知力の持ち主、象の重さを計ったエピソードは有名ですよね…。
後年、文帝は「もし、曹昂と曹沖が生きていたら、わしは帝にはなれなんだ…」と言ったとか言わなかったとか…(笑)
次は秦フク、彼は蜀後期の逸材。孔明に見出だされ孔明チルドレンの一員に…。
彼も呉の使者との逸話で有名ですね。
225年に別駕され更に昇進したが翌年没してます。多分まだ四十代の若さだったのでしょう。
この二人が生きていたらまたもう少し変わった三国志になっていたのかなぁ?
曹沖は言わずと知れた曹操の天才息子。まだ五、六歳で大人をしのぐ知力の持ち主、象の重さを計ったエピソードは有名ですよね…。
後年、文帝は「もし、曹昂と曹沖が生きていたら、わしは帝にはなれなんだ…」と言ったとか言わなかったとか…(笑)
次は秦フク、彼は蜀後期の逸材。孔明に見出だされ孔明チルドレンの一員に…。
彼も呉の使者との逸話で有名ですね。
225年に別駕され更に昇進したが翌年没してます。多分まだ四十代の若さだったのでしょう。
この二人が生きていたらまたもう少し変わった三国志になっていたのかなぁ?
(F901iC/FOMA)
33 朱家
ひねくれ者の意見だと、諸葛喬かな(笑)瑾の次男で、孔明の養子。
喬を後継ぎにした後、瞻が生まれて、翌年に死んでるけどね(笑)家を継げたかは分からないけど、蜀の潤滑油になったような気がしますね。
喬を後継ぎにした後、瞻が生まれて、翌年に死んでるけどね(笑)家を継げたかは分からないけど、蜀の潤滑油になったような気がしますね。
(EZ)
34 飛び入り
軍事面では法正
内政面では孔明
と劉備は考えてました。
法正は性格はかなり陰険なようで、劉備が上蜀した後自分が高位に就いた後、以前いじめられた上司を殺害しています。
孔明は『やりすぎではないのか?』と劉備に忠告していますが、劉備は目をつぶっています。
軍事面でいうと孔明よりも信頼している記述が残されています。
性格は陰険ですが、その分度胸も座っていて、劉備が熱くなり前線に出すぎて指揮してしまい、側近が矢でバタバタと死んでしまい、法正は劉備に下がらせようとしますが、劉備は聞く耳を持ちません。そこで、法正はあえて劉備の前で指揮をするわけですが、あまりの危なさに劉備が『危ないから下がれ!』と言いますが、法正は『殿が前線で戦っているのに、私が下がるわけにはいきません』といい、劉備は冷静になって、下がったそうです。
長くなりましたが、このように軍事面に関しては法正を信頼して逆らう余地がなかったのです。
内政面では孔明
と劉備は考えてました。
法正は性格はかなり陰険なようで、劉備が上蜀した後自分が高位に就いた後、以前いじめられた上司を殺害しています。
孔明は『やりすぎではないのか?』と劉備に忠告していますが、劉備は目をつぶっています。
軍事面でいうと孔明よりも信頼している記述が残されています。
性格は陰険ですが、その分度胸も座っていて、劉備が熱くなり前線に出すぎて指揮してしまい、側近が矢でバタバタと死んでしまい、法正は劉備に下がらせようとしますが、劉備は聞く耳を持ちません。そこで、法正はあえて劉備の前で指揮をするわけですが、あまりの危なさに劉備が『危ないから下がれ!』と言いますが、法正は『殿が前線で戦っているのに、私が下がるわけにはいきません』といい、劉備は冷静になって、下がったそうです。
長くなりましたが、このように軍事面に関しては法正を信頼して逆らう余地がなかったのです。
(P2102V/FOMA)
35 天草
>>34
素晴らしい意見だと思いますが、匿名であるのがもったいないです(・・;)
せっかく良い意見をお持ちなのですから、注意事項を確認の上、次回からは固定ハンドルでの参加をよろしくお願いしますm(__)m
あと、少しスレ違いの様な気がします(;^_^A
>>34の内容に相応しいスレをどなたか上げていただけないでしょうか?
素晴らしい意見だと思いますが、匿名であるのがもったいないです(・・;)
せっかく良い意見をお持ちなのですから、注意事項を確認の上、次回からは固定ハンドルでの参加をよろしくお願いしますm(__)m
あと、少しスレ違いの様な気がします(;^_^A
>>34の内容に相応しいスレをどなたか上げていただけないでしょうか?
(N900i/FOMA)
37 せぐ吉
お邪魔します☆
かなり思い入れで物をいうようですが、馬謖とかどうでしょうか?
諸葛亮から後継者として期待をされていたというのは事実でしょうし。
街亭での敗戦云々は言ってしまえば結果論ですし。姜維と同格として振舞えるくらいの器はあったようの思うのですが。
かなり思い入れで物をいうようですが、馬謖とかどうでしょうか?
諸葛亮から後継者として期待をされていたというのは事実でしょうし。
街亭での敗戦云々は言ってしまえば結果論ですし。姜維と同格として振舞えるくらいの器はあったようの思うのですが。
(PC)
38 くわぁまん
蜀五虎将軍の中で一番惜しい存在と言えばやはり馬超が挙げられるでしょう…。
孔明が北伐の際、長安を目指したのは有名ですが、それには騎馬民族の協力抜きでは考えられません…。
話は少し横にそれますが、かの董卓は洛陽を焼き払い長安に遷都しました。一説によれば長安の方が地の利が有っとされますが、その他にも理由が有ったのです。
董卓は西涼太守時、西涼騎馬民族に絶大なる力を持っていた為、彼らの力を借りる事が出来たらしいのです。
つまり騎馬民族の勢力圏は長安まで伸びていた。
とすればこの勢力、蜀にとっても逆転のキーマンになりうる存在だったのです。
馬超も董卓同様騎馬民族には一目置かれていた存在ですから馬超の死は蜀にとって、取り返しのつかない大災難だったのではないでしょうか?
孔明が北伐の際、長安を目指したのは有名ですが、それには騎馬民族の協力抜きでは考えられません…。
話は少し横にそれますが、かの董卓は洛陽を焼き払い長安に遷都しました。一説によれば長安の方が地の利が有っとされますが、その他にも理由が有ったのです。
董卓は西涼太守時、西涼騎馬民族に絶大なる力を持っていた為、彼らの力を借りる事が出来たらしいのです。
つまり騎馬民族の勢力圏は長安まで伸びていた。
とすればこの勢力、蜀にとっても逆転のキーマンになりうる存在だったのです。
馬超も董卓同様騎馬民族には一目置かれていた存在ですから馬超の死は蜀にとって、取り返しのつかない大災難だったのではないでしょうか?
(F901iC/FOMA)
40 常陸坊
確かに馬超の勢力が長安を支配下に置くことができたならショクとギの力関係にも変化があったでしょうね。
ただそれでもギは強大ですがギから晋への中華統一事業はうまく運ばなかった気がしますね。
ただそれでもギは強大ですがギから晋への中華統一事業はうまく運ばなかった気がしますね。
(W11K/au)
43 岳飛
6歳にして成人に負けぬ知恵を持ち、13歳で若死にした曹操の子曹沖はどうでしょう。
曹丕は彼が生きていたら皇帝になれなかったといってますし…
後10年早く生まれ、50まで生きていれば司馬氏の専横はなかったかも?
曹丕は彼が生きていたら皇帝になれなかったといってますし…
後10年早く生まれ、50まで生きていれば司馬氏の専横はなかったかも?
(W31T/au)
44 MOR
僕は李典かな、36才は若すぎる、もし生きてたら魏の五将軍の伝の中に誰かと入れ替えで入れたかも、とにかく冷静で学問好きで戦闘経験も豊富な李典にもっと活躍して欲しかった。
(N902i/FOMA)
46 赤龍
そういえば、李典、周瑜に加えて、ホウ統、馬良、曹叡(この人の場合疑問もあるけど)いずれも36歳で死んでますね。
ただ、馬良やホウ統って他の36歳組と比べると、あまり若いイメージがない(笑)
ただ、馬良やホウ統って他の36歳組と比べると、あまり若いイメージがない(笑)
(PC)
47 G
惜しい死というか、この人がもし生きていたらどうなっているだろうなんて想像するのって楽しいですよね。
私は孫堅がもし長生きしていたら、孫策や孫権を使って歴史を大きく動かしていたのじゃないかと考えます。
私は孫堅がもし長生きしていたら、孫策や孫権を使って歴史を大きく動かしていたのじゃないかと考えます。
(W21T/au)
48 巫俊(ふしゅん)
私は孫策と劉ヨウ、陳ウ、陳登、サク融、趙cらが惜しいです。
孫策:会稽太守・討逆将軍・呉侯
劉ヨウ:揚州の牧・振武将軍
陳ウ:行呉郡太守・安東将軍
陳登:広陵太守
サク融:下丕β相
趙c:広陵太守
陳ウと陳登は同族で、日の昇る勢いの孫策・孫権ら孫一族と争い続けた江北の雄です。
サク融は大義名分もなんのその儒教なんて迷信と言い放つかの如き言動の仏教教団教祖。
趙cはサク融のスーパーパワーのまえに敗れ去った悲しき有能な儒教的士大夫です。
孫策:会稽太守・討逆将軍・呉侯
劉ヨウ:揚州の牧・振武将軍
陳ウ:行呉郡太守・安東将軍
陳登:広陵太守
サク融:下丕β相
趙c:広陵太守
陳ウと陳登は同族で、日の昇る勢いの孫策・孫権ら孫一族と争い続けた江北の雄です。
サク融は大義名分もなんのその儒教なんて迷信と言い放つかの如き言動の仏教教団教祖。
趙cはサク融のスーパーパワーのまえに敗れ去った悲しき有能な儒教的士大夫です。
(PC)
49 しす
よく考えたら「惜しい死」の代表選手と言ってもいい孫登の名前が挙がってませんでしたねぇ。
彼が生きていれば孫和、孫霸の後継者争いも、陸遜の憤死もなく、そして孫和の伝の注に見える裴松之のボロクソな孫権叩きもなかったわけですよね
彼が生きていれば孫和、孫霸の後継者争いも、陸遜の憤死もなく、そして孫和の伝の注に見える裴松之のボロクソな孫権叩きもなかったわけですよね
(PC)
55 珠玉
不世出の天才軍師・郭嘉ですね。人材マニア・曹操がゾッコン惚れ込んだほどの才能ですから
赤壁以降も生きて、臥龍孔明と火花散らす対決が見たかった・・
郭嘉もかなりの変わり者だったらしいですが、孔明も負けず劣らずの変人
変人軍師対決。面白そうですよね?!
赤壁以降も生きて、臥龍孔明と火花散らす対決が見たかった・・
郭嘉もかなりの変わり者だったらしいですが、孔明も負けず劣らずの変人
変人軍師対決。面白そうですよね?!
(P902i/FOMA)
56 巫俊(ふしゅん)
郭嘉が天才軍師だという根拠は史料批判をするとあやしげな記事が多く、根拠は消えてしまいますけどね。
変人郭嘉と定義するなら、確かに史料批判には耐えんでしょうが、曹操を騙して親任を得たペテン師という評価はできるかもしれない。
変人郭嘉と定義するなら、確かに史料批判には耐えんでしょうが、曹操を騙して親任を得たペテン師という評価はできるかもしれない。
(PC)
58 和
はじめまして書き込ませていただきます
僕は…と言うかよく名前が上がっていますが郭嘉だと思います、確かに何だか曖昧な感じなですが、それでもあの曹操が認めたんですから…きっと凄い人だったんだと思います
僕は…と言うかよく名前が上がっていますが郭嘉だと思います、確かに何だか曖昧な感じなですが、それでもあの曹操が認めたんですから…きっと凄い人だったんだと思います
(W32S/au)
59 赤龍
やはりこの手の話題になると、郭嘉は人気ですね。
郭嘉といえば、私たちが惜しむ以上に、曹操がその死を惜しんだことで知られる人物です。
赤壁で敗れた後に「郭嘉がいれば…」といった話は有名ですね。
しかし、もう一つ注目してもらいたいのが、郭嘉伝の注に見える、曹操が荀イクに送った手紙。この中で郭嘉への哀惜の念を切々と記しています。非常に心うたれる文で、郭嘉ファンは必見。
光栄の『爆笑三国志』でも紹介されていました。タイトルが「爆笑」ながら、このページだけは泣ける内容。
ただ、正史を持ってないという方も多いはず。そこで、近日中にブログのほうでネタにさせて頂こうと思います(結局広告か…)
郭嘉といえば、私たちが惜しむ以上に、曹操がその死を惜しんだことで知られる人物です。
赤壁で敗れた後に「郭嘉がいれば…」といった話は有名ですね。
しかし、もう一つ注目してもらいたいのが、郭嘉伝の注に見える、曹操が荀イクに送った手紙。この中で郭嘉への哀惜の念を切々と記しています。非常に心うたれる文で、郭嘉ファンは必見。
光栄の『爆笑三国志』でも紹介されていました。タイトルが「爆笑」ながら、このページだけは泣ける内容。
ただ、正史を持ってないという方も多いはず。そこで、近日中にブログのほうでネタにさせて頂こうと思います(結局広告か…)
(PC)
66 うさぎ
曹丕と袁紹でしょうか。
この二人、長生きしていれば歴史は変わったと思います。袁紹も、もう少し頑張って欲しかったし、やはり名門の力は侮れないものがあると思います。曹丕仲達の二人三脚政権が続けばとおも思います。好きな人物ほど、長生きして欲しいと思いつつ、長生きして良いイメージが崩れてしまうのもなと思います。健康が何よりなんだなと三国志を読んでも思います。
この二人、長生きしていれば歴史は変わったと思います。袁紹も、もう少し頑張って欲しかったし、やはり名門の力は侮れないものがあると思います。曹丕仲達の二人三脚政権が続けばとおも思います。好きな人物ほど、長生きして欲しいと思いつつ、長生きして良いイメージが崩れてしまうのもなと思います。健康が何よりなんだなと三国志を読んでも思います。
(PC)
69 武皇帝
その頃の平均寿命は50歳です!そして一番長生きしてほしかった人は、劉備、そして関羽を初めとする五虎将軍さらに諸葛亮だと思いますこの方達が生きていれば中国は安泰だったと思います!
(W32T/au)
72 蒲生
はじめまして!自分は曹操ですかね〜彼が後少し生きていたら帝位に就いて、斬新な改革を行っていたかもしれないからです。まぁ三国鼎立ではあまり帝位自体に意味は無いかもしれませんが(笑)
(PC)
77 白圭
私はソウヒをあげます。
彼の側近には四友の一人シバイがいます。
四「友」という名が着くぐらいですから彼等の関係はよく、ソウヒ存命中はシバイは反乱を起こそうとすることはなかったと思うのです。
ソウヒが亡くなり、ソウエイの代になると疎まれて、シバイは政治の中心から辺境においやられます。その辺りから反乱心を持つようになったのでは?
ソウヒは占いで四十に大難がありそれを越えたなら六十まで生きられるというエピソードがあります。(彼は四十才で亡くなります)
もし占い通り、彼が六十まで生きられたなら、ソウヒは上手くシバイを御して、「内政はソウヒ軍事はシバイ」という二十年以上に渡る長命コンビができたのではないでしょうか?
そうしたらシバイの纂奪もなく、歴史まで変わったんじゃないかなぁ…
彼の側近には四友の一人シバイがいます。
四「友」という名が着くぐらいですから彼等の関係はよく、ソウヒ存命中はシバイは反乱を起こそうとすることはなかったと思うのです。
ソウヒが亡くなり、ソウエイの代になると疎まれて、シバイは政治の中心から辺境においやられます。その辺りから反乱心を持つようになったのでは?
ソウヒは占いで四十に大難がありそれを越えたなら六十まで生きられるというエピソードがあります。(彼は四十才で亡くなります)
もし占い通り、彼が六十まで生きられたなら、ソウヒは上手くシバイを御して、「内政はソウヒ軍事はシバイ」という二十年以上に渡る長命コンビができたのではないでしょうか?
そうしたらシバイの纂奪もなく、歴史まで変わったんじゃないかなぁ…
(812SH)
78 如水
早死に=惜しい死
というルール無しなら、長生きした人で惜しい死、って人、沢山いますよね。
陸遜とか、どうですかね?彼の死は呉に暗い影を落としました。彼の死が無ければ呉の未来も変わったものになったような…
というルール無しなら、長生きした人で惜しい死、って人、沢山いますよね。
陸遜とか、どうですかね?彼の死は呉に暗い影を落としました。彼の死が無ければ呉の未来も変わったものになったような…
(P08A3/FOMA)
79 ジーク
ホウ統ですかね。鳳雛と喩えられるように大器晩成タイプだったとしたら、尚更惜しい。一体どれ程の才能を秘めていたのか。三國志ifものでは、ホウ統が生きていたらという設定は定番ですしね。
(N905imyu/FOMA)