1 小龍

曹丕を語ろう!

魏の初代皇帝っすよ。
悪人?善人?
無能?有能?
てか、彼が残した功績は?
(N900i/FOMA)
2 天草
小龍殿>久しぶりです!良い議題ですね!私も詳しくは分かりませんので、皆さんの論評を待ちつつ、勉強します!

ちなみに陳寿の評価は…
『文帝は、文学に優れた資質を持ち、筆をおこすとたちまち立派な文章が出来上がった。記憶力が抜群で、何でも知っており、しかも文学だけではなく、武術にも長けていた。これに大きな度量を加え、公平な態度を貫き、道義を確立し、徳を身につけるように努めたならば、古代の賢君に近づく事が出来たかもしれない」
です。
(PC)
3 独眼龍李克用
曹操が統一した後彼に出番が回ればよかったんですが…ご存じのとおり三分になって曹操が死にました

曹丕がやったことは後の中国に生かされていきますが、曹丕がしたのは文官の育成と政治体制の確立、それに伴う軍の縮小・粛正です。これにより最強の国でありながら蜀も呉も落とせず、司馬氏の専横を招くわけです。
統一した後なら画期的だったかもしれないことも曹丕に続く皇帝や官僚が駄目にしていきます。
さらに戦が第一になってしまうので、金はそちらにまわさるをえず、人材も軍を動かさすためになってしまったので国力は伸びなかった。それは彼にとっては不運だったでしょう。

曹丕なら中国全土をうまく治めれたと私は思います。曹植をいびったのは確かにマイナスなんだけども彼は優秀な人間であり私個人も好きです。
ちょっとひいき目にみてるので駄目かも
(P900i/FOMA)
4 大伴
干禁には、彼が関羽に降伏する図を見せ、恥をかかせました。弟、曹彰の死は、曹丕の謀略説もあります。彼は恐らく陰湿、粘性の気質で、いつまでも他人の失敗を責め続ける様な、そういう男だったのでしょう。
が、功績は功績。
彼には、人としての良い部分と悪い部分とが、他人よりも極端な形で、同居していたのかも知れませんね。

彼の文学史における功績は、以前紹介した魯迅の講演を参照下さい。
(F2102V/FOMA)
5 独眼龍李克用
大伴殿>それを言われると講演のがみれない人にはわかんないです(片田舎に住んでいる私は探すのがつらい)。
具体的にどうだというのはないですかね?
(P900i/FOMA)
6 大伴
魯迅のそれは、記録の上に翻訳ですよ。1926年の9月、広東での収録ですね。本屋で「魯迅評論集(竹内好 編訳 岩波文庫)」という本を探せばありますよ。他にも、日本語(彼は仙台に留学していた)で書かれた文章など、魯迅ファンにはたまらない一冊です。
曹丕に関する内容は、五言詩や七言詩の形式を作った事、「典論(詩の評論と解説をした書)」を著作した事で、建安文壇を活性化させた事でしたね。
(F2102V/FOMA)
7 小龍
親とは違って、安定と地位を求めたのかな?

政治家的にはどうだったんですかね?
(N900i/FOMA)
8 大伴
武術に精通した手練の将軍、トウ展と手会わせをして勝ったとか、年八歳にしてよく文を綴り、逸才ありとかと、評価されている部分は多いですが……政治家としての評価が高い、とは無かったと思います。
陳寿の評を裏側から読めば、「多才であったが、度量が無く、不公平で、不誠実、道義の存在を無視して、徳が無かった為に、古代の賢君とは比べる事ができない」ともとれます。

まぁ彼はしっかりとした土台が出来たばかりの頃に帝位につきましたから、上手く機能しているシステムを壊して、革新的なやり方をする、という事は、少し難しかったかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
9 李克用
ageます。曹丕は、まだまだ語れますね。
(P900i/FOMA)
10 天草
そうですね。
彼はまだまだ語れそう。
評価もイマイチ分かれるところですしね。

軍略家・曹丕はどうだったのでしょうか?
彼が参戦したまたは活躍した戦の情報をお願いします。
(PC)
11 朱家
参加致します。禅譲や魏が滅んだ原因が彼である事など、後世で評価されるのは難しいです。曹操が遺言で言ってるのに、自ら水戦を挑むのは愚かですね。不思議なのは、呉が臣従を申し入れてきた時、劉嘩が討つべしと説いたのに、天下の信を失うとしりぞけた事。禅譲した後で、これ以上は…って気持ちなのかな?本気で臣従するのなら人質が先で、見抜けないはずはない。この時に呉を攻めれば滅ぼせたと思うんですが…曹丕の考えが分からないんですよね。
(A1304T/au)
12 ナナホッシー
呉が臣従を申し入れたのは劉備を恐れたためだったはず。
たしかにそのときに呉を攻めれば打撃を与えられたかもしれませんが、蜀との共同作戦とも思えるような遠征、ともすれば漁夫の利を得ようというという作戦は、名声を重視する当時の中国思想においてはやはり「信を失う」と判断したのでしょう。

このときに曹丕が起こすべき軍事行動は呉遠征ではなく漢中奪還でしょう。このときに蜀の主な軍勢は呉に向いており、漢中には魏延くらいしかいなかった記憶が。ここを早めに取っておけば諸葛亮の北伐に悩まされることもなかったはずです。

孫権は魏に臣従してからも、また夷陵に陸遜や朱然を派遣してからも濡須にはある程度の兵力は残しており、太守の朱桓は曹操をもってしても抜けなかったことを考えると、この時点での呉遠征は成功の可能性が低かったんじゃないかって思います。
(PC)
13 ナナホッシー
曹丕については、「英明であり公正である」との史書の評価は正当であると思います。政治面で魏の基礎を固めたこと、文学の面では「典論」を著したこと(「典論」は当時の文芸評としては最高ランクの部類に入る)。

彼の失策については外交、軍事面でたびたび指摘されていますが、彼が犯した最大の失敗は「一族冷遇」でしょう。曹操のころよりも、時代が下るに連れて曹、夏候一族の要職を占める割合は減少。この原因となったのが曹丕の後継争いですから、司馬一族に国を乗っ取られた原因は彼にあるといっても差し支えないと思います。
(PC)
14 赤龍
当時曹丕は建国・即位直後。色々と不安定な面もあったはず。そんな時に南方の大勢力の孫権の帰順。建国まもない魏国の威厳を世に示すよいイベントです。周辺国の入朝は中華皇帝の威を内外に現すものですから。曹丕としても利用すべきと判断したのでは?そこら辺が「天下の信」の本音ではと思います。
(J-SA05)
15 赤龍
曹丕がこの時蜀を攻めれば、まず呉の期待通り。曹丕も孫権の帰順を政治的に利用したものの、本心からとはさすがに信用してなかったでしょうから、そこまで呉に利する気もなかったでしょう。そして、魏が蜀(漢中)を攻めれば、蜀もさすがに危機を感じ、呉遠征を止め、呉蜀が再び結ぶ可能性もあります。この二点から蜀を攻めなかったのではと私は考えます。
(J-SA05)
16 朱家
蜀を攻めなかったのは、赤龍さんと同意見です。しかし魏は建国直後だからこそ武によって威を示す必要があったと思います。臣従を受け入れて、その後離反されたほうが権威を失墜すると思います。結果的に背かれ、侵攻して大敗北してます。劉嘩の意見に賛同する向きも多かったと思います。ほぼ曹丕の独断だったのではと考えてます。確かに呉侵攻が失敗した時のリスクは大きいですけど。時期的に微妙ですが、曹丕の本音は皇族を無力化するほうが先だと思ってたんじゃないですかね?
(A1304T/au)
17 天草
曹操・曹叡が戦場に赴いた…という話しは、良く聞くような気がしますが、曹丕が戦場で指揮を取ったという話しはあまり聞かないような気がします。どなたか御存知ですか?
(PC)
18 天草
あげます!

皆さんが思う曹丕非情のエピソード、または曹丕らしいエピソードがあれば教えて下さい☆
(N900i/FOMA)
19 曹知
他の三国志関連サイトで見たのですが、内容があまりにもショックだったので聞いてください。
曹丕は人妻のシン姫を妻に嫁とりますが、晩年シン姫は曹丕に自殺を命じられ、さらに遺体の口の中になにか詰められた……という内容でした
初めて知ったエピソードでしたが、ショックです。なぜシン姫は自殺を命じられたのか、また死後の遺体の扱いは何か意味があるのか、ご存じの方教えてください………
(P900i/FOMA)
20 燃燈
凄まじいですね…。。多才ながら曹操から見たらあまり出来の良くない息子というイメージを曹丕にもっているのですが…。シン姫をはじめこの時代の女性の記録が少ないので知ってる方がいたら私からもお願いします。
(W21SA/au)
21 無問題
確かシン姫は曹丕との仲が冷えきっていたのに加え曹植との不倫を疑われて死罪になったそうです。確か不倫は昔は重罪で死罪も珍しくなかったそうです。
(W21K/au)
22 赤龍
正史のシン皇后の伝には、郭后はじめ側室たちが寵愛されていき(結果的に自分の扱いが悪くなる)失意の内に恨み言を言い、怒った曹丕に自殺させられたとあります。さらに『漢晋春秋』には、シン后の誅殺は、郭后への寵愛によるものであり、シン后の葬儀の際、振り乱した髪で顔を覆わせ、ぬかを口につめ込んだとあります。郭后を皇后にするため(郭后が皇后の座を奪う為)の陰謀があったことが感じられます。諸史料により記述の相違がありますが、魏に近い立場の史料ほど、事件の真相を覆い隠そうとしている傾向があるように感じます。
(PC)
23 赤龍
『魏略』にも、讒言により災禍にあった、とありました。
(PC)
24 曹知
みなさま、詳しい話をありがとうございます……権力者の妻になるのも楽ではないのですね。こんなエピソードは曹丕ならでわ、というよりこの時代にはたくさんあった話なんですかね?
(P900i/FOMA)
25 くわぁまん
これはアッシの私的意見なのでお気になさらずに。m(__)m

文才は親父殿、曹植に及ばず、軍才は曹彰に及ばず、知謀は曹沖に及ばずとズバ抜けた素質は無いにしろソコソコのオールラウンダーだったのでは無いですかね…。

ただ、シン皇后、干禁、張繍に行った事でちょっとマイナスイメージ強すぎますね。
(F901iC/FOMA)
26 朱家
権力争いの一種ですから、珍しい事ではないですね。皇后になってますから、陰謀説のほうだと思いますね。この事件のせいで曹叡の太子指名が遅れました。曹叡が優秀だったため問題になりませんでしたが…曹叡も子供ができず衰退の要因を作ってしまいました。
この類いの話は呂后と戚姫の「人ブタ」と比べると全てがかわいく見えてきます。
(A1304T/au)
27 無問題
その郭皇后は母の葬式の事をしって激怒した曹叡に死を賜わって、母親と同じ惨めな葬式をさせたといいます。次号自得とはこの事ですね。
(W21K/au)
28 赤龍
郭皇后の死に関しても、『三国志』はただ死の事を記し、『魏書』は明帝の哀策文を載せ、死を悼んでいることをアピール。『魏略』には、郭皇后の死後、明帝は初めて母の仕打ちを知り、郭皇后の葬儀で同じ扱いを行ったとあり、さらに『漢晋春秋』では、明帝は郭后生前に事情を知っており、郭后を追求し、郭后をおどして殺害したとあります。こちらも、諸史料によって記述の相違がみられます。
(PC)
29 曹知
なんか親子2代に渡って凄まじいですね(汗)シン姫の自殺は、曹丕の陰謀か、郭后の陰謀かは定かではないけれど、もし前者であったなら、なんか曹丕がちょっとマヌケに見えてきました…女性とある程度距離をもってうまく扱えなかった人のかなぁ〜と。正室と側室をうまくやりくりするのも夫の勤めだろ!って、妻の立場の私は思います(笑)時代が時代だから仕方ないのですかね?父曹操でもそういった類の話ありますか?
(P900i/FOMA)
30 天草
父親の場合は釣った魚にも釣りたい魚にも餌をやるタイプですから(笑)あまりそういう濃い話しは聞かないですね。

逆に最初の奥さんに逃げられるというこの時代では恐らく珍しいであろう体験をしてるくらいです。
宛での敗戦(典イが死ぬあの戦い)で息子の曹コウを亡くしますが、その事実を知った奥さんはついに荷物をまとめて…という話しです。

曹丕のこのシン皇后に対する残虐性の高い話しは、少年時代の曹叡の聡明さを表すエピソードとして、伝えられているのが、皮肉だなぁと私は思いますね。

追伸:馴れない携帯での入力で、漢字がうまく出せなくてすいませんm(__)m
(N900i/FOMA)
31 曹知
やっぱり結婚するなら曹操サマがいいですねぇ(すみません関係ないですね 笑)曹丕って、父や兄弟や子に比べると各点では劣るけど、決してデキの悪い人じゃない、オールラウンド型な人なのかなぁという感じがしました。しかし非情さは人一倍??逆にやさしい、人情味あふれるエピソードってありますか?
(P900i/FOMA)
32 無問題
けして無能なわけではないですが、目立つ面があるわけでもないですよね。特筆すべきてんは文才ですかね?意外な1面は、狩りにいったときとの曹叡とのやりとりですかね?曹叡の言葉を聞いたあとにたしか感動して涙を流したとか(涙を流したかどうかは確証がないですが)
(W21K/au)
33 曹知
そういえば、曹植に兄の立場を歌った詞を聞いて涙した、みたいな話もありましたよね?喜怒哀楽の激しい、しかもそれをストレートに行動にだす人だったのでしょうか(子供みたい…苦笑)。
そもそも、父・曹操が後継者に曹丕を選んだのはどうしてでしょうか?単純に後継者争いを避けるために長男だったからでしょうか?実際は早逝した曹沖を後継者にしたかったと本で読んだこともあるのですが……。詳しい経緯をご存じの方がいらっしゃったら教えてください!
(P900i/FOMA)
34 ストラップ
>>34
曹植は奔放であり、曹丕は身を慎んだ為、重臣達や曹操の妾(王昭儀)などが曹丕を推しました。
又、曹植は曹操専用路(馳道)に馬車を走らせ、司馬門を開いて外出した為、曹操の怒りを買い、後継者としてみなされなくなった様です。

曹植の詩に感動できるというのは、無論曹植の詩作の腕でもあるのですが、そればかりではなく、曹丕自身の文学的素養の高さにもよるところは大きいでしょうね。
(PC)
35 天草
曹知サンのお陰で曹丕スレが今最も熱いですね♪

曹丕という人物は男尊女卑の意識が異常に強い人物だったのでしょうね?
黄初三年九月には女性(婦人)が政治に口出しすることを禁ずという勅旨をわざわざ何の前触れもなしに下してます。皇后の一族に爵位を与えることを禁じ、もし違反者があれば、力を合わせて抹殺する…という風名感じです。
まぁいろんな国の歴史を見てもあながち間違ってるとも言えませんが…。

調べてみて、改めて驚くのは彼の短い人生だと思いませんか?
帝位禅譲が220年ですから34歳くらい。

その後40歳で亡くなってますから在位は僅か6年しかないんですよね。
戦の記録が少ないのはこのせいだったのか…と一人で納得。
(PC)
36 無問題
自分の一族の力を削ぐ政策は彼がもう少し長く生きていれば身を結んだと思います。あまりにも早死にしちゃったから政策が中途半端なってしまったから司馬氏にとって変わられたのだと思います。
(W21K/au)
37 曹知
曹丕の寿命は短いですよね!曹操の死後数年で世を去っているなんて…様々な場面で結果を出す前に亡くなってしまったというとこでしょうか?結果をだすための政策段階で非情なことをやっていたために、その部分だけが浮き彫りになってるのかな?長生きしてたらまた違った評価されてたんでしょうね。父に対しては慎ましやかな性格、裏では激情家な部分があり、野心をもった世渡り上手な感じです(・_・;)ある意味人間臭い人ですね。うまく使えれば部下にしたいけど上司には絶対したくないタイプ…私のイメージの司馬懿に似てる気が。最近はあまりこういう男性をまわりに見ないので魅かれてしまう〜(照)
天草サマ >
討論場なのに質問ばかりしてしまってお恥ずかしいです(>-<# でもここだと初心者なのにみなさまが丁寧に答えてくださるので馴染みやすいです!
(P900i/FOMA)
38 天草
皆さん、博物館ブログ「島原の乱」はお読みですか?
私と赤龍サンが二日に渡って曹丕関連の人物を紹介してます。

さてその中で元歎サンが面白い説を紹介してくれましたので、お話しておきます。

『曹丕と曹植は仲が良かった』というものです。
ソースはhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480083316/250-4818822-0944200
のレビュー欄。

携帯参加の方の為にコピーしときます。

私、大学院で曹植を研究しています。その関係で読みましたが、収録されている「曹植兄弟」の中で「(曹植兄弟は)反目していた」とありますが、今日この考え方は否定されています。つまり、曹ひと曹植は仲の良い兄弟だったのです。

一般の人は驚くかも知れません。

当時は吉川幸次郎先生の考え方は一般的でした。しかしその後の研究の結果,伊藤正文先生に代表されるように「曹ひは曹植を庇った人物」という見方が学術界では既に「常識」…

この文章の真意はいかに…?
(PC)
39 赤龍
私も伊藤正文さんの文章を読んだわけでは無いので、詳しい事は分かりませんが、曹植兄弟の個人的な反目(というより曹丕が一方的に憎んでた?)は、誇張された面があると思います。
曹植の冷遇も、あくまで曹丕の政策的なもので、個人的感情で行ったものではない、ともとれますし、後継者をめぐって対立していた曹植に、あえて権力を奪い取って力をあたえず、周囲から無用の警戒を受けないように(または反対勢力が曹植を担げないように)配慮した、なんてとることもできるかもしれません。しかし、こうしたことも一仮説であり、仲の良い兄弟ということを示すまでのものではありません。
(PC)
40 赤龍
せいぜい、両者の反目は政治的、さらには周囲の取り巻き同士によるもので、個人的な反目というのは世間で一般的にいわれるようなものではなく、誇張されたものではないかと思われる。程度しか言えないのでは、というのが私の意見です。
肝心な、仲の良い兄弟だったことを示す史料というのはあるんでしょうか?
(PC)
41 くわぁまん
あまり評判の良くない曹丕ですが、徐バクをからかった一言にほがらかさを感じるのはアッシだけかなぁ?
(F901iC/FOMA)
42 曹知
私は曹丕と曹植が感情的な意味で仲が悪かったとは思いたくない派です(^。^;)
もし、曹丕が曹植を派閥争いから逃すために行なったことなら、なんだか素敵な兄弟愛ですよね!?
今の若貴兄弟争いも裏の誰かに吹聴されたり利用されたりして喧嘩してるようだし…若貴の争いをみて、曹丕や曹植もこんな感じで担がれただけだったのかしら……と遠い目をしてワイドショーみてます。
>41 くわぁまんさん
ほがらかにからかったってどういう内容の話なんですか?無知な私に教えてください!
(P900i/FOMA)
43 元歎
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4001005034/250-7088888-3553038
この本に多分伊藤正文さんの文章が書かれていると思います。いちおう、レビューをコピーしときます。
『本書は、曹植の作品を集めたという点で、日本では数少ない本です。ちなみに私はこの本を読んだ事が切っ掛けで、現在大学院で曹植を研究しています。日本語訳されている作品が少ない曹植の作品を日本語訳してまとめた貴重な本です。だが、この本に載っているのは、曹植の一部の作品です。人気が有るもの、有名なものを載せているのだが、何故か「洛神賦」は収録されていません。
ところで、何故「伊藤正文先生の解説が素晴らしい」か。曹植は、曹ひ(ごめんなさい、字が出ません。)に迫害されたイメージが強いのですが、伊藤先生はその事自体を否定しています。恐らく日本ではそう主張したのは伊藤先生が初めてでしょう。美化された悲劇の詩人のイメージに浸るより、実像としての曹植を探求していきましょう。日本語訳は堅いですが、伊藤先生の書いた「解説」だけでも十分価値が有ると思います。 』
ちなみに前のレビューを書いた人と、同じ人が書いたものです。
(PC)
44 天草
確かに同じ人が書いている以上、まだ信じられる内容ではないですが…気にはなりますね。

どなたか興味のある方は、本屋で伊藤正文サンの本を買って読んでみませんか?←人任せ(苦笑)
(PC)
45 くわぁまん
人物辞典に徐バク有りませんでしたっけ…(爆)
徐バクは曹操に見出だされ尚書郎になりました。無類の酒好きで、禁酒令を破って大酔し、校事の趙達に追及されると「聖人(清い酒のこと)に当たった」と言い逃れました。

後日、功績を挙げ関内侯に封ぜられたとき文帝に「相変わらず聖人に当たっているのだろう」とからかわれたと言うことです…。
(F901iC/FOMA)
46 赤龍
私は、この徐バクの件も、昔のことを根に持つ執念深い性格をあらわしているようにも感じます。昔の失敗をいつまでも引っ張り出してからかう嫌な奴っていうイメージです。
うーん、悪意をもって見すぎかな(笑)
(PC)
47 曹知
>45 くわぁまんさん
丁寧にありがとうございました。辞典に載ってましたか!
すみません、見つけられなくて、聞いてしまいました(汗)お手数かけました。
(P900i/FOMA)
48 曹徳
ここの辞典に書いてあったのですが曹植は兄・曹丕の立場の辛さを歌った歌を聞かせ曹丕に涙を流させた。とあったことと、なんかの本に書いてあったのですが、銅雀台を作るとき建築上の進言をして曹丕と共にその造営にあたった。とあるので仲がよかった(時があった)のかな?と思ってみました。残念ながら伊藤正文サンの本は読んでません。
(P900iV/FOMA)
49 元歎
そういえば…! 例の伊藤正文さんの本、高校の図書館にありました。読んでみますね。
(PC)
50 元歎
見てきました。しかし、時間が限られていたので一部分だけですが…。

曹丕と曹植の対立は、曹植が曹操に可愛がられていることに目を付けた、曹植の側近である楊脩と丁兄弟が曹植を担ぎ上げたために起こったもので、曹植自身には君主になろうとは思っていなかった。彼の詩「丁儀に贈る」が、それをよく表している。また、曹丕側もやむなく応戦しただけである。
…という主旨のことを述べた後、こう記していました。

『曹操・曹丕の死は魏国の大事件だったが、曹植は二つの死を断腸の思いで迎えたに違いない。曹丕を陰険極まりない人物のように言う人もあるが、私は決してそうは思わない。君主としても第一流の明君であり、弟植に対しても、かばえるだけかばった人だったと思う。曹植もこの兄を終始大いに敬愛していた。彼の「文帝の誄」はそれをよく表現している。』

なんだか、「丁儀に贈る」と「文帝の誄」という二つの詩がカギのようですが…詩はよくわかりませんf^_^; 詳しい方、どういう詩なのかご説明下さいm(__)m
(PC)
51
丁儀に贈るは、丁儀との友情やらを詠んだものですが、呉の季札の故事を引いて季札のように帝位につく気はないと暗に示したものとも言われます。原文は、探しておきますが、他に分かる人が居ればお願いします。
文帝の誄は知らないので、これも調べておきます。ちなみに、誄は死者の功績を讃える文や言葉という意味があります。
(P900i/FOMA)
52 赤龍
元歎さん、報告感謝です。
さて、元歎さんの報告を見て思った事を。
結局根拠が曹植の詩文のようですが、こうしたものは世間に公になることを前提に書かれていると思われます。なので、そうしたとこでは「私には野心がありませんよ」とか「大好きな兄さん、偉大なる皇帝陛下が死んで、私は悲しいです」て言うに決まってます。「死にやがってざまあみろ」なんて書いたらただじゃすみませんから。この程度のことを根拠にした論なら、たいした説得力は無いんじゃないかなあ、というのが私の感想です。
(PC)
53 元歎
曹丕と曹植どちらも関係している次のような話を見つけました。魏書裴潜伝裴注の、たぶん魏略です。(ちくま三国志でいうと、4巻の52・54・55ページです。ちょっと長いです)

韓宣は字を景然といい、渤海郡の人である。小柄な体格の人であった。建安年間、丞相(曹操)は召し寄せて軍謀掾に任命したが、仕事もなく鄴に滞在した。あるとき鄴において宮中に出入りするとき、東液門の内で臨菑侯曹植と出会った。そのとき雨が降ったばかりで、地面にはぬかるみがあった。韓宣は彼を避けようとしたが、水たまりに邪魔されて行くことができなかった。そこで扇で顔をかくしながら道ばたにじっとしていた。曹植は韓宣が去らないうえに礼をとらないのでしゃくにさわり、車を止め、その侍従に韓宣がいかなる官職にあるか訊ねさせた。韓宣はいった、「丞相軍謀掾です」曹植はまた質問した、「列侯を邪魔していいはずがあるか。どうじゃ」韓宣、「『春秋』のたてまえでは、王の直臣はいやしくはあっても諸侯の上に位置します。丞相の属官でありながら、いなかの諸侯に対して礼をとるとは聞いたことがございません」曹植はまたいった、「たといいうとおりだとしても、人の父の役人となっていて、その子に出会えば礼をとるべきじゃないか。どうじゃ」韓宣もまた、「礼におきましては、臣と子はひとしなみです。それに私の年もまた上ですから」曹植は彼が抵抗してなかなかやりこめられないと悟ると、そのまま放置して去り、詳しく太子(曹丕)に報告し、弁舌の立つやつだといった。(続きます)
(PC)
54 元歎
黄初年間に尚書郎となったが、あるとき職務上のことで殿前で処罰を受けることになった。すでに縄をかけられていたが、杖打ちはまだ執行されずにいた。文帝の手車が通り、「この者は誰じゃ」と下問があった。側近の者は、「尚書郎、渤海の韓宣であります」と答えた。帝は以前臨菑侯が語ったことを思い出し、気がついていった、「それは子建(曹植)がいっていた韓宣か」とくに彼をゆるし、そのままそのいましめを解かせた。そのとき大そうな寒さであったが、韓宣は前に杖を受けねばならないために、あらかじめ袴(ズボン)を脱ぎ、褌(ふんどし)をつけ、後ろ手に縛られていた。赦免になると、褌を腰からおろさずに、小走りで去った。帝は目で彼を追いながら笑い出した、「この男、えらく従順でものわかりのよい人物じゃ」〜〜(略)


曹植と韓宣が出会ったのはいつかを考えてみます。曹植が臨菑侯であるのは214〜221年です。そして、出会った時はまだ曹操が生きているので、214〜220年まで。さらに、話の中に『詳しく太子(曹丕)に報告し』とあります。これはすでに曹丕が太子となっていると考えてもいいと思うので(半信半疑…f^_^;)、217〜220年と考えられると思います。って、別に『いつ』かはどうでもよくて…^^ わざわざ曹丕に詳しく報告するということは、仲は悪くなかったと言えるのではないでしょうか。これが、立太子以前であれば説得力が増すのですが…ところで、この話は信頼できるのかなぁ…(長文失礼しましたm(__)m)
(PC)
55 ストラップ
薛綜、朱建平。
彼の死期を予言した人は二人もいますね。
(F2102V/FOMA)
56 ストラップ
>>>37-17を書いている時に見つけたのですが、同じ「沈痾自哀文 山上億良作」に、
「魏文の時賢を惜しむ詩に曰く……」

と書かれているのですが、この「惜時賢詩」というのは伝わらないものなのだとか。
(F2102V/FOMA)
57 ストラップ
>>56に書いた時賢って、どういう人?
どなたかご存知ですか?
(PC)
58 天草
最近、蜀系スレが多いので、ageます。

曹丕に悪いイメージしかない方のために(私だけ?w)素晴らしいエピソードをご存知の方、ぜひ教えてください。
(PC)
59 ストラップ
王粲の弔いで、王粲の好きだった驢馬の鳴き真似をする事を弔問客に提案‥‥‥なんかイメージUPじゃないですか?
(PC)
60 ストラップ
>>59
僕の彼女がこの「世説新語 傷逝」にある「王は驢鳴を好んだ」のエピソード好きらしいのです。それで(汗)
知らない人の為に紹介します。

王仲宣(王粲の事)、驢鳴を好めり。
既に葬る。
文帝(曹丕の事)その喪に臨どみ、顧みて同遊に語りて曰く
「王は驢鳴を好めり。各一声をなし以ってこれを送るべし」
と。
赴客皆一驢鳴をなせり。
(PC)
61 瀞嘉
初めまして

曹丕を語ろうと言うことなのでカキコさせて頂きます

曹丕の悪いイメージを崩す(?)と言えば一番は呉質への手紙に書いてあるように特技が『碁石弾き』と言うことではないでしょうか?

なんでも手布で弾いても百発百中だとか

そんな特技があるなんてなんだか曹丕が可愛く思えるのは私だけでしょうか?
(D901i/FOMA)
62 宗男
お初です。たしか、蝨食べるの趣味だったとかかちがったっけ
(N900iS/FOMA)
63 元歎
昨日、三国志を読んでて>>50-52の文帝の誄らしきものを見つけました。ちくま三国志(文庫版)だと@205〜210ページです。

鄄城侯植為誄曰:「惟黄初七年五月七日,大行皇帝崩,嗚呼哀哉!……と始まります。もうとても長いので全部は載せませんが…。
(PC)
64 礼文
ちょっと脇道にそれるかもしれませんがお許しください。

曹操が死んだ後のことですが、
「時太子在ギョウ、エン陵候未致」(すいません、漢字がでない)と魏書・賈逵伝にあります。
何故、曹丕ではなくて曹彰が呼ばれたのでしょうか?やはり人格的な問題から敬遠されていたのでしょうか?
(EZ)
65 TS
本拠地を空っぽには出来ませんよ。
前年に魏諷の事件があったばかりでもありますし。
(W31T/au)
66 礼文
納得です。
ていうか当然か(^^;失礼しました。
TSさん。ありがとうございましたm(_ _)m
(EZ)
67 天草
嫌いな人も多いみたいですしw
ageときます。
(PC)
68 寿君
 嫌い“だった”男の一人ですが、無問題さんと話してる内に、同情してきました。
 理由は当該スレッド(アンカーの付け方判んない・泣)にある通り。
 彼は偉大なる父を越えようと必死だった若き帝王だと認識するようになりました。
 典論で自分を誇ってたのも、文学的な感想を述べると「筆者自身の存在をアピールしたい心情の現われだった」と見ると、興味深いものがあります。
 何やら、曹丕とその周囲にはくだらない表現ですが、「昼のメロドラマ」的な愛憎渦巻く人間模様が感じられます。
 中国で映画かテレビドラマにしてくれないかなあ…しないだろうなあ…。
再三の呉攻めも
「朕は父が越えれなかった長江を渡る!」
 って思ってた節もありそうな気もします。(まあもっと高度な政治的理由はありますが)

長文駄文失礼しました。
(P901iS/FOMA)
69 ストラップ
陳寿の事を話す時必ず話題になる片目の丁儀ですが、彼の子孫は実際にいたのでしょうか?
跡目争いで曹植を推しましたし一族皆曹丕に殺されていそうですが。
(F2102V/FOMA)
70 巫俊(ふしゅん)
丁儀の子孫がいるとしましたら、陳寿の事績の正否にまでかかわることですよね。

いないはずの丁儀の子孫がいるとすると、陳寿に賄賂を要求した丁氏の子孫が現実のものになってしまいます。

仮に子孫がいても、あの陳寿の“いわく”が正しいとは限らないという前提は変わらないんですけど。

それで一族誅滅された人たちのことですが、後漢の事例からするとすべての一族が殺されてしまうとは限らなかったりします。

むしろ匿われたりして、生き残った人の名前が史書に登場したりします。

前漢の宣帝なんかがそうですし、曹操や孔融も一族誅殺というような事例じゃないですけど、罪の禍に遭わないようにうまく人生をくぐり抜けたから今の事績があるんですよね。

孔融は自分から罪にかかるようなことをする人ですけど。
(PC)
71 ストラップ
>>70
逆ですよ。
「陳寿が金品を請求した丁儀の子孫」
ですね。

この話、子孫が曹丕に皆殺されている筈だから怪しいなぁ〜と考えていたのですが、まるっきり無い話という訳でもないのですね。
(PC)
72 巫俊(ふしゅん)
ぐはーっ、私の願望が筆を誤らせたみたいです。
私の以前抱いていた願望によると、
丁氏が列伝の執筆付加を依頼したところ、陳寿が丁重にお断りしたので、ムカーっとなった丁氏が醜聞を振り撒いたという・・・
なんだか陰謀論みたいですが、そんな風に解釈してた人は沢山いたような気がします。
(と自己防衛(^^;)
(PC)
73 珠樹
魏志から文帝の詔勅を拾っていくと、「官ガンが一定の地位以上には出世できないようにした」「皇后およびその家系(=外戚)を政治に参画させない・皇太后への上奏の禁止」「肉刑の軽減」「(太逆罪を除く)密告の禁止と処罰」といった内容が見られます。
このうち、官ガンと外戚に関しては、西漢を反面教師とした政策であるのは明らかでしょう。
特に後者は、郭氏を立后する直前に出されている点、興味深い。ハイ松之は「外戚で有能な人物がいても、みすみす逃すことになる」と非難しますが、西漢が百年も外戚と官ガンに牛耳られたことを考えると無理もないかと。陳寿が后妃伝で「文帝の政策は結果として正しかった」と評するのは、執筆当時、賈皇后が専横を極めていたことも反映されているのではないでしょうか。
(F902i/FOMA)
74 珠樹
失礼しました、上のスレで「西漢」となっている箇所は、正しくは「後漢」です。あり得ない間違いです…すみません…。
(F902i/FOMA)
75 白圭
低レベルな感想で申し訳ありませんが、
ざっとこのスレをみたところ

(携帯なので漢字変換できません。武将は全部カタカナ表示にしてしまいます。)
ソウヒは六年という短い在位期間にやったものとして
良い面は遷都、皇帝宣言、九品文官登用、
悪い面は伯父のソウコウ、弟のソウショク、妻のシンシ、部下のチョウシュウに、弟の側近テイギ対する扱い
であり、民に対しては余り悪いことはしてないように思われます。
見落としているかもしれないですが、ソウヒの悪い面は人間関係だけのように見えます。
つまり君主としては有能であったのでは?
六年という在位の間に戦争はしたのですか?戦争に関する記録が少ないとありました。余り軍事には積極的ではないようです。(これは民から見ればいいことです)

これらを総括してみると、民としての立場からみると非常に良い君主である。
僕のなかで君主として評価の高いリュウヒョウ(内政手腕だけなら多分三国時代で随一かと。跡目争いは起こしたが、大規模戦争は起こさなかった)に並ぶのでは?と思っています。
コウメイは内政は凄いけど大規模な戦争を何度め続けているので、評価はそれなりに高いですが大絶賛ではないです。

ちょっと後半は僕の君主としての在り方についてであり、話しが逸れましたすいません。
(812SH)
76 白圭
連カキコミ申し訳ありません。
要するにソウヒは名君主の一人に数えられる
皇帝の人間関係なんて庶民には関係ないです。
書いて思ったのですが、君主としての資質は父以上かと。

訂正 悪い面に部下のウキン足しといてください。
(812SH)