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キョウ維伯約

投稿ははじめまして、の飛といいます!よろしくお願いします。
私が諸葛亮と同じくらい好きなキョウ維について、皆様のご意見賜りたく思います!
演義から入った私は最後の名将というイメージでしたが、どうやら違うようで(-.-;)キョウ維のせいでショクが滅びたようなものと知って、衝撃を受けました!
(W11K/au)
2 天草
正直、私も三国志の晩年には詳しくないので、自信はありませんが…私は基本的に嫌いではないですよ。

頑なな程の忠義心もあったし、宦官や国に裏切られながら、それでも蜀の復興を願うとこなんか、涙モノです。
しかし残念なのは、運が悪い人ですよね。

才能に関しては、諸葛亮は『馬良より上』としてるだけありますから、かなりの人間だったのでしょうが、少し天狗になっちゃったかな?

他の皆さんは姜維、どう思いますか?
(PC)
3 大伴
姜維は費イの死後の僅か五年間に、国力を無視し、五回も魏を攻めています。蜀が滅した事の、全ての責任を負わせる事は、無論できませんが、その一旦どころか、大きく関与している事は、明白な人物です。

孔明は自分の死後の後継者には、蒋エンと費イを挙げています。この二人は孔明以上の慎重派で、出兵をせぬと思ったからでしょう。孔明は、

己の失敗が、国力を疲弊させた事を知っていた。
己以外の者が、勝ち目のある出兵の時期を計れぬと知っていた。

という理由から、北伐の続行を望まなかったのではないでしょうか?
(F2102V/FOMA)
4 くわぁまん
大伴殿の意見ごもっともなれど、あちし思うに、魏の国力は蜀の6〜10倍、全力で攻められれば一溜まりもないのは歴然としています。

ただ守っていても国力の差は開く一方です。やはり起死回生の手段としては戦わねばならない。誰かが行わなければならない戦だったと思います。

時の流れとは無情なもので、孔明の寿命があと10年も伸びていたら歴史も変わっていたでしょう…
(SH900i/FOMA)
5 エイ
姜伯約は、『非運の名将』と呼称して差し支えない人物だと思います。
が、私はあまり好きではありません。

その所以は、大伴殿の言に頼る形になりますが、『無謀』とも云えるその行動に他なりません。

意地悪な見方をすれば、「諸葛丞相の遺志を継いだ風を装って、自分の存在(と漢中の軍勢)の存在価値を保つ為に北伐をしたのではないか」
とすら言いたくなります。
(PC)
6 天草
さすがに蜀将にはみなさん厳しいですね。

特に姜維は連年の無理な侵攻で国力を著しく低下させた事が、後の世で批判される材料になってますよね。

費イが死んでからはさらにそれに拍車がかかったようで。。。

ミーハーの私に姜維の美談があれば、教えてください。
(PC)
7 大伴
沓中防衛していた姜維は、263年、陽安関の敵の手に落ちたのを知り、鍾会の十万、諸葛諸の三万という大軍を、剣閣で防いでいます。鍾会は軍議で、引き返す事も検討していた様ですが、トウ艾に劉禅が降伏した為、姜維も鍾会に降伏しました。

これは、彼の戦術家としての有能さを示すエピソードでしょう。

この後、鍾会を唆し、クーデターを計画しますが、失敗し、鍾会と共に斬殺されてしまいました。これは政治家としての詰めの甘さをあらわすエピソードでしょうね。
(F2102V/FOMA)
8
皆様の意見大変参考になります!無謀という言葉で片付けられてもしょうがないかな?と思いました(T_T)

心情的にはくわぁまんさんの意見に賛成したいですが。確かにただ国が存在するだけでは、漢室復興の名分も諦めたのか?と感じます。劉禅もショク存亡と大義名分とで悩んだりしたのでしょうか
(W11K/au)
9 天草
私が姜維をかっているのは、何と言っても鍾会を煽ってでも蜀の復興を目指したという点ですね。
それも自分の為と言われそうですが。。。

鍾会に降伏した時の、やるせない気持ちに多いに同情します。
(PC)
10 大伴
確かに。

姜維の行動力は、悪い方にばかり働いている気がしますが、しかし、やらねば事は動かぬも事実。彼は果断の人と言っても良いでしょう。

鍾会とのクーデターは、結局は失敗しましたが、偶然にも成功する可能性はありました。これが孔明ならば、動きはしなかったでしょうね。

ここでも人材不足の話をしますが、有能な人物であっても、万能という訳にはいきません。蜀の優れた人々の不幸は、自分の得意分野以上に、その守備範囲を広げなければならない事にあったのでは無いでしょうか?それがたとえ、本人が望んだ事であったとしても。
(F2102V/FOMA)
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皆様の意見どれもありえる話だと思いました!私はキョウ維は忠臣であったと思いこむことにします(>_<)

ところでキョウ維はなに人になるんですかね?
(W11K/au)
12 天草
姓の「姜」の字はかなり怪しいですが、異民族の人間だという記載はないように思われます。

涼州天水郡の人であった事が書かれてますので、漢人であったと思いますが。。。
(PC)
13 大伴
天水郡キ県の出身だった様ですね。


尚姜維は、孔明の作戦を幾つも見破った為に、孔明が知恵を絞ってやっと味方にした……というのは大嘘です。蜀が南安、安定、天水の三郡を攻めた際、天水太守に、裏切るのでは無いかと疑われ、仕方なく孔明のもとに赴いたのです。


忠臣であったか否かという話ですが……私の知る限りは、忠臣と言ってもよさそうな人物ですね。
ただ、孔明もそうですが、通俗演義のイメージそのままで語って良い人物だとは、まったく思いません。
(F2102V/FOMA)
14 天草
最初は確か魏の人だったんですよね?

私も嫌いではないですが、あまりにも負けすぎましたね。
(PC)
15
レスありがとうございます!キョウという字の人物が他にいない気がするので、何となく気になりまして。

演義ではやはり、想像したり仮説を考えるのは難しそうですね!これから正史のほうにも手を出していきます。
(W11K/au)
16 大伴
姜姓の人は……

馬超を嵌めて妻子を殺した人の一人に、魏の姜叙という人がいた様な……
(F2102V/FOMA)
17
大伴さん色々知ってますね!!
ん?馬超が嵌められて妻子を殺された?(?_?)
そんなことがあったのですか!
(W11K/au)
18 大伴
馬超はキ城を落とし、イ康を殺しますが、そのイ康の昔の部下達に反旗を翻されるのです。213年の九月の事です。

三国志。索引で調べてみると、結構姜姓の人はいるみたいですよ。
(F2102V/FOMA)
19 大伴
↑この件に関してはそう詳しくはないので、どなたか馬超スレッドででも捕捉願います。
(F2102V/FOMA)
20
大伴さん情報ありがとうございます!

皆様のおかげで何となく伯約のことしることができました♪m(_ _)m
(W11K/au)
21 大伴
飛さんへ

たはは(汗)

中途半端な内容で申し訳ない。ご自分で調べられた様ですね。
これからは私の方が教わる事も多いと思います。以後も宜しくお願いしますね。

スレッドのタイトルから外れ過ぎた様ですので軌道修正を。
鍾会のクーデターが成功した時は、姜維は鍾会をどうするつもりだったのでしょうか?蜀の臣下、では、鍾会自身が納得しないでしょうし。
(F2102V/FOMA)
22 天草
姜維はやっぱり鍾会を利用するだけだったんじゃないかな?

運よく成功すれば、劉禅を迎えて立て直したいと…。
蜀ファンの私は、そう思い込みたいです。
(PC)
23 大伴
私も
……姜維は用済みになった鍾会を、消すつもりだったのでは無いか……
と、考えています。

鍾会がいては、蜀の再興は無いですからね。
(F2102V/FOMA)
24 雷雄
初カキコの雷雄です、皆様ヨロシクお願いします 姜維は戦に関しては優れた将だったとは思います。ショク滅亡戦の戦いを見ても彼には戦の才能はあったと思います。 ただ相手が悪かったのでは無いでしょうか? 多方面における同時侵攻と、大包囲作戦が得意の子房と呼ばれた鍾会、ショクに夷陵以来の大敗北を与えた事もある地の利にこだわった名将のトウガイのコンビが相手では当時の戦力を考えても姜維の力だけでは無理だったと私は思います。
(F504i)
25
キョウ維は戦闘においてはみなさん評価はそこそこなんですかね?

具体的にはどんな戦闘が得意だったのでしょう?
(W11K/au)
26 雷雄
ちょっと話からズレたので補足します。諸葛亮の死後の北伐とは、漢中における軍備の縮小を防ぐ為に行っていたものなので、私欲に走ったことは否定できませんが、鍾会が姜維を気に入り重用しようとしたのを利用して反乱を唆し、反乱が成功したのち鍾会を殺して劉禅を迎えてショクを再興させようとしていた所から姜維は忠臣であったと思います。 ちなみに諸葛亮の後継者の一人であるショウエンは北伐続行派ですよ。 長い文で済みませんでした。
(F504i)
27 独眼龍李克用
最近こちらでは元気のない李です雷雄さんよろしく

姜維の出身地からすると騎兵の扱いが、うまいと思われます。蜀では活かしにくいですね。
姜維は、かなり嫌われていたような気がします(たぶん)。新参者が、軍のトップでは配下は心服しないと思われるので、かなり軍は弱くなっていたのではないかと思います。
蜀の国力を削ったのも彼だし、国力を回復するなら北伐は控え、要害を活かして守るというのが、理想的だったと思います。


…全部持論です当てにはならん。
(P900i/FOMA)
28 雷雄
彼が一番得意だったと言われているのは、機動力重視の戦法らしいです。 今、思えば諸葛亮や劉備は【機動力を火力で制する】という戦略戦術だったので、それとは違う戦術を取った姜維はショクより、機動力戦法が得意の魏にいた方が良かったのかもしれません。
(F504i)
29 天草
雷雄殿>初めまして!よろしくお願いします!

姜維という人材は本当に惜しいですよね。蜀でなければ大活躍という意見には大賛成です。

彼が使うべき良将も当時の蜀にはいなかったんでしょうね。残念!!
(PC)
30 流紹
初めまして、流紹と申します、ヨロシク。
姜維で好きなエピソードは、降伏したとき鍾会に「来るのが遅い」と言われたのに「早すぎるくらいだ」と言い返したところですね。

姜維には派閥にも悩まされたんじゃないでしょうか?
(PC)
31 独眼龍李克用
流紹さんよろしく
新入りさん増えてきましたね〜良いことです

彼自身の派閥は、小さいでしょう。ほとんど軍関係しかいなかったでしょうから。文官の費イなどとは内心、反発していたと思いますね。
自分しか頼りにならないから焦っていたんじゃないかな?それで、北伐を繰り返したのかもしれないですね。
(P900i/FOMA)
32 くわぁまん
難しいですね。人材の宝庫魏国には、孔明、姜維クラスの人材は山ほどいますからね。姜維も孔明に見初められたから良かったのであって、北伐しなければどうなったか…
(SH900i/FOMA)
33 小龍
姜維って、子供がいなかったんですかね?
死刑された時に殺されたかな?
(N900i/FOMA)
34 天草
流紹殿>初めまして!よろしくです!

みんな姜維が好きなんですね。私も嫌いじゃないですよ。

小龍殿。妻子共々殺されてます。
(PC)
35 雷雄
彼は好きですが、一応自分なりに欠点を言います。確かに費イは北伐を反対していましたが、漢中の将兵が暴走すると考えて、出陣出来る兵士を制限しての北伐を認めました。 全軍で出陣出来ないにも関わらず、北伐を実行に写した姜維は無謀だったと思います。 さらに無駄に兵士を減らし過ぎた為、最後は漢中守備軍までも動員させて北伐をしている所から見ても、やはり姜維は無謀だったと私は思います。

でもショウエンの提案した荊州攻めが実行に写っていれば姜維もまた変わったかもしれないですね。
(F504i)
36 キョンキョン
ども通りすがりの姜維好きです。 楽しく読ませていただいてました。皆さん博学ですね。しかし私には姜維の行いが無謀の一言で片付けられちゃうのは少し切なく無謀な意見で弁護をと(汗当時の地理を考えてみたのですがショクて田舎ですよね。荊州、関中等からどのくらいだったのか…?日本縦断はないにしてもかなり遠く閉鎖されてます。もし必要な物が無くなったらどーするのかと?伝染病が流行し人材不足が数字上の話だとして北へ子供をさらいに行ってたりとか…(爆)
(N504i)
37 キョン
あ、一応私の推測では伝染病は南蛮遠征の時持ち帰ったもので、不足してるのは子供でなくとも馬あたりでもかまいません姜維くんもさらわれた一人…てかなりいい加減な事申しましたが、広い中国大陸を鑑みて魏最大の軍事的危機は呉攻めの時で驚異はショクの残兵だったのでは?と姜くんの弁護を締め括ります。失礼しました
(N504i)
38 独眼龍李克用
キョンさんよろしく

内容が、少し分かりにくいんですが姜維がさらわれたのは…どうでしょうか。疫病については、よくワカランので、蜀と人口について話します。
春秋以前では蛮族が益州一体を支配(一説には、古代の帝王の子が封ぜられている。ちょっとうろ覚え)。春秋か戦国時代に秦が制圧するものの地理の悪さから流刑地となっています。高祖劉邦も項籍によりこの地に押し込められていたことがあります。いつ頃から、はっきり統治されたのかは分からないのですが、前漢の時点では統治されていたと思います。さらに深い山中にあり危ない桟道を渡らなければいけないところです。そういう経緯があり、もともと漢人が住みたいと思うような場所ではありません。なので、外から人口が増えるようなことは、ほとんどありません。問題は、もともと人が少なく外からも増えないので、兵を死なせにくいのです。流民がくるのならいいのですがほとんど来ませんし。それに蜀の兵は、弱いです。劉璋のときから負けまくってますので。姜維では、強兵に育て上げるのはきつかったのではないかと思います。

いかん。眠くて何書こうとしているか分からなくなってきたので、このぐらいに。
(P900i/FOMA)
39 天草
雷雄殿・キョン殿、よろしくお願いします!

姜維についての憶測や推理って、こんなに盛り上がるんですね。

孔明スレにも同じような事を書きましたが、姜維は当時の人民に慕われていたのでしょうか?
かなり無理な北伐が続いたみたいなので、民衆の見方は厳しかったかも知れませんね。
(PC)
40 キョン
深夜いきなり訳の分からない事をカキコみ申し訳ありませんでした歴史は時に真実を隠蔽し美化する傾向がございますし、諸葛亮や姜維が大義名分がどこにあるにしろ数度にわたり北伐を繰り返さなくてはならなかった理由を酔った勢いで身近な政治的方向から推測し誘拐説に辿り着きました。大義失敗の裏では政策的成功を収めていたのではないのかと願いを込めて…「軍事は政治の延長」だとか、誰かも言ってましたしね
(N504i)
41 天草
キョン殿

「軍事は政治の延長」…まさに孔明がやってきたことですよね。

ところで姜維は政治には関わってなかったのかな?
上の姜維に対する民衆の見方と合わせて、皆さんはどう思いますか?
(PC)
42 キョンキョン
また来てしまいました自ら戦争を始める者には軍を動かす理由に必ず政治的根拠があったと考えられます。もし、姜維が政治に一切関わって無かったとしたら他の者の思惑で北伐を繰り返えした事になってしまう…
(N504i)
43 独眼龍李克用
軍事は政治の延長と申しますが、打算や大義、私欲でも軍は動かせます。その後から、政治的理由がつくこともあります。例を挙げれば、夷陵の劉備ですね。
姜維の場合は、漢の復興という大義、全土統一が蜀の政治的最大目標でもあったわけですから意味は始めからあるのです。
姜維が政治に関わっているとしたら軍事と軍政で、行政に関しては軍事に付随するものだけでしょう。軍の頂点にいるわけだから、多少は政治にも詳しくなければならないと思います。
(P900i/FOMA)
44 キョン
おっしゃるとーりですしかし、上で語られる当時の姜くんの人気を慮ると大義はともかく私欲と打算は…?大義だけだと無能になっちゃいそーだし劉備出兵の目的は世間で語られるように関羽の仇討ちのみが目的だったのでしょうか?前にも語りましたがショクの地理と劉備の大義を照らした戦略から鑑みて荊州の重要性と歴史の不確実さを考えると…すいません私は斜めから三国志を読んでるよーで…
(N504i)
45 リー
新参者ですがよろしくお願いします。 姜維が晋に降伏したとき、蜀の人口の11パーセントもの人が兵とされてたそうです。おそらく蜀の人々は相当姜維を恨んでいたでしょう。
(A5304T/au)
46 独眼龍李克用
リーさん初めまして

キョンさんのについてですが、まず>>43は、軍を動かすのは政治的意味だけではないということで、私欲と打算は姜維のことを言っているわけではありません。解りにくかったですかね。>>44の夷陵ですが、過去ログにある法正で少し触れているので、そちらをまず見てください。

後、歴史の不確実さや美化されていくのは語り継がれ文章となる時点で、当然あり得ることです。しかし、何事も歴史は不確実なわけではないです。史書に書かれていたが、ありえる可能性が低いと信じられていたことでも、証拠が見つかった例があります。簡単に何事も歴史は不確実なんだからとは言わずに、具体例や詳しく説明されてから言ってください。

私は、馬鹿なんで見当違いなこと言ってしまったかもしれません。間違っていたらお詫びしますm(__)m
(P900i/FOMA)
47 キョンキョン
独眼龍さんお詫びの必要ございませんし、私はただの通りすがりの姜維好きです。皆さんのお話しが面白そうだったのでフラフラ〜と書き込んでしまっただけです。お気を悪くされたのならお詫びいたします
では
(N504i)
48 大伴
姜維の北伐は、費イの死後にしか行われていませんし、費イの資質は軍人というよりも政治家であった様です。これは政治家が軍事のトップとして、軍の暴走に歯止めをかける形だったのだと思います。
ですから私は、その後の姜維が、軍事のトップとして蜀の政策に大きく係わっていたと考えても良いと考えます。第一蜀は軍事政権なのですから。


但し、北伐の失敗の要因は、孔明と姜維では随分と異なる印象を受けます。
孔明は、常に魏が対応の遅れる場合を狙っています。これは戦略的に正しいと考えても良さそうです。しかし負けていますから、作戦、戦術のレベルで失敗しています。
逆に姜維は、類い稀な戦術家として三国志には記されています。鍾会を防ぐエピソードなどは、その顕著な例でしょう。しかしどうも彼は、攻める時期を、蜀にしか見ていない。魏の事情を考慮していないのです。ですから、戦略レベルでの失敗に敗因があったのです。

戦略とは、軍事の中では最も政治に近い分野です。姜維という人は恐らく、最上級の現場指揮官であり、三流の政治家だったのではないでしょうか?
(F2102V/FOMA)
49 大伴
↑が長過ぎて挨拶ができませんでした。ここで。

キョンさん、リーさん、はじめまして。以後も宜しくお願いしますね。


リーさんの言われる十一%は、住民全体のですか?それとも、成人男性の?何処のどなたの、どの資料から導き出した試算なのかも、よければ教えて下さい。

住民の一割強に兵役をかした……確かに姜維も怨まれたでしょうね。
(F2102V/FOMA)
50
大伴さん、私も昨日11%がどうの、というのが載ってる本見ました!

名前とか忘れましたが、コンビニとかに置いてあるような奴ですよ。

どんなかというと、赤の表紙で上下巻ある雑誌みたいなのです。
リーさんはそれを見たのでは?

ではお邪魔しましたm(_ _)m
(W11K/au)
51 天草
リー殿>ようこそ!よろしくお願いします!

確かに11パーセントが何に対しての確率なのか気になりますね。全人口の11%なら、ひどい数字ですよね。基本的には駐屯地のある地から殆んど取ってるでしょうから、ある地域は成人男性が殆んどいなかったとか…。それでも現在までマンモス国の中国に驚愕。。。
(PC)
52 リー
11パーセントというのは“歴史群像シリーズ”っていう本からで、いわゆる赤本ってやつです。この本、かなり数字やデータが詳しいのですがやはり諸葛亮ひいきって感じも否めません。飛さんの見たやつかもしれません。いやしかしコンビニで売ってたんですか…うらやましい…
話しそれましたが、人口については、譚良嘯氏によれば蜀滅亡時、戸数28万人口94万、官吏4万、兵士は10万2千だそうです。私は所詮ミーハ―なので、専門的に論理的に歴史学的に(?)見たらどーなのかわかりませんが、姜維の度重なる北伐は無謀としか言い様がないと思ってしまいます。漢中の防衛軍までをも北伐にあてた姜維。彼は一体蜀に、魏にどういう思いを抱いていたんでしょう… まあ姜維がたとえおとなしく国を守っていたとしても、やはり晋にかなうわけはなかったでしょうが。それに姜維の奮闘があったからこそ三国志も面白いのですし。
余談ですが、三国時代は人口が140年頃の後漢に比べれば10分の1しかないと言われていますが、諸葛亮が死んだあたりから人口は回復しはじめ、魏は年2パーセントで伸び、呉は年1パーセント伸びたが、ただ蜀だけは横ばいだったそう。年がたてばたつほど魏に有利になっていく…姜維が焦るのもわからないわけではないが…蜀の人口がちっとも伸びないのは君のせいだよとも言いたくなってしまうのです。
長々と乱文失礼しました。
(A5304T/au)
53 リー
↑読みにくいったらありませんね。すみません・・・携帯で打ってたもんで・・・

しかも文色々変で御免なさい・・・
(PC)
54 エロハシ(けんごだっけ?汗)
久々登場申し訳ないです(滝汗)

ソース((゚゚+)キラーン!笑)は忘れましたが…なんかに、孔明が北伐を繰り返したのは、漢中にいるのが嫌だったからでは…みたいに書いてあるものがありました! 愚帝・劉禅は、亮が心酔していた名将達の志を忘れ、自らの私欲に走っていたのですからありえないこともないなぁと思いました。ならば姜維とて、同じ理由で北伐を繰り返したとは考えられないでしょうか? 歴史を紐解くうえで忘れがちですが、あくまで彼らも俺らと同じ人間ですから、嫌いなものを遠ざけたいと考えるのは当然かと… 検証願いますm(__)m
(P900i/FOMA)
55 リー
11パーセントというのは“歴史群像シリーズ”っていう本からで、いわゆる赤本ってやつです。この本、かなり数字やデータが詳しいのですがやはり諸葛亮ひいきって感じも否めません。飛さんの見たやつかもしれません。いやしかしコンビニで売ってたんですか…うらやましい…
話しそれましたが、人口については、譚良嘯氏によれば蜀滅亡時、戸数28万人口94万、官吏4万、兵士は10万2千だそうです。私は所詮ミーハ―なので、専門的に論理的に歴史学的に(?)見たらどーなのかわかりませんが、姜維の度重なる北伐は無謀としか言い様がないと思ってしまいます。漢中の防衛軍までをも北伐にあてた姜維。彼は一体蜀に、魏にどういう思いを抱いていたんでしょう… まあ姜維がたとえおとなしく国を守っていたとしても、やはり晋にかなうわけはなかったでしょうが。それに姜維の奮闘があったからこそ三国志も面白いのですし。
余談ですが、三国時代は人口が140年頃の後漢に比べれば10分の1しかないと言われていますが、諸葛亮が死んだあたりから人口は回復しはじめ、魏は年2パーセントで伸び、呉は年1パーセント伸びたが、ただ蜀だけは横ばいだったそう。年がたてばたつほど魏に有利になっていく…姜維が焦るのもわからないわけではないが…蜀の人口がちっとも伸びないのは君のせいだよとも言いたくなってしまうのです。
長々と乱文失礼しました。
(A5304T/au)
56 独眼龍李克用
リーさんの人口からいくと、滅亡時の人口ですから実際はもっと兵士はいたと推測するのですが、蜀の兵士が十三万前後、官吏が四万で全員男子でしょうから、男が十七万前後。人口の半々が、男女約五十万ずつとして、五十万の男性のうち成人から壮年がだいたい60〜70%とすると三十万から三十五万。そこから十七万引いて十三万から十八万が、兵役や役人になってないもの。ここから、商農工や豪族まで加えると煩雑になるので、割愛しますが農民はかなり少ないと思われます。農民は確か…たぶん…人口の半分近くいないと、きついはず。全体的に人手不足ではあったでしょうとは感じられます。
上の計算はある意味適当ですのであてにならないかも(笑)かなり漠然として根拠が薄い(苦笑)

エロハシさんの意見についてですが、劉禅は孔明の時はまともでないにしても、落ち度は特にないと思うんですが、どうでしょう?
やはり私にはわかりにくいので、詳しい方に譲ります。
(P900i/FOMA)
57 独眼龍李克用
間違えた!!人口の半分もいたらおかしいよ。
ということで、戸数の半分から三分の一ぐらい?(それでも多いかなぁ?)
(P900i/FOMA)
58 くわぁまん
それって、演義に書いてありゃしたね。

孔明も、戸籍整理した様に当時の戸籍帳簿はかなり誤差が有ったようです。

かの、士ショウが交州を治めていたとき、交州の人口は百数十万にも及んだと正史にあります。

と言うことは益州より人口多かったのかと言う疑問が生じてしまいます。

戦争が起きれば住民は逃げてしまう為その前、後の戸籍帳簿は誤差だらけだったと思います。また、後漢時の帳簿と差がありすぎです。
(SH900i/FOMA)
59 独眼龍李克用
くわぁまん殿、その通りです。そもそも益州に人が少ないとはいえ、後漢の都一つ分ぐらいの人口なわけないですよ。そもそも、豪族などの大規模で調査しにくい人の集まりや険阻な土地の戸籍調査なんて無理でしょう。わかるところだけ、肥沃なところだけしか調べてないのかもしれないですね。
でも、蜀は増やしても二、三百万人が限界ですね。それだと魏が二、三千万以上…これは勝てそうにない数字だ。
(P900i/FOMA)
60 リー
55,52なんか二回送ってますね。間違いです。すみません。管理人様消しちゃってください。

そうですね、当時の資料はかなり誤差があると思います。けれど後漢と比べて10分の一というのはほんとっぽいですよ?皇甫ヒツとかその他の歴史かもなんか色々言ってますし。私はよく知りませんが。まあ資料を疑いだすときりがありませんし。
しかし三国時代はまだ資料があるから良いですよね、紀元二年より前は人口の資料がありませんから・・・古代調べてる人は大変でしょうね・・・


人口の話。
漢、武帝時代(141〜)、彼の積極的な貿易や朝鮮王国滅ぼしたりなんやら色々したおかげで、まさに活気に満ちていた中国。けれど武帝が死んでみれば、国の財政は大規模なことばっかりしていたため、赤字。人口も減ったらしいですが、その後の皇帝達によって回復。人口は6千万人弱。
その後王莽が簒奪し光武帝が再び統一、その時、「海内の人民の数えられるものは、十の二、三に減っており辺境はさびれ、生き残ったものはなかった」。6千万人の20%〜30%とすれば大体千五百万くらい。光武帝はがんばって経費をきりつめ、人口の回復をはかり、後漢は年2%で回復していったらしいです。157年の統計では五千六百万人。
(PC)
61 リー
(長すぎて送れなかったので分け。上の続きです)
しかし黄巾の乱により人口激減。陳群いわく「今は喪乱の後で人民いたって少なく、漢の武帝、景帝の時に比べれば一大郡に過ぎない」、蒋済いわく「今は十二州あるけれど、民の数にいたっては漢の時の一大郡に過ぎない」。前漢でもっとも人口が多かったのは汝南郡で259万ほど。ということは魏の人口は250万くらいだと仮定してみます。
呉は、朱照日の報告を信じれば、兵士の数が13万ほど。資料によれば呉の全人口の9%が兵士になっていたらしいので、人口は140万くらい。
蜀の220年の記録を信じて90万ほどだとすれば、三国全部足しても480万。ちょっと多めに見積もっても500万。す、すくな・・・

ああー三国時代ってホント激動の時代だったのですね・・・
なんか数字ばっかで自分でもよくわからないのですが、曹操にしろ孫権にしろ諸葛亮にしろ姜維にしろ、相当人口の問題で悩んでそうですね。蜀なんてとくに深刻ですし。そこから屯田とかがうまれたのですね・・・

ちょっと姜維からずれてしまったので、彼の有名すぎる話を一つ。
姜維は死んだ時腹を割かれたが、その胆は一升ますほどの大きさだったらしいです。 
あーでも私普通の人のキモがどんくらいの大きさなのかわかんないんであんまピンときません(爆)

趙雲なんて全身肝っ玉だしねえ・・・(笑)

長くてすみません・・・
(PC)
62 独眼龍李克用
五百万は、少なっ!でも、黄布の乱以前から情勢悪いし、当然か。
しかし、いいなあ。そんなに資料持ってて。著者の名前言われても分からないよ(苦笑)
(P900i/FOMA)
63 天草
リー殿>いやぁ、何かの資料を見ながら書き込みされてるんですか?覚えてる事を書いてくださってるなら、凄い知識ですね!文才があるのかな?是非、三国図書館の短編小説の方も検討ください。

しかも肝の話しには笑いました(笑)激しく同意します。
(PC)
64 リー
覚えてないですよ〜しかもこの推測どっかの本で読んだので、ちょっとまねて書いてみただけ(笑)

しかも赤本には魏の人口は443万ってあるんですけども、それは貝塚氏の中国の歴史という本かららしいんですが、その貝塚さんがどっから資料とってきたかわかんない・・・ほんと本出してる方々、いっぱい読んでんでしょーね・・・

短編小説ですかっ!?無理ですよ〜 しかも私学生なんで読書感想文とか書かなきゃいけないんですよ!夏休みの(笑)うわー

どっかのサイトで、姜維は蜀にくだる時妻子を置き去りにして・・・ってあったのですが、置き去りにしたの母親だけじゃないのでしょうか?正史には妻子は魏にはいないっぽいですけども・・・他の本に書いてあんのかな・・・どなたかもしそんなこと読んだかもって方いらしたら教えてくださいv

でも姜維、魏の妻子を見捨て、また蜀で妻子作って・・・なかなかやりますね・・・
(PC)
65 我にかえった、リー
私阿呆なこといっぱい書いてますね。ツッコミどころ満載!!
陳グンの郡、字違います。アホだー
陳長文さんですよ!肉荊を曹操にやめるよういさめた人です。九品官人法を作ったお方です。
朱照日というのは、呉人で244年に魏に兵の数を報告した人です。
だからこの数字ほんとかどーかかなり怪しいです。敵に報告してる数ですから。見栄張ってるかもしれませんし、少なめに言ってあんのかもしれません。
9%というのは呉が晋に降服した時のデータですから、それを244年とを一緒に考えるなと言われればそれまでです(汗)
魏の人口も年2%で増えてるわけですから年によって結構違うわけですし。ある年にそろえて全部考えなきゃいけないわけですが。あーわけわからん。
とにかく超手抜きいい加減な推測です。信じないで下さい(汗)
(PC)
66 天草
李殿といい、リー殿といい(似てるなぁw)若い方は目の付け所が違いますね!

肝の話といい、子供の話といい、ウケまくりです(笑)

さて、確かに母親の話は正史に出てるみたいですが、子供の話は出てないなぁ。。。独身だったかな?
(PC)
67 大伴
姜維関連につき、参考上げ。別スレッド、「鍾会謀反の真相」も参照の事。
(F2102V/FOMA)
68 草真
初めまして
以後宜しくお願いします姜維様は大好きです
私的な知識を一つ、
反乱の際、
鍾会に協力はしたが
鍾会に、
鍾会『魏の配下を全員信用できるか?』
と聞かれると、
姜維様『魏に通報の危険がございます、全員即抹殺が良いでしょう・・・、』と答えたらしい、
鍾会『・・・、将には困らないだろうか?』
と聞かれると、
姜維様『貴方の進攻を防ぐ将が居ます』
と言ったらしい
お互いエリート出身だからと言う事もあり
すっかり信用した鍾会はそれを姜維様に任せる。しかし心臓発作で倒れ
(五十歳近い)てしまい抹殺実行が遅れる(涙)コレは恐らく孤立策
だと思うが鍾会に離反準備をさせるだけさせて
反逆の汚名を着せたうえに劉禅を迎える際に鍾会を始末しやすくしたかったのだろう
鍾会はこの時に魏の曹一族の騒動を利用して魏から連れてきた曹派の将兵の決意掌握、呉からきた国境併合部隊をそのまま遠路わざわざ来た援軍だとしてもてなし、住まわせて傾れ込んでくるであろう魏と共に戦うという策略のためかなり忙しい状態だったらしい、
離反直前に司馬派として監禁されていたの将の息子に密告されたらしく両名見事に破滅(汗)
したらしいです
姜維様の知識がもっと知りたいので上げます
長文のうえに明らかに可笑しい所が有りましたらおしえてください
(N2102V/FOMA)
69 天草
おぉ!
草真殿は姜維ファンでしたか!?

姜維の行動は、魏延・劉禅と並んで、蜀の三大論議の一つですからね。

さて、姜維の事は私は疎くてこのスレで学んだ事くらいしか知りませんが、彼は将軍だったのでしょうが、政治家としてはどうだったのでしょうか?
(PC)
70 大伴
知らない話ばかりですが……出典は何なのでしょうか?小説?
(F2102V/FOMA)
71 草真
本の名前は英雄達の百年戦争というやつと
裏方三国志という奴です
もう・・・姜維様万歳
(言い過ぎかどうか?)
(N2102V/FOMA)
72 草真
ちなみに小説ではない
演義と正史を纏めた物であります
もう一つは裏や見え無いところで何が起こったのかを正史で議論したりする奴です
(N2102V/FOMA)
73 草真
政治手腕については漢中に何万もの兵を押しこめられていたにもかかわらずに誰かの進言を取り入れ地味に肥えた土地を見つけ屯田して凌いだり
羌賊との二面攻撃を目論んだり
(失敗しましたが…)
諸葛誕の反乱の際、呉の諸葛格の北伐、曹ほうを廃した時、いずれも攻め込んでいて期に敏感である
しかしながら成都などには姜維様の居場所はなく、
政治という政治の権限自体なかったんじゃあないでしょうか?
政治手腕の情報もとみます
(N2102V/FOMA)
74 天草
諸葛亮は姜維の何に魅せられたのでしょうか?
(PC)
75 ユウキ
僕はキョウイは馬ショクに似てる気がするんですがコウメイはもしかしたら馬ショクの面影を見たんじゃ馬ショクに似てる部分を見つけたから馬ショクの二の舞にならないように大事に育てたとか
(P900i/FOMA)
76 門弟
羌維を馬職と照り合わせる。いい考えですね!キャラも少し似てますし…(そう思うのは自分だけ?)
(W21T/au)
77 オガコロ
僕はあまり詳しくないので間違ってるかもしれませんが、姜維は軍事型の人間であり、あまり政治関連が専門じゃなかったために、上手くいかなかったのかと思います。將エンや費イ、馬良、等がいたらなんとかなったのではと未熟者なりに勝手に推測してますが、みなさんはどお思いますか??
(EZ)
78
おそらく姜イがいた時は馬良は存命さていませんよ、
(EZ)
79 門弟
確かに羌維は最初は魏の一武将にすぎませんでしたし、諸葛亮のように政治で有利に立ち戦略で勝つやり方ができなかったんじゃないかと思います。戦争は力だけじゃ勝てないってことですかね?
(W21T/au)
80 ピエール
僕は彼が無能だったとは思えません。
武力はかなりのものでしただろうし軍略の面でも秀でていたと思います。
ただそれだけでは覆せないほど当時の魏と蜀の国力と人材の差は天と地ほどあったんではないでしょうか・・・・
(W21SA/au)
81 龍(ロン)
姜維…
優秀ではあったのでしょうね。
私も蜀好きですからいいイメージでいたいのですが…


敢えて辛辣に。
皆さん馬ショクのエピソード知ってますよね?
劉備が死の間際に
「馬ショクは口ほどの力はない。重要事項は任せられない。」
と。
しかし孔明は馬ショクを可愛がり結果、街亭の敗戦…

同じではないでしょうか?

姜維は優秀ではある。が小才においてのみ。
つまり戦争で例えるならば、
北伐の戦局を左右しない局地的な戦いでは優秀な結果をもたらすことができるが、戦局を左右する戦いにおいては優秀とは言えない。


私見ですけどね(汗)
(W22H/au)
82 ぺろ
龍さん初めまして!!俺も同じような見解ですね、司令官より部将としてなら末期のショクにおいて評価される人だったと思います、まあ末期のショクは彼以上の軍司令官は?といわれても何もいえませんけどね汗
(W21H/au)
83 門弟
少し疑問に思いましたが、蜀が滅亡した後に羌維は魏の武将(名前忘れました…)と蜀を再建しようとしましたよね。あの武将は羌維に魅せられたんでしょうか、それとも劉備たちの考え方に共感したのか、他にあるんでしょうか…?
(W21T/au)
84 景文
門弟サン、初めまして♪違っていたらどなたか訂正願います。それは鍾会と謀って晋に対して反乱を起こし独立しようとした姜維最後の大博打の事ですかね。あれは姜維に魅せられたのではなく、鍾会が自分に酔って自爆したものだったかと…。
私個人としては姜維は好きですね。確かに費緯のいう事を聴かず軍を動員しては国を疲弊させたのは事実ですし、諸葛亮の後継者としてはかなり厳しい点をつけざる得ない。しかし、劉禅を始めショクの多くの臣が投降する中、最後まで徹底抗戦した姜維には何か熱いものを感じざるを得ませんね。
(P900i/FOMA)
85 門弟
景文さんご意見ありがとうございます。鍾会でした!自爆とありますが蜀を滅ぼしたことで彼は自分には力があると思ったのでしょうか?僕も羌維は大好きです。諸葛亮の後継者としての責任は大かったと思います。それでも人生を蜀に掛けたことは普通の人間にできることじゃないと思いますよ。
(W21T/au)
86
自分も姜維は好きです(・▽・;)ただ、正史の姜維はたしか自分の守る城に蜀の大軍が押し寄せて、妻子や親までも捨て逃げたあげくに蜀に投降したにすぎない。たしか姜維を調べていたらこのような文がでてきてビックリしました(x_x;)ただ、孔明が姜維を誉め称えたのホントらしいですね!
(W21SA/au)
87 ぺろ
姜維は一部将として一軍を率いる立場なら趙雲位の名声は残せたと思いますが、やはり司令官としての才能はなかったみたいですね、この人も正史と演義で死に方から評価までバラバラな人ですよね...
(W21H/au)
88 ピエール
費偉は才能あるものが出てきてから巻き返そうと考えていましたが、実際は減っていく一方で私欲しか持たない官臣も目立ってきたため、このままでは現れる前に蜀が滅ぼされる思ったのではないのですかね?
だから軍の筆頭である自分が生きているうちに是が否でも領土を広げておきたいと考えたんじゃないでしょうか?しかし中々上手くいかない。焦ってさらに出兵をした。
ここらへんは孔明とかぶっているような気がしますね。
あまり根拠のない持論ですが・・・・
(W21SA/au)
>>88
費偉≠費イ(イは示に韋で「禕」)
ですよね?

費偉は姜維の事?
(PC)
90 ピエール
「このままでは〜」の前に姜維は、といれてませんでしたね^_^;
ご指摘ありがとうございます
(W21SA/au)
91
ふと思ったのですが、姜維と馬謖?は気が合うかもしれなかったですね"笑、ともに孔明に認められ、愛された武将…、性格や風格が二人とも似てるかもしれない…、とか思いました"笑
(EZ)
92 ピエール
結局は姜維も馬謖も全軍を率いる総大将 という器ではなく、副リーダーに適していたのかもしれませんね。
(W21SA/au)
93 カバ
自分が思うのはあの孔明(まぁ過大評価されている部分もありますが)でさえどう考えを巡らしても人材不足、国力の差を埋める事は出来なかった。それだけギとショクの差は大きかったのなら戦うだけ無駄だという意見もあるとは思いますが…ショクの人を守るためにも本土決戦は避けたかった、だから攻め込む事で守るしかなかったのではないでしょうか??
まぁいずれにしても孔明でさえ出来なかったのだからキョウ維には荷が重すぎましたねσ(^-^;)

突然の乱文すいません。
(W21CA/au)
94 三国志○
姜イかぁ!間違いなく名将ですよね。孔明とかなり違うのは北閥を行った後の事後処理などに問題がありすぎるのでは?!孔明はほとんど北閥に関してはほぼ勝てはしなかったものの、惨敗という負けはなかったと思いますもちろん1兵力差や地理(守りやすいが攻め込みにくい)さらには2人材いわゆる副将に優秀な武将がいないプラス3リュウ禅と宦官のせいで思うように軍事を行えない事。後、4新参者↓この条件では誰であろうと著しい戦果など挙げれるはずがありません…がそれでも戦ったのはやはり義がある男ですよ!孔明はリュウ備といろいろ親密な話しがありますから漢室復興の大義やら先帝の意志を継いで戦う…ってのはわかるんですけど姜イはショクに仕えるのはリュウ禅の代からなんで忠誠心がよく働きましたよね?なぜ??とにかく上司ってか君主が腐ってるのに頑張って戦った方です!まぁ何が言いたかったと言うと彼は義理堅く戦も上手だが運と環境に恵まれなさすぎた、まさに悲運の名将です…。しかし少数で大勢に勝つのが序盤はかなりあるのに後の方では逆転勝利ってあんまりなくないですか??
(V903SH)
95 巫俊(ふしゅん)
国力差があるから、1回くらい少数で大勢に勝ったって、逆転的に攻勢なんてわけにはいかないからですよ。

厳しい条件を乗り越えた人だけが、歴史を劇的に変化させたんだと思います。
姜維の状況は厳しいかもしれないですが、それくらいの厳しさならいつの時代だってあることです。

あと副将に人材がいないとかは、あんまり目だっていないというだけでは?
というか、副将がそんなに目立つようなら、蜀はあんな簡単に滅びないだろうと思っちゃいますが
(PC)
96 しす
私は>>92でピエールさんが指摘されているように指揮官としては優れていたものの、総大将としては失格ではないかな…というのが正直な意見です。
彼が忠臣であり、悲劇の将であるという面には全く異論を挟むつもりはありませんけどね。
ただ日本人好みの武将ではあるなと思います。
いわゆる「判官贔屓」ってやつですよね。

そもそも私は諸葛亮が本気で魏を滅ぼすつもりで北伐を繰り返していたとは思っていないのですが、姜維の場合それを本気でやろうとしてしまった。
そして彼自身が疑うべくもない忠臣であったことが悲劇の一因かな…と思ってます。
もともと蜀は他所からやってきた侵略政権、軍事政権であり漢室復興を大義名分に掲げる以上、北伐をしないわけにはいかなかったのでしょうが、姜維の場合国力を無視して北伐を繰り返し国力を疲弊させてしまった。
ここでも繰り返し言われてることですが、蜀滅亡の戦犯であることは間違いないですよね。

人によって評価が変わる人物ですが、何だかんだで陳壽の評が一番妥当な気もします。
(PC)
97 三国志○
なるほど!巫俊さん、しすさん頷ける意見が多いですね☆ただ巫俊サン中国には色んな時代に優れた武将がいましたよね!陳慶子とかいい例じゃないですか?7000の兵で42の城を落としたとか…。呉起とかもかなり有名ですよね生涯無敗を誇ったとか!でも姜イの状況はかなり悲惨ですよ巫俊サン!主君に恵まれてなさすぎです↓『将が軍にある時は例え主君の命でも聞けぬ事がある』という有名な言葉もあるのに…上記の二人もそうですが優れた武将はだいたいが主君には恵まれていると思います、というよりこれは絶対条件だと思います。でも姜イの場合は戦争中に召集されたりして自分の持っている力を存分に奮う事すらできてないですよね。戦の時に国が一枚岩ではないってのはまさにどーしようもない状況…キツイですよこれは!後、みなさん姜イが戦犯扱いはショクびいきの僕からすると残念ですね…。たしかに無理に戦を仕掛けて国を疲弊さしたのは紛れもなく姜イですが(それを戦犯と言うんですが…)姜イがいたからこそショクは持ち堪えたのでは?きっと姜イがいなければもっと早くに降伏していた気がします。 姜イが罪人?というか戦犯なのは結果論であり当時の状況などはわかりませんがやはり彼は義に殉じたのでは?リュウ備から始まった志が姜イまではよく伝わっていたのだと思います、まさに『勝算なきは戦うなかれ、だが座して滅びを待つよりい出て活路を求めん!ここをしりぞいて我等の生きる道はない』って奴です蒼天で言うところの〈キョウ〉ですかね☆☆だから悪いのはリュウ禅とそれにへつらう宦官達!国が総力をあげ戦っていれば歴史は変わっていたと信じたいですね呉からの援軍も間に合わなかったし……。
(V903SH)
98 しす
>>97
こういう言い方は姜維好きの方に言うのは酷かもしれませんが、蜀が政権を維持できたのは姜維のお陰だとは思えません。
蜀の滅亡は過去にためこんだ貯金を食いつぶした結果でしかないと思います。
主君が悪すぎるという意見にしても正史を読む限りでは無能であるかどうかは極めて曖昧であり、むしろ演義での描かれ方の影響が大きいというのが私の意見です。
これは姜維にも言えることで、正史での評価よりも演義終盤の主人公、諸葛亮の後継者というイメージが先行してしまった結果だと思います。
そもそも劉禅のようにろくに戦いもせずに降伏することってそんなに悪いことなのでしょうか。
私にはそうは思えないのですが。
(PC)
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