2 天草
間違いなく、魏でも一位・二位を争う名将ですよね。
しかし、曹操の元に降るのは30歳前後なんですよね。惜しいなぁ。若い頃から、活躍してればもっと武勇伝も出てたんでしょうけど…。
彼は丁原によって起用されますが、呂布といい張遼といい、丁原って。。。
しかし、曹操の元に降るのは30歳前後なんですよね。惜しいなぁ。若い頃から、活躍してればもっと武勇伝も出てたんでしょうけど…。
彼は丁原によって起用されますが、呂布といい張遼といい、丁原って。。。
(PC)
5 天草
諸葛豊殿>ですよね(笑)
親が偉大すぎたかな?
よく他のスレでも話題に登りますが、張遼と于禁・楽進などの不仲には、張遼自身の人間性の問題が、あったんでしょうか?
張遼ファンの諸葛豊殿には酷な議題ですが、皆さんどう思われます?
親が偉大すぎたかな?
よく他のスレでも話題に登りますが、張遼と于禁・楽進などの不仲には、張遼自身の人間性の問題が、あったんでしょうか?
張遼ファンの諸葛豊殿には酷な議題ですが、皆さんどう思われます?
(PC)
6 しす
飽くまで個人的着主観ですが、張遼と于禁・楽進の不仲って本人の人間性云々よりも、彼の経歴に関係するんじゃないですかね。
外様と譜代の確執というか。
どうも曹軍の中で張遼って微妙に浮いた存在だったような気がするのですが。
特に呂布の部下からの転職組ですし。
でも他の呂布配下だった連中はどうなんしょ?
外様と譜代の確執というか。
どうも曹軍の中で張遼って微妙に浮いた存在だったような気がするのですが。
特に呂布の部下からの転職組ですし。
でも他の呂布配下だった連中はどうなんしょ?
(PC)
11 独眼龍李克用
張遼は呂布配下じゃなくて同志じゃないんですかね?仕えていた主君がどんどん死んでいくから代わっていっただけでしょう。
主君と死ぬのも立派といえるでしょうが、生きて功名を成すのもそうそうできることではないです。
「高順の死するや、その生くるに、賢る。張遼の生くるや、その死するに賢る。」ですね。
主君と死ぬのも立派といえるでしょうが、生きて功名を成すのもそうそうできることではないです。
「高順の死するや、その生くるに、賢る。張遼の生くるや、その死するに賢る。」ですね。
(P900i/FOMA)
13 天草
何となく、張遼と呂布って、想像つかないんですよね?
李殿が言う通り、本当に同志みたいな関係だったんでしょうか?
それともただ武骨で、単純に一度部下になったから、忠誠をってタイプなんでしょうか?
後者なら、何度も主君を変えるのは納得いかないし。。。
李殿が言う通り、本当に同志みたいな関係だったんでしょうか?
それともただ武骨で、単純に一度部下になったから、忠誠をってタイプなんでしょうか?
後者なら、何度も主君を変えるのは納得いかないし。。。
(PC)
14 しす
実際呂布軍にいた時の張遼の立場って気になるとこではありますよね。
わしは個人的に呂布軍での立場って意外と低かったんじゃないかな?と思ってるのですが。
どうも高順辺りと同格に扱われていたとは思えないんですけど。
同志と言えば、臧覇は史実ではそんな雰囲気漂わせてますね。
わしは個人的に呂布軍での立場って意外と低かったんじゃないかな?と思ってるのですが。
どうも高順辺りと同格に扱われていたとは思えないんですけど。
同志と言えば、臧覇は史実ではそんな雰囲気漂わせてますね。
(PC)
15 くわぁまん
陳宮、高順は仲たがいしていたと正史にありますが、張遼はどうだったのか?
あくまで、中立の立場を取っていたの知りたいね。
話に出てこない処を見ると小粒だったのかな?
あくまで、中立の立場を取っていたの知りたいね。
話に出てこない処を見ると小粒だったのかな?
(SH900i/FOMA)
18 しす
演義だと呂布軍が劉備のいる小沛を囲んだ時に関羽が
「人品常ならぬ貴公の如き人物がなぜ逆賊につく」
となじると、張遼は恥じ入って兵を引き、関羽も敵ながらあっぱれと敢えて城を出て追うことはしませんでした。
時は流れ、呂布が曹操に敗れ、張遼も縄を受ける憂き目にあいます。
この時に関羽が張遼の命乞いをし、張遼は曹操軍に…。
その後劉備が曹操と袂を分かった時に関羽は孤立。
関羽の恩に報いるために張遼は関羽に降伏を説きに行く。
とその後はご存知の通りですが…正史に二人の関係って全く記述ないんですよね。
関羽は徐晃とは交流があったようですが。
結局は張遼の降伏、関羽の降伏をある程度正当化するための演出だとは思うのですが、上手く考えたもんです。
結局赤壁以後は張遼は合肥に駐屯することになるので、「関羽千里行」での二人の別れが実は今生の別れってことになっちゃうんですよね。
「人品常ならぬ貴公の如き人物がなぜ逆賊につく」
となじると、張遼は恥じ入って兵を引き、関羽も敵ながらあっぱれと敢えて城を出て追うことはしませんでした。
時は流れ、呂布が曹操に敗れ、張遼も縄を受ける憂き目にあいます。
この時に関羽が張遼の命乞いをし、張遼は曹操軍に…。
その後劉備が曹操と袂を分かった時に関羽は孤立。
関羽の恩に報いるために張遼は関羽に降伏を説きに行く。
とその後はご存知の通りですが…正史に二人の関係って全く記述ないんですよね。
関羽は徐晃とは交流があったようですが。
結局は張遼の降伏、関羽の降伏をある程度正当化するための演出だとは思うのですが、上手く考えたもんです。
結局赤壁以後は張遼は合肥に駐屯することになるので、「関羽千里行」での二人の別れが実は今生の別れってことになっちゃうんですよね。
(PC)
19 天草
張遼が関羽に投降を促し、関羽の条件を曹操に伝えた…というのは、『フ子』に記載されてます。しかし、確かに昔なじみだったという記述が見当たらないんですよね。どなたか、見つけた方は是非教えてください。
しす殿>関羽は徐晃とは交流があったようですが…これは知りませんでした。何かソースがありますか?
しす殿>関羽は徐晃とは交流があったようですが…これは知りませんでした。何かソースがありますか?
(PC)
20 しす
>天草殿
関羽と張遼の交流は正史の関羽の伝にも見つけることができました。
裴注でも「傅子」の記述を引用して、二人の関係を伺わせる記述が残されてました。
まったくもって恥ずかしい限りであります。
で関羽と徐晃の件ですが同じ関羽の伝で、やはり裴松之の注に記述がありました。
『蜀記』曰く。
関羽と徐晃はかねてから相愛の仲だったので、遠くからともに語り合い、平生のことばかりを話し、軍事に言及することはなかった。
しばらくして、徐晃は馬から下りると命令を発した。
「関雲長の首を取った者には賞金千斤与えよう。」
関羽は驚き恐れ徐晃に言った。
「大兄、それは何たる言葉か!」
徐晃曰く。
「これは国家の事である。」
関羽の樊城攻めのの時の記述ですが、三国志ってよく考えると戦時でも結構敵同士でまったり会話したり、手紙のやり取りしてたりしますよね。
関羽と張遼の交流は正史の関羽の伝にも見つけることができました。
裴注でも「傅子」の記述を引用して、二人の関係を伺わせる記述が残されてました。
まったくもって恥ずかしい限りであります。
で関羽と徐晃の件ですが同じ関羽の伝で、やはり裴松之の注に記述がありました。
『蜀記』曰く。
関羽と徐晃はかねてから相愛の仲だったので、遠くからともに語り合い、平生のことばかりを話し、軍事に言及することはなかった。
しばらくして、徐晃は馬から下りると命令を発した。
「関雲長の首を取った者には賞金千斤与えよう。」
関羽は驚き恐れ徐晃に言った。
「大兄、それは何たる言葉か!」
徐晃曰く。
「これは国家の事である。」
関羽の樊城攻めのの時の記述ですが、三国志ってよく考えると戦時でも結構敵同士でまったり会話したり、手紙のやり取りしてたりしますよね。
(PC)
21 天草
あ〜そっか!!!
そのやり取りがありましたね。2人は知り合いだったんだ。
張遼の話に戻しますが…彼の悪い点を見つけてみたいですね。
ここで挙げた様に一部アンチファンの中で、彼は忠義の人でなかったのでは?という話しがあるらしいですが、他に彼の悪行はないでしょうか?
張遼ファン多いでしょうから、聞きにくいのですが(笑)
そのやり取りがありましたね。2人は知り合いだったんだ。
張遼の話に戻しますが…彼の悪い点を見つけてみたいですね。
ここで挙げた様に一部アンチファンの中で、彼は忠義の人でなかったのでは?という話しがあるらしいですが、他に彼の悪行はないでしょうか?
張遼ファン多いでしょうから、聞きにくいのですが(笑)
(PC)
22 大伴
接点といえば、白馬を攻める際に、関羽と共に先鋒を勤めています。この位でしょうか。
そう言えば、張遼は樊の曹仁を助けにいった時は間に合っていませんね。張遼伝で唯一関羽の名が出る箇所です。
彼は曹操の陣に加わる以前の記録がほとんどありませんね。陳寿が名将の汚点と考え記さなかったのでしょうか?
そう言えば、張遼は樊の曹仁を助けにいった時は間に合っていませんね。張遼伝で唯一関羽の名が出る箇所です。
彼は曹操の陣に加わる以前の記録がほとんどありませんね。陳寿が名将の汚点と考え記さなかったのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
23 ユウキ
うーん。人間性から探っていくと合肥の戦いの際にリテン、ガクシンと仲が悪いが協力したというエピソードが一番わかりやすいと思いますが。
チョウリョウはガクシンやリテンの何が気にいらなかったんだろう??二人共全然違うタイプの人間ですよね…
ガクシンやリテンは古参だから途中参加でリョフと共に戦っていたチョウリョウを嫌っていたんでしょうか??
外柔内剛系の人物かな。
チョウリョウはガクシンやリテンの何が気にいらなかったんだろう??二人共全然違うタイプの人間ですよね…
ガクシンやリテンは古参だから途中参加でリョフと共に戦っていたチョウリョウを嫌っていたんでしょうか??
外柔内剛系の人物かな。
(P900i/FOMA)
24 天草
張遼伝と李典伝で、微妙にニュアンスが違うのが気になりますね。
張遼伝では…
曹操が事前に彼らに残した命令書には「張遼・李典は城外で戦え」とあったが、諸将はためらって同意しなかった。張遼は「公の救援を待っていたら我が軍は敗北するぞ。敵の包囲網が整わぬうちに攻撃してから守ればよい」と主張し、李典も賛成したので、勇気のある兵士八百人を募集し、牛を潰して彼らに振る舞った。
李典伝では…
張遼は城外に出て戦おうと考えたものの、平素より楽進・李典と仲が悪かったので、彼らが賛成しないのではないかと心配した。しかし李典は憤然として「これは国家の一大事。私的な恨みのために公的な道義を斥けることはしませんぞ」と言った。
強気で統率力のある張遼伝の彼か?慎重で猜疑心の強い李典伝の彼か?
真相は?
張遼伝では…
曹操が事前に彼らに残した命令書には「張遼・李典は城外で戦え」とあったが、諸将はためらって同意しなかった。張遼は「公の救援を待っていたら我が軍は敗北するぞ。敵の包囲網が整わぬうちに攻撃してから守ればよい」と主張し、李典も賛成したので、勇気のある兵士八百人を募集し、牛を潰して彼らに振る舞った。
李典伝では…
張遼は城外に出て戦おうと考えたものの、平素より楽進・李典と仲が悪かったので、彼らが賛成しないのではないかと心配した。しかし李典は憤然として「これは国家の一大事。私的な恨みのために公的な道義を斥けることはしませんぞ」と言った。
強気で統率力のある張遼伝の彼か?慎重で猜疑心の強い李典伝の彼か?
真相は?
(PC)
26 大伴
李典伝の李典の言葉は、張遼が提案をせねば出ませんし、張遼伝にも李典が賛成したとあります。
二人に疑問を持ちつつも、張遼は強く攻撃を主張。李典、張遼の言葉に疑問のニュアンスを感じ取って、公私は分けると意見に賛同。
私は二律背反する訳では無いと考えますが……
二人に疑問を持ちつつも、張遼は強く攻撃を主張。李典、張遼の言葉に疑問のニュアンスを感じ取って、公私は分けると意見に賛同。
私は二律背反する訳では無いと考えますが……
(F2102V/FOMA)
28 天草
>>24に対する意見を改めて募集中。
>>26、意見感謝☆
張遼ってかなり長く活躍したイメージだったのですが、実は52歳くらいで亡くなってるんですよね。
張遼が丁原の配下になるのは、霊帝崩御の前ですから180年中盤くらい?だとすると、10代で既に将になってた可能性が高いです。
張遼…カッコヨスギル…。
>>26、意見感謝☆
張遼ってかなり長く活躍したイメージだったのですが、実は52歳くらいで亡くなってるんですよね。
張遼が丁原の配下になるのは、霊帝崩御の前ですから180年中盤くらい?だとすると、10代で既に将になってた可能性が高いです。
張遼…カッコヨスギル…。
(PC)
31 天草
>>29う〜ん彼の年齢も謎がいっぱい(?)ですな。
お?
諸葛豊サン>久しぶりですね。
確かにあまりないですね。強いてあげるなら、何度も出てますが、李典などと仲が悪かった事ですかね?
もしかしたら、曹操軍団の生え抜きの武将からは良く思われてなかったのかも知れませんね。
まぁ、晋の時代に書かれた正史ですから、彼が英雄扱いなのは、しょうがないんでしょうね。
お?
諸葛豊サン>久しぶりですね。
確かにあまりないですね。強いてあげるなら、何度も出てますが、李典などと仲が悪かった事ですかね?
もしかしたら、曹操軍団の生え抜きの武将からは良く思われてなかったのかも知れませんね。
まぁ、晋の時代に書かれた正史ですから、彼が英雄扱いなのは、しょうがないんでしょうね。
(PC)
32 曹徳
董卓死後も呂布に付いていった事が失敗と言えませんか?この時、呂布でじゃなくてカクに付いてけば良かったと思います。呂布に付いていくほうが良いと思ったのなら丁原殺しを良しとしてしまい、それこそ汚点では?
(P900iV/FOMA)
33 赤龍
董卓死後に関しては、涼州人と并州人の派閥問題があったと仮定すると、そのまま呂布に従うしかなかったのでは?と思います。私は、元丁原指揮下の将兵はそのまま董卓軍に組み込まれた後も呂布の指揮下に入っていたのではと思ってます。
(J-SA05)
34 大伴
私も張遼の中に、呂布に従うという選択以外はなかっただろうと考えます。呂布に伴われ董卓に従った事からも、呂布との密接さを感じますね。それは派閥問題かも知れませんし、もっと別の関係(例えば強い信頼関係)かも知れません。
私が考えるに張遼という人は、案外にも依存心の強い人だったのでは無いでしょうか?
私が考えるに張遼という人は、案外にも依存心の強い人だったのでは無いでしょうか?
(D505iS)
35 化野稀有
いつも楽しく読ませてもらっています。
ちょうど妹と張遼の話をしていたので、投稿してみたくなりました。
張遼という人物は何度も主君を替えていますよね。
仕方なかったとはいえ、あまりにもあっさりと乗り換えたイメージが…(高順と比べるからかな?)。
張遼好きの妹でさえ、
「サラリーマンぽいよね」
と言ってた位ですし。
将軍としては優秀でも、乱世に覇を唱えるような野心を持てなかった(だから野望の塊みたいな主君を好んだ)…というのは考えすぎでしょうか。
官僚的な丁原が簡単に殺されてしまったことの反省からかもしれませんが。
強さに魅かれた男、そんなふうにも思えます。
ちょうど妹と張遼の話をしていたので、投稿してみたくなりました。
張遼という人物は何度も主君を替えていますよね。
仕方なかったとはいえ、あまりにもあっさりと乗り換えたイメージが…(高順と比べるからかな?)。
張遼好きの妹でさえ、
「サラリーマンぽいよね」
と言ってた位ですし。
将軍としては優秀でも、乱世に覇を唱えるような野心を持てなかった(だから野望の塊みたいな主君を好んだ)…というのは考えすぎでしょうか。
官僚的な丁原が簡単に殺されてしまったことの反省からかもしれませんが。
強さに魅かれた男、そんなふうにも思えます。
(P900i/FOMA)
36 天草
張遼の人柄・性格についての話しですが…皆さん素晴らしいですね。
そう言われると、全部正解のような気がします。
武の力はあった。軍を率いる能力もあった。名声も地位も高く、人望もあったが、TOPになる人物ではなかった。。。
こんな感じでしょうか?
特に>>34の依存心の強い人という表現は納得させられました。
>>35化野稀有サン、お久しぶりです☆
妹サンと張遼の話が出来るなんて…羨ましい(笑)
しかも「サラリーマンぽいよね」なんて味のあるコメントは中々出せませんよ?(笑)
さて、張遼は自尊心・プライドが異常に高かったとあると思いますが、どこかにそれが分かるようなエピソードはありませんか?
合肥の三人の話以外でお願いします。
そう言われると、全部正解のような気がします。
武の力はあった。軍を率いる能力もあった。名声も地位も高く、人望もあったが、TOPになる人物ではなかった。。。
こんな感じでしょうか?
特に>>34の依存心の強い人という表現は納得させられました。
>>35化野稀有サン、お久しぶりです☆
妹サンと張遼の話が出来るなんて…羨ましい(笑)
しかも「サラリーマンぽいよね」なんて味のあるコメントは中々出せませんよ?(笑)
さて、張遼は自尊心・プライドが異常に高かったとあると思いますが、どこかにそれが分かるようなエピソードはありませんか?
合肥の三人の話以外でお願いします。
(PC)
37 大伴
化野稀有さん今日は。以後も宜しくお願いしますね。
張遼は病気であったにも拘わらず孫権を攻める作戦に参加し、病気が悪化して死亡しましたよね。ある種のプライドが参加をさせまのでは無いでしょうか?
張遼は病気であったにも拘わらず孫権を攻める作戦に参加し、病気が悪化して死亡しましたよね。ある種のプライドが参加をさせまのでは無いでしょうか?
(D505iS)
39 化野稀有
天草さん、大伴さん、こちらこそ今後ともよろしくお願いします。
さて、私は正史に詳しくないので(というより三国志の知識は妹以下なので)天草さんの質問には答えられないのですが、
「戦場にしか居場所を見つけられなかった」
というのはどうでしょうか?
武には自信があるけれど不器用で人付き合いも上手くなく、いつまで経っても中途採用組だという劣等感がつきまとう。
だからこそ、誰にも負けない功績が欲しかった。それに戦場でなら古参武将(例えば楽進や李典)と同じ一武将でいられる…。
…これだと、まるでコンプレックスの塊みたいですけどね。
同じ五将軍で、張遼より後に降ってきた張コウが普段どのように過ごしていたのか(『蒼天航路』では辺境の討伐に従事していたとありましたが)気になるところです。
さて、私は正史に詳しくないので(というより三国志の知識は妹以下なので)天草さんの質問には答えられないのですが、
「戦場にしか居場所を見つけられなかった」
というのはどうでしょうか?
武には自信があるけれど不器用で人付き合いも上手くなく、いつまで経っても中途採用組だという劣等感がつきまとう。
だからこそ、誰にも負けない功績が欲しかった。それに戦場でなら古参武将(例えば楽進や李典)と同じ一武将でいられる…。
…これだと、まるでコンプレックスの塊みたいですけどね。
同じ五将軍で、張遼より後に降ってきた張コウが普段どのように過ごしていたのか(『蒼天航路』では辺境の討伐に従事していたとありましたが)気になるところです。
(P900i/FOMA)
40 大伴
>>36
217年の濡須からの撤退も、判断を誤っていますし、失敗しそうになった例ですね。
>>39
張遼という人を丁寧に読めば、その様な人物であった可能性は無くは無いと思います。私自身も、そういう人物であったのでは無いかと考えています。
217年の濡須からの撤退も、判断を誤っていますし、失敗しそうになった例ですね。
>>39
張遼という人を丁寧に読めば、その様な人物であった可能性は無くは無いと思います。私自身も、そういう人物であったのでは無いかと考えています。
(D505iS)
44 劉
こっちでも一番のりですかね???"笑
新年早々思ったのですが、蒼天の張遼の青龍刀は関羽に影響を受けた感じになってますよね?武器に関しては演義の話しになってしまうのですが、コーエー無双など関羽と似た武器を使っている張遼…、
これは張遼と関羽が仲がいいためでしょうか?それとも一度戦っているため?
新年早々思ったのですが、蒼天の張遼の青龍刀は関羽に影響を受けた感じになってますよね?武器に関しては演義の話しになってしまうのですが、コーエー無双など関羽と似た武器を使っている張遼…、
これは張遼と関羽が仲がいいためでしょうか?それとも一度戦っているため?
(EZ)
45 天草
某所で彼について語りましたのでageます。
張遼伝の出だしに彼が改名していたというエピソードがある事に気が付きました。先祖はジョウ壱という人間らしく、復讐を避けるために姓を変えた…とありますから、本名は『ジョウ遼』と考えても良いのでしょうか?
何かカッコ悪いし…
(ー'`ー;)
張遼伝の出だしに彼が改名していたというエピソードがある事に気が付きました。先祖はジョウ壱という人間らしく、復讐を避けるために姓を変えた…とありますから、本名は『ジョウ遼』と考えても良いのでしょうか?
何かカッコ悪いし…
(ー'`ー;)
(W31SA/au)
49 赤龍
これは推測ですが、聶壱は前漢の人。ということは、恨みを避けるため改姓したのはそのころのことと考えた方が妥当ではないでしょうか?200年以上たってから恨みを避けるため改姓というのはおかしいですからね。
ということで、改姓したのは張遼の先祖のことではないか、つまり張遼自身は聶姓を使用していた時期はなかったのでは?と考えています。あくまで私の推測ですが。
ということで、改姓したのは張遼の先祖のことではないか、つまり張遼自身は聶姓を使用していた時期はなかったのでは?と考えています。あくまで私の推測ですが。
(PC)
50 ストラップ
>>49
僕も>>>176-24に自信の無い書き方をしましたが、あの記述は曖昧な書き方に見えますよね。一言「その先祖が」と付けてくれれば良かったのに。
とはいえ知人が、「我が家系は北条の傍系だったが明治に、源氏の祟りを恐れて改姓した」と言っていました(真偽不明)。ですので、ぐっと時代が下がっての改姓も全く無い話では無いのかなぁ、とも思います。
僕も>>>176-24に自信の無い書き方をしましたが、あの記述は曖昧な書き方に見えますよね。一言「その先祖が」と付けてくれれば良かったのに。
とはいえ知人が、「我が家系は北条の傍系だったが明治に、源氏の祟りを恐れて改姓した」と言っていました(真偽不明)。ですので、ぐっと時代が下がっての改姓も全く無い話では無いのかなぁ、とも思います。
(F2102V/FOMA)
52 赤龍
今読み返すと>>49の私の文章「これは推測ですが」の位置がおかしいですね。
聶壱は前漢の人物。『漢書』匈奴伝によると武帝の時代の人です。ざっと300年くらい前のひとです。
「改姓したのは張遼の先祖のときだろう」という部分が私の推測です。あれじゃ聶壱が漢代というのまで私の推測に見える……。下手な文章ですいません。
聶壱は前漢の人物。『漢書』匈奴伝によると武帝の時代の人です。ざっと300年くらい前のひとです。
「改姓したのは張遼の先祖のときだろう」という部分が私の推測です。あれじゃ聶壱が漢代というのまで私の推測に見える……。下手な文章ですいません。
(PC)
53 皇澪桜
私が一番好きな武将の張遼ですが、彼の凄いのは騎馬民族に騎馬でかったことだとある本で読みました。
彼の生まれ育った雁門郡という地は、どういった環境なんでしょうか?
騎馬民族ではないが、馬が多く、乗る機会がおおかったとかあるのでしょうか?
郭嘉の戦略・戦術選択が良かったのか、張遼の実力なのか…どなたか御教授願えますでしょうか?
彼の生まれ育った雁門郡という地は、どういった環境なんでしょうか?
騎馬民族ではないが、馬が多く、乗る機会がおおかったとかあるのでしょうか?
郭嘉の戦略・戦術選択が良かったのか、張遼の実力なのか…どなたか御教授願えますでしょうか?
(W52CA/au)
54 諏訪
>>53
『漢書』「地理志」より。
「定襄、雲中、五原,本戎狄也,頗有趙、齊、衛、楚之徙。其民鄙樸,少禮文,好射獵。雁門亦同俗,于天文別屬燕。」
(定襄・雲中・五原はもともとは異民族の地で、趙・斉・衛・楚からの移住者が多い。住民は田舎じみて飾り気がなく、礼儀や文化はあまりなく、弓を射て猟をすることを好む。雁門もまた同じような風俗だが、天文については別に燕に属す。)
雁門は、前漢のころから対匈奴戦の前線基地となった地で、漢と匈奴が講和したときには交流の地になっています。
張遼の祖先とされる聶壱は雁門郡馬邑県の豪族で、前漢の武帝の時代に、降伏すると偽って匈奴をおびき寄せようとして失敗しますが、匈奴と交流のあった人物だと考えられます。
その後は改姓までして匈奴の怨みを避けようとしていますが。
>騎馬民族に騎馬でかった
柳城の戦いで張遼が騎兵を率いていたのかどうかわかりませんし、騎馬民族に勝ったというだけなら、曹彰や田豫、牽招らも勝っています。
張遼は名将だとは思いますが、このことを根拠にして優れているとはいえないと思います。
『漢書』「地理志」より。
「定襄、雲中、五原,本戎狄也,頗有趙、齊、衛、楚之徙。其民鄙樸,少禮文,好射獵。雁門亦同俗,于天文別屬燕。」
(定襄・雲中・五原はもともとは異民族の地で、趙・斉・衛・楚からの移住者が多い。住民は田舎じみて飾り気がなく、礼儀や文化はあまりなく、弓を射て猟をすることを好む。雁門もまた同じような風俗だが、天文については別に燕に属す。)
雁門は、前漢のころから対匈奴戦の前線基地となった地で、漢と匈奴が講和したときには交流の地になっています。
張遼の祖先とされる聶壱は雁門郡馬邑県の豪族で、前漢の武帝の時代に、降伏すると偽って匈奴をおびき寄せようとして失敗しますが、匈奴と交流のあった人物だと考えられます。
その後は改姓までして匈奴の怨みを避けようとしていますが。
>騎馬民族に騎馬でかった
柳城の戦いで張遼が騎兵を率いていたのかどうかわかりませんし、騎馬民族に勝ったというだけなら、曹彰や田豫、牽招らも勝っています。
張遼は名将だとは思いますが、このことを根拠にして優れているとはいえないと思います。
(W51S/au)