1 小龍

裴松之とは?

私は正史を見た事がないので、よく分からないのですが、裴松之って注釈をしてる人ですよね。ここを見る限り、かなり厳しい注釈をしてるみたいですが、どんな人物なんですか?
(N900i/FOMA)
2 天草
調べてみました。

どうやら、南朝の宋の時代に人のようです。幼い頃から『神童』と呼ばれた秀才で、文官としてかなり出世しているようです。

さらに調査してみます。
(PC)
3 大伴
確かに。
我々は陳寿の目を通して三国志を見るだけでは無く、裴松之の指す資料や彼自身の意見によって、三国志を多角的に捕らえる事ができる様になっています。彼は三国志に厚みを付けた功労者だ。
しかし私を含め、多くの人々は彼に注目していない。私も彼については何も知らない。だから知りたい。

陳寿に関しては、晋書に色々と中傷が書かれていて、その人物の一端を知る事ができますが、裴松之に関しては、主にどの資料を当たれば良いのでしょうか?どなたかご教授下さい。
(F2102V/FOMA)
4 漢森
「南史」に伝が立っていますよ、それと「宋書」にも。
立派な人だったと云う記述ばっかりで、今一面白味がないのですが、まぁその中で一つツッコミどころとしては、当時有力者達の間で、過去の偉人達の業績を讃えて石碑を建立するのが流行り、各地で次々と建立されていたのですが、その中にはアヤシゲな物もかなり混じっていました。これでは正しい歴史を伝えられないと危惧した裴松之が、文帝に上表をたてまつり国家が調査し正しいと認めたもの以外は建立出来ない様にさせました。

三国志の注にはなんでもかんでも採用してるくせに…
(N504iS)
5 天草
陳寿は、複数の資料があってそれぞれに記載が異なった場合、採用を諦めていたそうです。

裴松之は当時残存していた著作140余書を網羅し、陳寿の本文の三倍の資料を集めたそうです。

従来の注は古典の字句や意味についてのみの解説であったらしいのですが、裴松之の注はそれをはるかに凌駕したものだった事が残されてるようです。
(PC)
6 大伴
漢森さん、回答ありがとうございます。確かにありますね。
字は世期ですか。
(F2102V/FOMA)
7 大伴
久し振りに、中国史博物館を覗いたら……しっかりと人物辞典に裴松之の項目がありましたね(←気付くの遅すぎ)
(F2102V/FOMA)
8 ストラップ
三国志を読む度に感じるのですが、裴松之は陳寿をどの様に評価していたのでしょうか?
三国志への注釈は、尊敬でしょうか?それとも正しいと思う書物へと修正する為?
皆さんの意見を聞かせて下さい。
(PC)
9 赤龍
こんなスレもあったんですね。
で、ちょっと戻りますが>>5の「注の文は本文の3倍」という話。実は出鱈目だとか…。
楊翼ジョウという学者が「本文20万字、注54万字」と論文で発表し、注が本文の約3倍ということが通説化していました。
しかし、その後呉金華、王廷コウがそれぞれ別の版本で数え直したところ、楊翼ジョウのは大嘘と発覚したそうです。両者によると本文36万字、注32万字。実は本文の方が多かったと。
(PC)
10 赤龍
裴松之が『三国志』をどう思っていたか考える上では、「『三国志注』を上る表」(ちくまの訳本にも、最後に和訳を掲載)も参考になると思います。そこには、彼が三国志に注をつけた意図が語られています。
(PC)
11 ストラップ
一つ疑問なのですが、もともと三国志本文に併せる現在の形で書かれたのですか?
それとも単注本であったのが不便なので現在の形になったのでしょうか?
(F2102V/FOMA)