3 天草
くわぁまん殿
恐らく、ここに司馬系のスレが立っていないって事でしょう。
しかしこの一族は、どうしてこんな凄い人材ばかりできるのかな?
その大元(?)で司馬懿の兄、司馬郎はどうでしょうか?一族の中ではマイナーでしょうけど(笑)
恐らく、ここに司馬系のスレが立っていないって事でしょう。
しかしこの一族は、どうしてこんな凄い人材ばかりできるのかな?
その大元(?)で司馬懿の兄、司馬郎はどうでしょうか?一族の中ではマイナーでしょうけど(笑)
(PC)
4 独眼龍李克用
>くわぁまんさん
天草さんのいうとおりですよ。分かりにくかったですかね。
司馬朗は詳しい人に任せるとして、司馬氏に関しては、先祖とされるのが複数存在、三国以後も司馬という姓の人がおります。まず、司馬遷。ただこの人が、先祖だったかは覚えていません。次に司馬欣という人がいますが、こちらは項羽に選ばれた十八王の一人です。これが、司馬懿たちの先祖だったと思います。他にも、春秋戦国時代に先祖とされる(司馬姓の人)将軍や宰相がいます。
かなりの名門ではあったと思います。
天草さんのいうとおりですよ。分かりにくかったですかね。
司馬朗は詳しい人に任せるとして、司馬氏に関しては、先祖とされるのが複数存在、三国以後も司馬という姓の人がおります。まず、司馬遷。ただこの人が、先祖だったかは覚えていません。次に司馬欣という人がいますが、こちらは項羽に選ばれた十八王の一人です。これが、司馬懿たちの先祖だったと思います。他にも、春秋戦国時代に先祖とされる(司馬姓の人)将軍や宰相がいます。
かなりの名門ではあったと思います。
(P900i/FOMA)
6 エイ
すいません。
『懿』の字の変換は、いくら考えても出てきませんでした。
コードからなら……。
『八達』は司馬建公(名は防)の八人の息子達のことですね。
上から
司馬伯達(名は朗)
司馬仲達(名は懿)
司馬叔達(名は孚)
司馬季達(名は馗)
司馬顕達(名は恂)
司馬惠達(名は進)
司馬雅達(名は通)
司馬幼達(名は敏)
と言います。…とお茶を濁してみたり……。
『懿』の字の変換は、いくら考えても出てきませんでした。
コードからなら……。
『八達』は司馬建公(名は防)の八人の息子達のことですね。
上から
司馬伯達(名は朗)
司馬仲達(名は懿)
司馬叔達(名は孚)
司馬季達(名は馗)
司馬顕達(名は恂)
司馬惠達(名は進)
司馬雅達(名は通)
司馬幼達(名は敏)
と言います。…とお茶を濁してみたり……。
(PC)
8 李克用
私の携帯は、普通に「い」で、懿と変換できますよ。
司馬八達といっても三男までしか全然知らないですね。他の人はまったく正史では触れられてないのかな?どうなんでしょ。
ついで何で言っときますが、陳蕃(中国史辞典で)を調べてたときに荀淑という人がいたんですが(荀或の関係者だと思うが調べてない)、その子供が八竜と呼ばれていたらしいです。まったく関係ないですが、とりあえず言っておきます
司馬八達といっても三男までしか全然知らないですね。他の人はまったく正史では触れられてないのかな?どうなんでしょ。
ついで何で言っときますが、陳蕃(中国史辞典で)を調べてたときに荀淑という人がいたんですが(荀或の関係者だと思うが調べてない)、その子供が八竜と呼ばれていたらしいです。まったく関係ないですが、とりあえず言っておきます
(P900i/FOMA)
9 独眼龍李克用
まずは、司馬懿から議論するのが普通ですかね。
司馬懿は、一回目の時仕官を断ります。それは、なぜだったのでしょうか?私としては、自分の評価をあげた(もったいぶって)のではないかと思います。皆さんはどうでしょう。
司馬懿は、一回目の時仕官を断ります。それは、なぜだったのでしょうか?私としては、自分の評価をあげた(もったいぶって)のではないかと思います。皆さんはどうでしょう。
(P900i/FOMA)
10 天草
正史では…
@漢室の命運が長くないと思っていた
A何よりも曹操の下で働くのが嫌だった
と書かれてます。
が、二度目の脅迫染みた推挙であっさりと承諾したのを見ると『?』であることには間違いないですよね。
後の曹操との関係を考えるとただ「嫌ってた」というのもおかしな感じもしますし…。
ここは確かに謎ですね。
@漢室の命運が長くないと思っていた
A何よりも曹操の下で働くのが嫌だった
と書かれてます。
が、二度目の脅迫染みた推挙であっさりと承諾したのを見ると『?』であることには間違いないですよね。
後の曹操との関係を考えるとただ「嫌ってた」というのもおかしな感じもしますし…。
ここは確かに謎ですね。
(PC)
11 大伴
スレッド違いでもありますし、手短に。
苟淑の子、「八龍」は苟イクの叔父達であり、苟攸の再従兄弟です。特に、苟爽という人物は司空であったと、苟イクを説明する度に、毎度解説されますね。
苟淑の子、「八龍」は苟イクの叔父達であり、苟攸の再従兄弟です。特に、苟爽という人物は司空であったと、苟イクを説明する度に、毎度解説されますね。
(F2102V/FOMA)
12 独眼龍李克用
大伴殿>なんか詳しそうですね。ぜひ、中国史辞典に書かれてはいかがでしょう?
天草さん>一度目から二度目までにかなり間があるのもよくわからないですね。一度目が荀或の推挙だったのが嫌だったんでしょうかねぇ。
郡の役人になってたところをみると、漢室の命運というのは当てはまらない気がします(働かなければ、食べれませんが)。曹操のもとでも、色々な献策してますし内政の手腕も上々だったことを考えると、曹操が嫌いであるにしては頑張ってます。この辺りは、本当に嫌いだったかは微妙ですが曹操の時は目立つ行動は特にとってないですね。曹丕と親密になっていったぐらいでしょうか。
天草さん>一度目から二度目までにかなり間があるのもよくわからないですね。一度目が荀或の推挙だったのが嫌だったんでしょうかねぇ。
郡の役人になってたところをみると、漢室の命運というのは当てはまらない気がします(働かなければ、食べれませんが)。曹操のもとでも、色々な献策してますし内政の手腕も上々だったことを考えると、曹操が嫌いであるにしては頑張ってます。この辺りは、本当に嫌いだったかは微妙ですが曹操の時は目立つ行動は特にとってないですね。曹丕と親密になっていったぐらいでしょうか。
(P900i/FOMA)
13 天草
やはり最初からある程度の野心を持っていて、最初は曹操に取り入る事を良しとしなかったが、考えが変わって従軍した。
曹丕に取り入って、自分の地位を不動のものにして、次の世代で実行した…みたいな感じなのかな?
これが私流の司馬懿謀反確信犯案ですけど、どうですか?
曹丕に取り入って、自分の地位を不動のものにして、次の世代で実行した…みたいな感じなのかな?
これが私流の司馬懿謀反確信犯案ですけど、どうですか?
(PC)
14 独眼龍李克用
司馬懿自身は、クーデターを起こして専横するに止まりますからね。司馬炎まで待たなければいけなかったのは、国外情勢が芳しくなかったということですかね。
司馬懿は、謀反を起こすための土台に魏を選び、自分の地位を確立。自分の意志で使える数多くの人材を登用し、反抗してくる派閥を徹底的に叩き、上にも取り入る…これが、本当なら策謀家というよりは稀代の野心家ですね。
司馬懿は、謀反を起こすための土台に魏を選び、自分の地位を確立。自分の意志で使える数多くの人材を登用し、反抗してくる派閥を徹底的に叩き、上にも取り入る…これが、本当なら策謀家というよりは稀代の野心家ですね。
(P900i/FOMA)
16 独眼龍李克用
政治家でないとあそこまで立ち回れないでしょう。しかし、軍略においてもそつがなく、人に負けたことなど全然ないですから軍略にも秀でていたと言えます。どちらかと言えば、政治家でしょう。
しかし、司馬懿ほど才能がある人もそうそういないでしょうね。陳寿などはどう評価してるんでしょうか?
しかし、司馬懿ほど才能がある人もそうそういないでしょうね。陳寿などはどう評価してるんでしょうか?
(P900i/FOMA)
17 天草
改めて司馬懿伝を読んでみましたが、やはり優秀な政治家であり、優秀な軍略家ですよね。彼ほど能力の均衡の取れた文官はいなかったんじゃないですかね?
しかし、不思議な事に晋の時代に書かれた正史にしては、陳寿の評価が低いんですよね。
以下、抜粋。
司馬懿は内心では嫌悪していても表面は寛大な態度を取る人で、猜疑心が強く、応変の術に巧みであった。曹操は司馬懿の雄大な野心を察していた。〜中略〜不吉な夢を見た曹操は曹丕に向かって「将来、お前に手を下すやもしれぬぞ」と諌めた。〜中略〜司馬懿は公孫淵討伐の際に大量虐殺を行い、曹爽誅殺の際には一味徒労を老若男女の区別なく三族皆殺しにし、他家に嫁いだ女達まで討ち漏らす事がなかった。
さすがに他の伝と違い、陳寿の意見が載ってないところが、微妙な陳寿の立場を現してる気もします(笑)
また、裴松之の注釈が面白いくらい、少ないのも気になりますね。
しかし、不思議な事に晋の時代に書かれた正史にしては、陳寿の評価が低いんですよね。
以下、抜粋。
司馬懿は内心では嫌悪していても表面は寛大な態度を取る人で、猜疑心が強く、応変の術に巧みであった。曹操は司馬懿の雄大な野心を察していた。〜中略〜不吉な夢を見た曹操は曹丕に向かって「将来、お前に手を下すやもしれぬぞ」と諌めた。〜中略〜司馬懿は公孫淵討伐の際に大量虐殺を行い、曹爽誅殺の際には一味徒労を老若男女の区別なく三族皆殺しにし、他家に嫁いだ女達まで討ち漏らす事がなかった。
さすがに他の伝と違い、陳寿の意見が載ってないところが、微妙な陳寿の立場を現してる気もします(笑)
また、裴松之の注釈が面白いくらい、少ないのも気になりますね。
(PC)
18 大伴
政治家の資質と一口に言っても、様々な能力が必要とされると思います。
@政策の立案と遂行(立法と行政)。
Aディベート。言いくるめ、言い負かし、交渉(外交手腕)。
B扇動、擬似集団催眠、人気取り(ヒトラーの演説などは正にこれ)。
Cコネクションの形成、人心掌握(他の能力と、密接に関係する)。
D根回し、謀略、陰謀、裏工作、情報戦、圧力(裏社会の活用)。
@やAに優れたのが孔明なら、司馬懿はDではないでしょうか?ちなみにBは劉備、Cは曹操等が得意とした分野だと思います。
@政策の立案と遂行(立法と行政)。
Aディベート。言いくるめ、言い負かし、交渉(外交手腕)。
B扇動、擬似集団催眠、人気取り(ヒトラーの演説などは正にこれ)。
Cコネクションの形成、人心掌握(他の能力と、密接に関係する)。
D根回し、謀略、陰謀、裏工作、情報戦、圧力(裏社会の活用)。
@やAに優れたのが孔明なら、司馬懿はDではないでしょうか?ちなみにBは劉備、Cは曹操等が得意とした分野だと思います。
(F2102V/FOMA)
19 天草
なるほどね。。。
何にせよ、司馬懿という人物が優れた将であったことに間違いはなさそうですね。
ちなみにその司馬懿の兄弟たちの中に他に高い評価を受けているような人物が見当たりますか?
司馬郎くらい?
何にせよ、司馬懿という人物が優れた将であったことに間違いはなさそうですね。
ちなみにその司馬懿の兄弟たちの中に他に高い評価を受けているような人物が見当たりますか?
司馬郎くらい?
(PC)
28 天草
>>26
挑戦している方はいますが、あまり進んでないのが状況ですね。
それは晋書に限らず、三国志もしかり。
自分で言うのも何ですが、ここは情報がある方だと自負してます。何より皆さんのお陰ですが…。
激しく板違いですよね。
スレ話題に戻しますが、司馬懿は他にもスレがありますし、ここでは彼以外について話しませんか?
彼の子供(結構子沢山なんですよね(汗))の代表はやはり司馬師と司馬昭ですよね。彼らを皆さんはどう評価しますか?
挑戦している方はいますが、あまり進んでないのが状況ですね。
それは晋書に限らず、三国志もしかり。
自分で言うのも何ですが、ここは情報がある方だと自負してます。何より皆さんのお陰ですが…。
激しく板違いですよね。
スレ話題に戻しますが、司馬懿は他にもスレがありますし、ここでは彼以外について話しませんか?
彼の子供(結構子沢山なんですよね(汗))の代表はやはり司馬師と司馬昭ですよね。彼らを皆さんはどう評価しますか?
(PC)
29 天草
もう一回上げます。
司馬師と司馬昭は決して忠臣ではなかったと思いますが、息子の司馬炎が晋を建国した事で、後に晋の明帝・文帝と呼ばれてます。
特に司馬昭は、やはり曹髦を暗殺した事が大きく、私の中では、完全な悪人です。蜀滅亡時の最大功労者(?)的な人物なんですけどね。
皆さんはいかが?
司馬師と司馬昭は決して忠臣ではなかったと思いますが、息子の司馬炎が晋を建国した事で、後に晋の明帝・文帝と呼ばれてます。
特に司馬昭は、やはり曹髦を暗殺した事が大きく、私の中では、完全な悪人です。蜀滅亡時の最大功労者(?)的な人物なんですけどね。
皆さんはいかが?
(PC)
30 李克用
師・昭は、司馬懿に引けをとらないでしょう。
人間性には疑問ですが、かなりの能力を持ち合わせていたと思います。
この二人を使うには、君主の器量が足りなかったと想像します。
人間性には疑問ですが、かなりの能力を持ち合わせていたと思います。
この二人を使うには、君主の器量が足りなかったと想像します。
(P900i/FOMA)
33 三三
司馬朗にこんなエピソードがあるそうです
12歳のとき、ある試験を受けに行きました。
身体が大きく立派なことから年をごまかして試験を受けに来たのではないかと疑われ訊問され、そのとき「私の父方母方の親類とも代々大柄なのです。私は幼弱ではありますが、出世を願う気持ちはありません。年をいつわって早成を願う気持ちはありません。」と言って感心させたそうです。
ところで「父方母方の親類とも代々大柄」ってことは司馬懿も大柄?
祖父の司馬儁は八尺三寸だそうです
12歳のとき、ある試験を受けに行きました。
身体が大きく立派なことから年をごまかして試験を受けに来たのではないかと疑われ訊問され、そのとき「私の父方母方の親類とも代々大柄なのです。私は幼弱ではありますが、出世を願う気持ちはありません。年をいつわって早成を願う気持ちはありません。」と言って感心させたそうです。
ところで「父方母方の親類とも代々大柄」ってことは司馬懿も大柄?
祖父の司馬儁は八尺三寸だそうです
(PC)
34 朱家
二代遡って、三人に帝位を授ける例は他にないですね。仲達が基礎を作ってから、十数年で晋を建国しますが、その間に三人も死ぬ事が特異ですからね。兄と父に差をつけた孫権が普通だと思いますので、司馬師の帝位が微妙ですけど、代が違うし、養子しかいなかった事など、炎の心境は理解できる気がします。
(A1304T/au)
35 巫俊(ふしゅん)
『晋書』文帝紀によれば、司馬昭は蜀平定戦の最中に晋王に即位しているのですが、司馬昭の晋王国の領土はどこにあるのでしょうか?
曹操の魏王国は河北全土を冀州に併合した後に、冀州を王国の領土にしていましたよね。
曹操の魏王国は河北全土を冀州に併合した後に、冀州を王国の領土にしていましたよね。
(PC)
37 赤龍
>>36
司馬コウについて調べるとなると、まずは『史記』か『漢書』でしょうが、この人はあまりまとまった記録がないようです。
『史記』をざっと調べたところ、項羽本紀、高祖本紀、陳丞相世家、淮陰侯列伝、灌エイ列伝あたりに記述が散見されるようです。
司馬コウについて調べるとなると、まずは『史記』か『漢書』でしょうが、この人はあまりまとまった記録がないようです。
『史記』をざっと調べたところ、項羽本紀、高祖本紀、陳丞相世家、淮陰侯列伝、灌エイ列伝あたりに記述が散見されるようです。
(PC)
38 赤龍
簡単にこれらの記述をまとめますと、
始皇帝死後の戦乱で、趙の将として河南を平定し(項羽本紀)、函谷関に攻め入ろうとしていました(高祖本紀)
こうした功績を項羽に認められ、秦滅亡後に殷王に封ぜられます(項羽本紀など)。
劉邦が項羽にそむき、関中を平定し、東進をはじめると、項羽に叛きますが、項羽配下の陳平により攻め降されます(陳丞相世家)。
しかし、劉邦軍の攻撃を受け、再び降服(高祖本紀、陳丞相世家など)。以後の消息は、史記を見る限りは不明です。
ちなみに、この司馬コウが再び漢に降った事件で、項羽が怒って、先に司馬コウを攻めた関係者を誅殺しようとしたのがきっかけで、陳平は項羽のもとを離れ、劉邦に仕えることになります。
始皇帝死後の戦乱で、趙の将として河南を平定し(項羽本紀)、函谷関に攻め入ろうとしていました(高祖本紀)
こうした功績を項羽に認められ、秦滅亡後に殷王に封ぜられます(項羽本紀など)。
劉邦が項羽にそむき、関中を平定し、東進をはじめると、項羽に叛きますが、項羽配下の陳平により攻め降されます(陳丞相世家)。
しかし、劉邦軍の攻撃を受け、再び降服(高祖本紀、陳丞相世家など)。以後の消息は、史記を見る限りは不明です。
ちなみに、この司馬コウが再び漢に降った事件で、項羽が怒って、先に司馬コウを攻めた関係者を誅殺しようとしたのがきっかけで、陳平は項羽のもとを離れ、劉邦に仕えることになります。
(PC)
39 巫俊(ふしゅん)
司馬コウとはどんな人か。
『新唐書』儒学列伝、張斉賢伝という伝に司馬コウの名前が出てきます。
張斉賢は陝州の陝県の人、陝県は三国時代の弘農郡陝県ですが、張斉賢は則天武后の死後に活躍した儒者です。
彼は則天武后死後の唐の新体制の儀礼について上奏して建白しているのですが、以下が要旨です。
唐の新体制は唐の皇帝一族の始祖を涼の武昭王として唐朝の太祖としています。しかし歴史を調べれば歴代の王朝の太祖はその王朝の建国者を太祖としています。我が唐朝の建国者は高祖李淵でありまして、五胡十六国の時代の武昭王は涼国の建国者でありました。典礼によれば天子は七廟を建てます。七廟には太祖以下の皇帝の位牌が祭られ、建国の功績を記念しています。臣が考えますところ、殷の始祖はツバメの子どもの契でありますが、殷の太祖は殷を建国した湯王であります。それは周も同じでありますし、魏は曹参を太祖としていません。晋も司馬コウを太祖とはしていないのです。(以下略)」
司馬コウは楚の帝室に従う殷王ですから、晋の皇帝の太祖にはならないと言っています。
ここで面白いのは、廟堂(日本で言えば仏壇みたいなもの)の様子が写実的に描かれていることです。ひとつの廟堂に飾っておける位牌の数には制限があって、これも日本の仏壇と同じですね。
中国では位牌のことを「祖」と言います。祖という字の旁は位牌を描いたものなんですが、
ともかく晋の朝廷では、司馬コウは別格というか、遠い祖先として晋室の皇帝とは別格に祭られていたらしいということです。
司馬コウってそれくらい晋室からは遠い存在だと思うんですよ。皇帝の廟に入ってないんですからね。
そうえいば、三国志の誰かに皇帝の廟の壁に穴をあけた罪で起訴されそうになった寵臣がいませんでしたっけ?それとも漢代の故事だったかな?
『新唐書』儒学列伝、張斉賢伝という伝に司馬コウの名前が出てきます。
張斉賢は陝州の陝県の人、陝県は三国時代の弘農郡陝県ですが、張斉賢は則天武后の死後に活躍した儒者です。
彼は則天武后死後の唐の新体制の儀礼について上奏して建白しているのですが、以下が要旨です。
唐の新体制は唐の皇帝一族の始祖を涼の武昭王として唐朝の太祖としています。しかし歴史を調べれば歴代の王朝の太祖はその王朝の建国者を太祖としています。我が唐朝の建国者は高祖李淵でありまして、五胡十六国の時代の武昭王は涼国の建国者でありました。典礼によれば天子は七廟を建てます。七廟には太祖以下の皇帝の位牌が祭られ、建国の功績を記念しています。臣が考えますところ、殷の始祖はツバメの子どもの契でありますが、殷の太祖は殷を建国した湯王であります。それは周も同じでありますし、魏は曹参を太祖としていません。晋も司馬コウを太祖とはしていないのです。(以下略)」
司馬コウは楚の帝室に従う殷王ですから、晋の皇帝の太祖にはならないと言っています。
ここで面白いのは、廟堂(日本で言えば仏壇みたいなもの)の様子が写実的に描かれていることです。ひとつの廟堂に飾っておける位牌の数には制限があって、これも日本の仏壇と同じですね。
中国では位牌のことを「祖」と言います。祖という字の旁は位牌を描いたものなんですが、
ともかく晋の朝廷では、司馬コウは別格というか、遠い祖先として晋室の皇帝とは別格に祭られていたらしいということです。
司馬コウってそれくらい晋室からは遠い存在だと思うんですよ。皇帝の廟に入ってないんですからね。
そうえいば、三国志の誰かに皇帝の廟の壁に穴をあけた罪で起訴されそうになった寵臣がいませんでしたっけ?それとも漢代の故事だったかな?
(PC)
41 ストラップ
>>37-40
ありがとうございました。
三国志だけ見ていてもダメですね。
司馬卬って冠の様に毎度毎度「趙将」とか「趙別将」とかって付いてますね(汗)
「殷王」の前に付いている「虜」の文字は何ですか?
ついでに聞きますと、横山漫画で大活躍する
都万達
孫寅
魏亨
王需
らは、実在するんですか?
ありがとうございました。
三国志だけ見ていてもダメですね。
司馬卬って冠の様に毎度毎度「趙将」とか「趙別将」とかって付いてますね(汗)
「殷王」の前に付いている「虜」の文字は何ですか?
ついでに聞きますと、横山漫画で大活躍する
都万達
孫寅
魏亨
王需
らは、実在するんですか?
(PC)
42 赤龍
>>41
「虜」の文字、高祖本紀の文でしょうか?
でしたら
「三月、漢王臨晋より渡る。魏王豹兵を将いて(ひきいて)従う。河内を下し、殷王を虜とし、河内郡を置く」
という文で、普通に捕虜の「虜」、漢の軍に捕らえられたという意味でいいと思います。
「虜」の文字、高祖本紀の文でしょうか?
でしたら
「三月、漢王臨晋より渡る。魏王豹兵を将いて(ひきいて)従う。河内を下し、殷王を虜とし、河内郡を置く」
という文で、普通に捕虜の「虜」、漢の軍に捕らえられたという意味でいいと思います。
(PC)
43 ストラップ
集解徐広曰く、の「此年十月、常山王張耳降、河南王申陽降、韓王鄭昌降、魏王豹降、虜殷王卬、……」の部分だったのですが、>>42の意味で良さそうですね。お尻に「降」と付かず、頭に「虜」と付いてたので勘違いしました。有難うございました。
(PC)
45 巫俊(ふしゅん)
>>41
>司馬卬って冠の様に毎度毎度「趙将」とか「趙別将」とかって付いてますね(汗)
『三国志』は三国の志と書かれ正史としては特殊な部類のタイトルになっていますが、『史記』の史記という言葉はもともと普通名詞で「歴史記録」というだけの意味のタイトルです。
『史記』には本紀、列伝だけでなくて、表(年表)と書(博物誌)がありますよね。
『史記』が正史の始めとされて賞賛されるのは、正史としての体裁を整えたからです。
というのも、先秦時代に書かれた歴史書は、歴史書というよりは年表に近いものでして、余り詳しい記載が出来るものではありませんでした。
だからというか、人物列伝みたいなものは先秦時代には無いんです。
三国志ファンが先秦時代や東晋南北朝時代に手を出さない理由として、魅力的な列伝が少ないか邦訳されてないということにも原因があるかもしれません。
さて、先秦時代の歴史記録はもともと年表だと言いました。
実は『史記』もそのスタイルの影響化にあります。
それが『史記』の表(年表)です。
一説によると、司馬遷はまず先に表をつくってから、本紀、列伝をつくったという説がありますが、
楚漢時代の年表も司馬遷は用意しています。
それが『史記』の表に収録されてる「秦楚之際月表」です。
「秦楚之際月表」を見れば分かるのですが、この年表は
秦
楚
項
趙
斉
漢
燕
魏
韓
記事がそれぞれ国別に分類されていまして、『史記』は本来、地域別の歴史としての性格が強いんです。
漢の世が長く続いた後の三国時代については三国の歴史を書けばそれで事足りたんですけど、
地域別に国家が分立していた前漢初期までの歴史を描くには、個人の伝記よりも個人がどこに属しているかが問われたようですね。
これは興味深いことだと思うんですよ。
『三国志』にしろ、個人の伝記を標榜しつつも、列伝の選考は三国の中でどんな働きをしたかが問われていますからね。
>司馬卬って冠の様に毎度毎度「趙将」とか「趙別将」とかって付いてますね(汗)
『三国志』は三国の志と書かれ正史としては特殊な部類のタイトルになっていますが、『史記』の史記という言葉はもともと普通名詞で「歴史記録」というだけの意味のタイトルです。
『史記』には本紀、列伝だけでなくて、表(年表)と書(博物誌)がありますよね。
『史記』が正史の始めとされて賞賛されるのは、正史としての体裁を整えたからです。
というのも、先秦時代に書かれた歴史書は、歴史書というよりは年表に近いものでして、余り詳しい記載が出来るものではありませんでした。
だからというか、人物列伝みたいなものは先秦時代には無いんです。
三国志ファンが先秦時代や東晋南北朝時代に手を出さない理由として、魅力的な列伝が少ないか邦訳されてないということにも原因があるかもしれません。
さて、先秦時代の歴史記録はもともと年表だと言いました。
実は『史記』もそのスタイルの影響化にあります。
それが『史記』の表(年表)です。
一説によると、司馬遷はまず先に表をつくってから、本紀、列伝をつくったという説がありますが、
楚漢時代の年表も司馬遷は用意しています。
それが『史記』の表に収録されてる「秦楚之際月表」です。
「秦楚之際月表」を見れば分かるのですが、この年表は
秦
楚
項
趙
斉
漢
燕
魏
韓
記事がそれぞれ国別に分類されていまして、『史記』は本来、地域別の歴史としての性格が強いんです。
漢の世が長く続いた後の三国時代については三国の歴史を書けばそれで事足りたんですけど、
地域別に国家が分立していた前漢初期までの歴史を描くには、個人の伝記よりも個人がどこに属しているかが問われたようですね。
これは興味深いことだと思うんですよ。
『三国志』にしろ、個人の伝記を標榜しつつも、列伝の選考は三国の中でどんな働きをしたかが問われていますからね。
(PC)
46 ストラップ
「巻三十七 列伝第七 宗室 彭城穆王権」を見てみると、冒頭に
宣帝弟魏魯相東武城侯馗
と有ります。
これは
「司馬懿の弟である魏の魯相、東武城侯の馗」
と、四男司馬馗を説明した文ですよね?
八達の内、長男は早くに死に、次男と三男は有名人。四男は上記どおり。
五男、六男、七男、八男についての記述、ご存知の方はありますか?
宣帝弟魏魯相東武城侯馗
と有ります。
これは
「司馬懿の弟である魏の魯相、東武城侯の馗」
と、四男司馬馗を説明した文ですよね?
八達の内、長男は早くに死に、次男と三男は有名人。四男は上記どおり。
五男、六男、七男、八男についての記述、ご存知の方はありますか?
(PC)
47 巫俊(ふしゅん)
五男の司馬恂(顯達)については、宗室伝に「大長秋恂」、「宣帝弟魏 鴻臚丞恂」 とありました。
鴻臚丞は外交事務の副官ですが、後漢の制度で大長秋は宦官の長だったはずですよね。
西晋のころは違ったんでしょうか、それとも顯達は宦官!?
鴻臚丞は外交事務の副官ですが、後漢の制度で大長秋は宦官の長だったはずですよね。
西晋のころは違ったんでしょうか、それとも顯達は宦官!?
(PC)
48 巫俊(ふしゅん)
益州から流れてくる木くずを拾って晋の造船を孫コウに報告した呉の建平太守吾彦も西晋に仕えてからは大長秋になっていますね。
大長秋は皇后の事務を司る官で「列卿」(九卿に近い感じ)ですが、見たところ普通の男子が任官しているようで、西晋の官制は後漢とは違うようですね。
大長秋は皇后の事務を司る官で「列卿」(九卿に近い感じ)ですが、見たところ普通の男子が任官しているようで、西晋の官制は後漢とは違うようですね。
(PC)
49 赤龍
同じく宗室伝の任城景王陵伝には
「任城景王陵字子山、宣帝弟魏司隷従事安城亭侯通之子也」
とあります。
七男の司馬通は魏で司隷従事、安城亭侯だったようです。わざわざ魏での地位を書き、晋でのものが書かれてないことから、晋建国以前に死んだのではないでしょうか?
「任城景王陵字子山、宣帝弟魏司隷従事安城亭侯通之子也」
とあります。
七男の司馬通は魏で司隷従事、安城亭侯だったようです。わざわざ魏での地位を書き、晋でのものが書かれてないことから、晋建国以前に死んだのではないでしょうか?
(PC)
50 ストラップ
巫俊さん、赤龍さんありがとうございました。
一旦纏めてみますね。
●長男 司馬朗-伯達
参照:魏書 劉司馬梁張温賈伝第十五 司馬朗伝
●次男 司馬懿-仲達
●三男 司馬孚-叔達
参照:列伝第七 宗室 安平獻王孚伝
●四男 司馬馗-季達
司馬権(彭城穆王)、司馬泰(高密文獻王)、司馬綏(范陽康王)の父
魏の魯国の相、東武城侯(彭城穆王権伝より)
●五男 司馬恂-顕達
司馬遂(濟南惠王)の父
魏の鴻臚丞(済南恵王遂伝より)
●六男 司馬進-恵達
司馬遜(ショウ剛王)、司馬睦(高陽王)の父
魏の中郎(ショウ剛王遜伝より)
●七男 司馬通-雅達
司馬陵(任城景王)の父
魏の司隷従事、安城亭侯(任城景王陵伝より)
●八男 司馬敏-幼達
(情報待ち)
一旦纏めてみますね。
●長男 司馬朗-伯達
参照:魏書 劉司馬梁張温賈伝第十五 司馬朗伝
●次男 司馬懿-仲達
●三男 司馬孚-叔達
参照:列伝第七 宗室 安平獻王孚伝
●四男 司馬馗-季達
司馬権(彭城穆王)、司馬泰(高密文獻王)、司馬綏(范陽康王)の父
魏の魯国の相、東武城侯(彭城穆王権伝より)
●五男 司馬恂-顕達
司馬遂(濟南惠王)の父
魏の鴻臚丞(済南恵王遂伝より)
●六男 司馬進-恵達
司馬遜(ショウ剛王)、司馬睦(高陽王)の父
魏の中郎(ショウ剛王遜伝より)
●七男 司馬通-雅達
司馬陵(任城景王)の父
魏の司隷従事、安城亭侯(任城景王陵伝より)
●八男 司馬敏-幼達
(情報待ち)
(PC)
51 ストラップ
六男、司馬進の原文忘れてましたね。
「譙剛王遜字子悌、宣帝弟魏中郎進之子也」
>>49での赤龍さんの記述を参考にすると、四男司馬馗〜七男司馬通の四名とも、「宣帝弟魏〜」と、魏での官職が書かれていますね。
晋は265年から。司馬懿>>>162の死が251年で73歳。妥当な気はしますね。
「譙剛王遜字子悌、宣帝弟魏中郎進之子也」
>>49での赤龍さんの記述を参考にすると、四男司馬馗〜七男司馬通の四名とも、「宣帝弟魏〜」と、魏での官職が書かれていますね。
晋は265年から。司馬懿>>>162の死が251年で73歳。妥当な気はしますね。
(PC)
53 ストラップ
司馬朗伝の記述とは反しますが……司馬防は150年位生きた人物の様です。
西キョウ伝第七十七を見ると、
章和元年(中略)張ウ従事の司馬防を遣わして千余騎及び金城の兵を率いて木乗谷に会戦せしむ
とあります。
章和元年は西暦87年ですから、建安年間まで生きたならその位の計算になる筈です。
西キョウ伝第七十七を見ると、
章和元年(中略)張ウ従事の司馬防を遣わして千余騎及び金城の兵を率いて木乗谷に会戦せしむ
とあります。
章和元年は西暦87年ですから、建安年間まで生きたならその位の計算になる筈です。
(F2102V/FOMA)