1 天草
黄巾の乱
では私から新たな議題を提供したいと思います。
三国志の話しで常に最初に出る出来事『黄巾の乱』についてです。
@太平道は圧倒的な兵力を持ちながら、なぜドタバタ続きの官軍に勝てなかったのでしょうか?
A太平道の宗教的発起がどうして、略奪など悪質な賊に変わったのでしょうか?
Bそもそも太平道とはなぜあのような強大な勢力になったのでしょうか?
このような観点から、果ては「…だったら黄巾の勝利だった」と言うような意見まで何でもお待ちしてます。
三国志の話しで常に最初に出る出来事『黄巾の乱』についてです。
@太平道は圧倒的な兵力を持ちながら、なぜドタバタ続きの官軍に勝てなかったのでしょうか?
A太平道の宗教的発起がどうして、略奪など悪質な賊に変わったのでしょうか?
Bそもそも太平道とはなぜあのような強大な勢力になったのでしょうか?
このような観点から、果ては「…だったら黄巾の勝利だった」と言うような意見まで何でもお待ちしてます。
(PC)
2 趙
@黄巾党にとってカリスマ的指導者であった張角が病死したこと、また所詮は農民なので訓練された軍隊に綿密な軍事作戦に対抗できないことなどがあげられるのではないでしょうか。
A正規軍でさえよほどしっかりした規律がなければ略奪は押さえられず、まして黄巾党の乱に乗して蜂起した信徒以外の農民達は元々略奪を目的とした可能性もあると思われますから当然の成り行きかと。
B宗教が広まった背景には重税や数年続いた天災だと思われます。
私は黄巾党に政治的なブレーンとしっかりとした軍事知識をもった将軍がいればもしかしたらとも思いますが、さらに黄巾党が天下を取るには地方豪族を抱き込む必要があったと思います。また完全な論理の飛躍ですが、黄巾党は張兄弟の死亡によって討伐されたことになってはいますが、完全に討伐されたわけではなくその残党の一団が曹軍に吸収され、曹氏が漢を滅ぼしたことを思えばある意味黄巾党の勝利と言えなくもないかなと思ってたりします。
大変な長文失礼しました。
A正規軍でさえよほどしっかりした規律がなければ略奪は押さえられず、まして黄巾党の乱に乗して蜂起した信徒以外の農民達は元々略奪を目的とした可能性もあると思われますから当然の成り行きかと。
B宗教が広まった背景には重税や数年続いた天災だと思われます。
私は黄巾党に政治的なブレーンとしっかりとした軍事知識をもった将軍がいればもしかしたらとも思いますが、さらに黄巾党が天下を取るには地方豪族を抱き込む必要があったと思います。また完全な論理の飛躍ですが、黄巾党は張兄弟の死亡によって討伐されたことになってはいますが、完全に討伐されたわけではなくその残党の一団が曹軍に吸収され、曹氏が漢を滅ぼしたことを思えばある意味黄巾党の勝利と言えなくもないかなと思ってたりします。
大変な長文失礼しました。
(N900i/FOMA)
3 天草
本当に張角にカリスマ的な、魅力があって、その魅力に惹かれて信者が集まったのでしょうか?中国はこの狭い国で暮らす我々が想像に困るほど広大で、その中で東から西は五斗米道に至るまで一斉に発起してますよね。もし本当にそうだったとしたら、張角と言う男、かなりの人物だったんだな?とか考えます。それとも宗教(思想)の力なのか?
実は張角の想像以上に信徒と思想が膨らみすぎ、『黄巾党』・『太平道』という名前だけが一人歩きしていた…なんていうオチなら、納得できます(笑)退くに退けなくなった張角は自らに将軍の位を与えて…。なんてね(汗)
実は張角の想像以上に信徒と思想が膨らみすぎ、『黄巾党』・『太平道』という名前だけが一人歩きしていた…なんていうオチなら、納得できます(笑)退くに退けなくなった張角は自らに将軍の位を与えて…。なんてね(汗)
(PC)
4 趙偃
カリスマと書いたことに語弊がありましたね。張角は彼らの中で得難い知識人だったのだと私は考えています。彼亡き後にまとめ上げる力(頭)をもった人物がいなかったのだろうと思うのです。また黄巾の乱の一斉隆起はやはり誰が乱を起こしてもおかしくない世の中である種のきっかけ的なものと思います。太平道と五斗米道は同じ道教とはいえ協力して乱を起こすとは考えにくいですし。
(N900i/FOMA)
5 大伴
最初から革命集団として組織した訳では無いでしょうが、現状に不満を持っていない人は宗教結社に参加はしないでしょうから。人は集まると強気になるものですよ。
しかしこの様な運動に参加する人にはやはり、物資やノウハウがなかったのでしょうね。数は揃えたとて、所詮は、瓦合の衆。大勢力でしたが、クーデターは中途半端な成功しかおさめませんでしたね。
しかしこの様な運動に参加する人にはやはり、物資やノウハウがなかったのでしょうね。数は揃えたとて、所詮は、瓦合の衆。大勢力でしたが、クーデターは中途半端な成功しかおさめませんでしたね。
(F2102V/FOMA)
7 伏仁傑
これは私の専門の分野です(笑
黄巾党は本来宗教的結社よりも偶発的な遊民反乱に分類されるべきです。張角が実在したとして、彼は後付けで反乱の求心的存在として現れたと考えています。
後漢末の党固の禁に端を発する政治的混乱と天災により食えなくなった遊民(零細農民や無職の民)が宗教結社に引き寄せられた…と言うのが真相だと思われます。太平天国では無く、陳勝呉広の乱を連想していただければ早いかと。
ゆえに野火のように黄巾党は広がり、またあれだけの勢力を誇りながら正規軍にあっさり負けたりするワケです。
黄巾党は本来宗教的結社よりも偶発的な遊民反乱に分類されるべきです。張角が実在したとして、彼は後付けで反乱の求心的存在として現れたと考えています。
後漢末の党固の禁に端を発する政治的混乱と天災により食えなくなった遊民(零細農民や無職の民)が宗教結社に引き寄せられた…と言うのが真相だと思われます。太平天国では無く、陳勝呉広の乱を連想していただければ早いかと。
ゆえに野火のように黄巾党は広がり、またあれだけの勢力を誇りながら正規軍にあっさり負けたりするワケです。
(W11K/au)
8 伏仁傑
続きです
伝統的に中国では、革命組織=宗教的色彩が切っても切れない関係にあります。明の太祖の出自を思い出して下さい。また清朝を倒した原動力となったカ老会(現存するとの噂があります)も宗教的色彩が色濃い組織のようです(潜入レポのような文献を学生の頃に読みました)
そう考えると現在の中国共産党が(我々の目からは無害な太極拳愛好会に見える)法輪講をあれだけ厳しく弾圧したのも頷けませんか?
伝統的に中国では、革命組織=宗教的色彩が切っても切れない関係にあります。明の太祖の出自を思い出して下さい。また清朝を倒した原動力となったカ老会(現存するとの噂があります)も宗教的色彩が色濃い組織のようです(潜入レポのような文献を学生の頃に読みました)
そう考えると現在の中国共産党が(我々の目からは無害な太極拳愛好会に見える)法輪講をあれだけ厳しく弾圧したのも頷けませんか?
(W11K/au)
9 赤龍
話はずれますが、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」火徳の漢から、土徳の新しい国家へ、なんてよく説明されますが、火徳は赤、蒼(青)は木。相生説でも相克説でも青→黄はおかしいですよね。みなさんはどう考えてますか?
(J-SA05)
11 伏仁傑
蒼天既に死す
黄天まさに立つべし
歳は甲子にあり
天下大吉
漢朝の命運は尽きた
黄色を旗とする王朝が立つ時である
甲子(十干十二支を見よ)の歳に天下は(新しい王朝により)治まるだろう。
このスローガンにプロパガンダ以上の意味は無いと思いますが、いかがでしょうか?
黄天まさに立つべし
歳は甲子にあり
天下大吉
漢朝の命運は尽きた
黄色を旗とする王朝が立つ時である
甲子(十干十二支を見よ)の歳に天下は(新しい王朝により)治まるだろう。
このスローガンにプロパガンダ以上の意味は無いと思いますが、いかがでしょうか?
(W11K/au)
12 エロハシ
赤龍さん>ソースを覚えてないですし、時間がないので調べも出来ませんが、たしか陰陽五行説じゃなかったかと…
火・木・土・水・(思い出せん。多分金?)で、漢王朝は木、木は翠、翠は蒼で蒼天。で、黄巾党は、古の黄帝(?)を奉ってたから黄色で、黄は土〜みたいな内容だったと思います! 今からバイト行って免許センターの勉強するとこに行かねばならないので、明後日くらいにソースは探します! もしかして演義寄りのやつだったかも…(/。\) つか免許取れるかな…(つ_;)φイジイジ…(汗)
火・木・土・水・(思い出せん。多分金?)で、漢王朝は木、木は翠、翠は蒼で蒼天。で、黄巾党は、古の黄帝(?)を奉ってたから黄色で、黄は土〜みたいな内容だったと思います! 今からバイト行って免許センターの勉強するとこに行かねばならないので、明後日くらいにソースは探します! もしかして演義寄りのやつだったかも…(/。\) つか免許取れるかな…(つ_;)φイジイジ…(汗)
(P900i/FOMA)
14 大伴
私も
「蒼天已に死す」
の意味がわかりませんね(ちなみに>>10の巳の字は、已の誤り)。
蒼天は一つの王朝を意味する言葉ですか?
「相生説」では火は土を生みます(燃えて灰になる為)。漢は火徳ですから、次が土徳の黄になるのは理解できます。
又、蜂起した光和七年がたまたま甲子の年だった事も良く知られていますしね。
蒼天がわかりませんね。どなたかご教授下さい。
「蒼天已に死す」
の意味がわかりませんね(ちなみに>>10の巳の字は、已の誤り)。
蒼天は一つの王朝を意味する言葉ですか?
「相生説」では火は土を生みます(燃えて灰になる為)。漢は火徳ですから、次が土徳の黄になるのは理解できます。
又、蜂起した光和七年がたまたま甲子の年だった事も良く知られていますしね。
蒼天がわかりませんね。どなたかご教授下さい。
(F2102V/FOMA)
15 李克用
漢和辞典には、
蒼天は、単純に天の事を指す場合と春の空や東の事をいいます(蒼・青は五行で東や春を示す。ちなみに青帝は伏羲、赤帝は神農、黄帝は黄帝)。
ついでに、蒼黄という単語がありますが、事柄が変化する、あわてるさまという意味があります。
憶測ですが、蒼天というのは、単純に天子などの事を指すような気がします。
蒼天は、単純に天の事を指す場合と春の空や東の事をいいます(蒼・青は五行で東や春を示す。ちなみに青帝は伏羲、赤帝は神農、黄帝は黄帝)。
ついでに、蒼黄という単語がありますが、事柄が変化する、あわてるさまという意味があります。
憶測ですが、蒼天というのは、単純に天子などの事を指すような気がします。
(P900i/FOMA)
18 赤龍
エロハシさん、大伴さんの言われるように、五行説での説明が一般的です。しかし、それでは黄天、黄巾と黄がきれいに説明できるものの、蒼天の解釈に問題が生じます。私も李克用さんのように、蒼天=青空、天=現在の天下(つまり漢王朝)を指してるのではないか?という解釈を一応しています。が、学者の説明も結構ばらばら、様々な解釈がされています。そこで、みな様の解釈をお聞きしたいと思ったわけです。
(J-SA05)
19 赤龍
蒼黄という熟語は初耳です。出展とかわかります?意味からして、黄巾のやつが語源じゃないかな?と思ったんですが。
くわぁまんさん、それ多分劉邦が白蛇斬った話では?白=秦を意味し、劉邦が秦を滅ぼすというものです。
くわぁまんさん、それ多分劉邦が白蛇斬った話では?白=秦を意味し、劉邦が秦を滅ぼすというものです。
(J-SA05)
21 赤龍
伏仁傑さん、それでも蒼→黄の問題は結局解決しないと思います。そもそも、前漢、後漢というのは後世の便宜上の区分。当時はどちらもあくまで漢。前後で五行が変わるというのは考えにくい事です。
(J-SA05)
23 大伴
(F2102V/FOMA)
24 伏仁傑
正史を調べました。
張角の独立した伝は無いようで、しかもなぜか呉書に収録されてました。要するに黄巾党は霊帝治世下に発生した地方反乱の一つという扱いで、他十数個の反乱には詳しい言及が無かった事もあってか反乱全てが黄巾党に入ってしまう解釈は危険かも知れません。
ちなみに「蒼天云々」の解説も無しでした。
張角の独立した伝は無いようで、しかもなぜか呉書に収録されてました。要するに黄巾党は霊帝治世下に発生した地方反乱の一つという扱いで、他十数個の反乱には詳しい言及が無かった事もあってか反乱全てが黄巾党に入ってしまう解釈は危険かも知れません。
ちなみに「蒼天云々」の解説も無しでした。
(W11K/au)
26 天草
みんな凄いですね(汗)
私には全く意味不明ですし(笑)混乱して全く分からなくなりました(汗)
どなたかもう一度、
蒼天既に死す
黄天まさに立つべし
歳は甲子にあり
天下大吉
の訳の仮案を立ててもらえませんか?
私には全く意味不明ですし(笑)混乱して全く分からなくなりました(汗)
どなたかもう一度、
蒼天既に死す
黄天まさに立つべし
歳は甲子にあり
天下大吉
の訳の仮案を立ててもらえませんか?
(PC)
29 天草
ちょっと思いつきましたが…曹丕が帝位について定めた年号は『黄初』でした。
そう、あの『黄』がついてたんですね。もしかすると皆さんは気がついてました?(汗)
張角のあの文言が『予言』なら、当っていたという事になります。
曹丕(魏の重臣達?)が青州兵に気を使って、『黄』を入れた…ってのは考えすぎでしょうが、その年号に何かの考えを詮索せずにはいられませんよね?
そう、あの『黄』がついてたんですね。もしかすると皆さんは気がついてました?(汗)
張角のあの文言が『予言』なら、当っていたという事になります。
曹丕(魏の重臣達?)が青州兵に気を使って、『黄』を入れた…ってのは考えすぎでしょうが、その年号に何かの考えを詮索せずにはいられませんよね?
(PC)
30 赤龍
この問題については、ここでしばしば触れられてる「五行説」で説明できます。王朝にはそれぞれ、木、火、土、金、水の五行があてはまり、五行相生説(五行の移り変わり)により、火徳の漢の次は、土徳の王朝が現れる。これは当時の一般的な認識。そのため、漢に代わる世を目指した黄巾が土徳を示す黄色をシンボルにし、漢に代わる王朝である魏は、土徳の王朝の最初の年号として「黄初」としたわけです。
(J-SA05)
31 赤龍
五行説は、中国史を理解する上で重要な思想の一つ。簡単に説明しますと、世の中の万物は木火土金水の五つの元素から成り立ち、五行の配当といい、色・方位・季節・数字等あらゆるものに五行が割り振られています。例えば色なら、木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒。RPGなんかの属性みたいなものと捉えてもらってもかまいません。
(J-SA05)
32 赤龍
さて、その五行は移り変わってゆくものと考えられています。その変化は相生説(生み出してゆく)と相克説(打ち消し)があります。相生の場合「木を燃やし火がおこる」「火で燃えた灰が土になる」という具合いに「木→火→土→金→水→木」と移り代わるわけです。黄巾、黄初もこうした思想に根ざしているわけです。長いうえに、分かりづらい説明ですみません。
(J-SA05)
33 天草
赤龍サン…色の話し…今更ですが、ようやく意味が分かりました(笑)
ありがとうございます!!
この説明文は画面メモものですな!!
三国志以外の中国史には全く疎いし、スレ違いかもしれませんが、他の初年号も色系統の年号が多いのでしょうか?
ありがとうございます!!
この説明文は画面メモものですな!!
三国志以外の中国史には全く疎いし、スレ違いかもしれませんが、他の初年号も色系統の年号が多いのでしょうか?
(PC)
35 赤龍
色を用いた元号は李克用さんの言われるように、ほんのわずか。それも、魏の「青龍」呉の「赤烏」のように「青龍が現れたので〜」といった瑞兆に由来するものが多く、建国初に五行の色を意識した元号は三国時代くらいでしょうか。呉の最初の元号は魏の「黄初」蜀の「章武」から一字づつとったと思われる「黄武」です。
(J-SA05)
36 天草
色の話しはおもしろいですね!
李サン・赤龍サン》情報感謝!
さて、黄巾の話しに戻しましょう!
彼らの残党の中にはのちに曹操などに降服し、歴史に名前を残している人物もいるようです。
年代と色んな記述から、
「もしかすると彼は黄巾の生き残りじゃないか?」
と推測できる様な武将はいませんかね?
少し前に話題に上りましたが、青州兵を率いて降服したのは誰なのかも推理してみたいですよね♪
李サン・赤龍サン》情報感謝!
さて、黄巾の話しに戻しましょう!
彼らの残党の中にはのちに曹操などに降服し、歴史に名前を残している人物もいるようです。
年代と色んな記述から、
「もしかすると彼は黄巾の生き残りじゃないか?」
と推測できる様な武将はいませんかね?
少し前に話題に上りましたが、青州兵を率いて降服したのは誰なのかも推理してみたいですよね♪
(N900i/FOMA)
37 親指傷
陰陽の思想は今の日本にも色々残ってます(^^)v馴染み深いのが曜日ですが、日が陽で月が陰、木火土金水で、青春、赤夏、白秋、黒冬と色も言葉で残ってますo(^-^)o曜日も調べると面白いですよp(^^)q木剋金とか(;^_^A剋してます(^^)v昔話の桃太郎や金太郎は陰陽の思想で出来てます(^o^;ちなみに鬼は丑寅で(゚_゚)土(死)から木(生)の気です桃は木だけど金の気です(^.^)b間違ってたら、誰か訂正お願いしますm(__)m
(P900i/FOMA)
39 赤龍
親指傷さんに補足。桃が金気なのは、五行の配当で「五菓」(5種類の果物)の配当によるものです。ここらになると根拠もわからないですね。
方位に関して補足、土=中央=黄=土用。では上級問題(笑)この五行における、方位と色の関係(東=青など)はどういう意味・根拠があるでしょうか?答え(といっても仮説だとは思うが)は後程。ヒントは、この思想は中国で生まれました。正解者には「陰陽の達者」の栄誉を送ります(笑)
方位に関して補足、土=中央=黄=土用。では上級問題(笑)この五行における、方位と色の関係(東=青など)はどういう意味・根拠があるでしょうか?答え(といっても仮説だとは思うが)は後程。ヒントは、この思想は中国で生まれました。正解者には「陰陽の達者」の栄誉を送ります(笑)
(PC)
40 李克用
(P900i/FOMA)
42 赤龍
やっと本日のお仕事終了。ということで>>39の答えを。
中原の地、つまり中国の人々にとって世界の中心と考えられた土地は黄土平原。つまり黄色の大地。中央=黄にはこういう意味があると思われます。南方の地は赤土が多いので南=赤。北は黒土が多いので北=黒。西域には砂漠が広がり、砂の色は白いので西=白。そして東には海があるので東=青。五行配当における方位と五色の対応には、こうした中国人の生活環境に基づいたものがあるのだろうと考えられています。私はこの考え方を中国人の先生から聞きました。
中原の地、つまり中国の人々にとって世界の中心と考えられた土地は黄土平原。つまり黄色の大地。中央=黄にはこういう意味があると思われます。南方の地は赤土が多いので南=赤。北は黒土が多いので北=黒。西域には砂漠が広がり、砂の色は白いので西=白。そして東には海があるので東=青。五行配当における方位と五色の対応には、こうした中国人の生活環境に基づいたものがあるのだろうと考えられています。私はこの考え方を中国人の先生から聞きました。
(PC)
43 赤龍
李克用さん、黄巾から話題ずらしてすみません。ただ、陰陽説、五行説は三国志を含む中国史を一歩深く知ろうとする時に大切な思想。せっかく五行説の話題がでたので色々紹介したいと思いまして。申し訳ないです。
(PC)
47 赤龍
ブログの方で問題になってた、黄巾の乱が起きた日。
『三国志』孫堅伝によると「三月甲子」(清岡さんによると19日)とあります。しかし『後漢書』霊帝紀には二月に反乱を起こし、三月戊申(3日?)何進を大将軍とし軍備を整え、壬子(7日?)党人に対し大赦令を出したとあります。また、皇甫嵩伝には三月五日宦官と内通し、内外から謀反をおこす計画があったものの、密告により事前に発覚。予定を早め、急遽挙兵したとあります(それがおそらく二月)両書で挙兵の時期のずれがありますよね。実際はどうだったんでしょうか?
『三国志』孫堅伝によると「三月甲子」(清岡さんによると19日)とあります。しかし『後漢書』霊帝紀には二月に反乱を起こし、三月戊申(3日?)何進を大将軍とし軍備を整え、壬子(7日?)党人に対し大赦令を出したとあります。また、皇甫嵩伝には三月五日宦官と内通し、内外から謀反をおこす計画があったものの、密告により事前に発覚。予定を早め、急遽挙兵したとあります(それがおそらく二月)両書で挙兵の時期のずれがありますよね。実際はどうだったんでしょうか?
(PC)
48 天草
ほほう…さすがは赤龍サン。
他伝からそれだけの情報が引っ張り出すのは難しいですよね。
それは置いといて…。
意外と同じ日に一斉に・・・ではなく、各所で微妙にずれていたのかも知れませんね。
つまり全ての記述は間違いではない…というのはどうでしょうか?
他伝からそれだけの情報が引っ張り出すのは難しいですよね。
それは置いといて…。
意外と同じ日に一斉に・・・ではなく、各所で微妙にずれていたのかも知れませんね。
つまり全ての記述は間違いではない…というのはどうでしょうか?
(PC)
どうもこちらでは初めまして。
ブログからこちらに話題が戻ってきてますね。
少しコメントをば。
三国志呉書の孫破虜討逆伝の初めの方は他の史書と比べると時間の記述が違ってきていて、曖昧に見えるんですよ。
例えば、妖賊の許昌を討った年が熹平元年となってますが、後漢書だと反乱→討伐の流れが断片的だけどくわしくあってだいたい熹平元年〜三年になっていて、邊章・韓遂が反乱し、張温に討たせたのが中平三年になっているのは後漢書と後漢紀だと前後のいきさつ込みで中平二年になっているとかです。
なので、どうも私は無意識に三国志呉書の孫破虜討逆伝の時間の記述をスルーしたようです(汗)
ただ三国志は現存する史書の中で、その時代を書いたものとしては最も古い史書であるという強みがあるんで、まようところです。
ちなみに後漢書に先行する史書の後漢紀でも二月に反乱を起こしていることになってます。まぁ、後漢書の作者が後漢紀を参考にしたのでしたら、ソースは同じなんでしょうね。
↓PCでしか見れないのですけど、昔、まとめたやつです。三月甲子の話はないんですが。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w031003.html
http://cte.main.jp/sunshi/w/w031004.html
ブログからこちらに話題が戻ってきてますね。
少しコメントをば。
三国志呉書の孫破虜討逆伝の初めの方は他の史書と比べると時間の記述が違ってきていて、曖昧に見えるんですよ。
例えば、妖賊の許昌を討った年が熹平元年となってますが、後漢書だと反乱→討伐の流れが断片的だけどくわしくあってだいたい熹平元年〜三年になっていて、邊章・韓遂が反乱し、張温に討たせたのが中平三年になっているのは後漢書と後漢紀だと前後のいきさつ込みで中平二年になっているとかです。
なので、どうも私は無意識に三国志呉書の孫破虜討逆伝の時間の記述をスルーしたようです(汗)
ただ三国志は現存する史書の中で、その時代を書いたものとしては最も古い史書であるという強みがあるんで、まようところです。
ちなみに後漢書に先行する史書の後漢紀でも二月に反乱を起こしていることになってます。まぁ、後漢書の作者が後漢紀を参考にしたのでしたら、ソースは同じなんでしょうね。
↓PCでしか見れないのですけど、昔、まとめたやつです。三月甲子の話はないんですが。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w031003.html
http://cte.main.jp/sunshi/w/w031004.html
(PC)
51 天草
さすがに赤龍サンと清岡サンが加わると話しが詳しくなってきますね(;^_^A
黄巾の乱勃発の日の謎はもっと研究する価値がありそうですね!
もう一つ、私が挙げた疑問に八人の使者というのがあります。
彼らが誰だったのか?というのは憶測でしか語れませんが、何を目的としてどこに派遣された使者だったのでしょうか?
黄巾の乱勃発の日の謎はもっと研究する価値がありそうですね!
もう一つ、私が挙げた疑問に八人の使者というのがあります。
彼らが誰だったのか?というのは憶測でしか語れませんが、何を目的としてどこに派遣された使者だったのでしょうか?
(N900i/FOMA)
「八人の使者」というと、後漢書の皇甫嵩伝にも書いてるんですけど、そこには「角因遣弟子八人使於四方、以善道教化天下、轉相誑惑。」って書いてます。
さらに続くところで三国志呉書の孫堅伝には書いてないのが「十餘年間、衆徒數十萬、連結郡國、自青・徐・幽・冀・荊・楊・エン・豫八州之人、莫不畢應。」というところの具体的な8つの州の名前です。
単純に八つながりで、その八人の使者はその八州それぞれで教えを広めていたのかな、と思いました。
その八人がそのまま渠帥(軍事担当?)になったのでしたら、名が残ってそうですね。
例えば、荊州方面は張曼成だとかです。
でも教えを広める担当と軍事担当は別だ、という可能性もありますね。
さらに続くところで三国志呉書の孫堅伝には書いてないのが「十餘年間、衆徒數十萬、連結郡國、自青・徐・幽・冀・荊・楊・エン・豫八州之人、莫不畢應。」というところの具体的な8つの州の名前です。
単純に八つながりで、その八人の使者はその八州それぞれで教えを広めていたのかな、と思いました。
その八人がそのまま渠帥(軍事担当?)になったのでしたら、名が残ってそうですね。
例えば、荊州方面は張曼成だとかです。
でも教えを広める担当と軍事担当は別だ、という可能性もありますね。
(PC)
55 天草
>>52
ここに出てくる張曼成という人物は正史のどこに名前が出てくるんでしたっけ?
実は、以前チャットで話題になった、『青州兵を率いて投降したのは誰か?』という疑惑に李典を怪しんでいました。
李典の字って曼成なんですよね?(ニヤリ)
どうです?
怪しくないですか?
李典=張曼成=黄巾賊八人の使者説というぶっ飛び説をぶち上げます!!
ここに出てくる張曼成という人物は正史のどこに名前が出てくるんでしたっけ?
実は、以前チャットで話題になった、『青州兵を率いて投降したのは誰か?』という疑惑に李典を怪しんでいました。
李典の字って曼成なんですよね?(ニヤリ)
どうです?
怪しくないですか?
李典=張曼成=黄巾賊八人の使者説というぶっ飛び説をぶち上げます!!
(PC)
56 清岡美津夫
こんばんわ。
引用元が私の書き込みなので、張曼成の出典かいときますね。
正史だと後漢書本紀と後漢書朱儁伝です。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w031124.html#mansei
もっとも張曼成はすぐに殺されてます。
引用元が私の書き込みなので、張曼成の出典かいときますね。
正史だと後漢書本紀と後漢書朱儁伝です。
http://cte.main.jp/sunshi/w/w031124.html#mansei
もっとも張曼成はすぐに殺されてます。
(PC)
57 ストラップ
>>55-56
第一>>>142-7-10にある様に、李典では年齢が合いませんよ。
二李臧文呂許典二ホウ閻伝第十八の
「典従父乾(中略)破黄巾於寿張」
という記述もありますし。
寿張の黄巾賊に関しては、武帝紀にある様に、これこそ青州の賊ですからね。
第一>>>142-7-10にある様に、李典では年齢が合いませんよ。
二李臧文呂許典二ホウ閻伝第十八の
「典従父乾(中略)破黄巾於寿張」
という記述もありますし。
寿張の黄巾賊に関しては、武帝紀にある様に、これこそ青州の賊ですからね。
(PC)
68 ストラップ
>>60以降だらだらと雑談ばかりですね。良くない傾向ですよ。
話題にしたのは、「卷七十一 皇甫嵩朱儁列伝第六十一」にて、「自黄巾賊後」として書かれた「黒山、黄龍、白波、左校、郭大賢……」という固有名詞群が、何を指すのかだったと思います。
霊帝紀の「黒山賊張牛角」や献帝紀の「黒山賊張燕」は、ここで指す「黒山」と同じなのか? ならグループの名前が書いてあるのか? それとも、グループの名前とリーダーの名前が並列されているのか?
又、ここで書かれた賊は、黄巾賊の残党なのか、それとも、違うのか。
そういう話題だったと記憶しています。
話題にしたのは、「卷七十一 皇甫嵩朱儁列伝第六十一」にて、「自黄巾賊後」として書かれた「黒山、黄龍、白波、左校、郭大賢……」という固有名詞群が、何を指すのかだったと思います。
霊帝紀の「黒山賊張牛角」や献帝紀の「黒山賊張燕」は、ここで指す「黒山」と同じなのか? ならグループの名前が書いてあるのか? それとも、グループの名前とリーダーの名前が並列されているのか?
又、ここで書かれた賊は、黄巾賊の残党なのか、それとも、違うのか。
そういう話題だったと記憶しています。
(PC)
69 ナタデココ
前にも書いてありますが実際農民の掻き集めですし、
絶対的リーダーを失ったのは大打撃だったという事は間違いない
でも張角以外にも武将?は居たのに、纏めあげれなかったのは
やはり張角がそれだけ信頼というか、絶対的地位だったと思います
以上私の独り言でした
絶対的リーダーを失ったのは大打撃だったという事は間違いない
でも張角以外にも武将?は居たのに、纏めあげれなかったのは
やはり張角がそれだけ信頼というか、絶対的地位だったと思います
以上私の独り言でした
(W53T/au)
70 魏延
張角死後の太平道集団には2つの見方がありますね。
一つは張角が死んだことによって、太平道本来の思想等が消えてただの賊軍となったという見方。
もう一つは、張角死後も各地域の集団にその思想は残っていたという見方です。
前者はキ州集団(つまり張角が率いた集団)と各地域の集団との間に上下関係のようなのを見ているようです。
後者はキ州集団と角地域の集団の関係は対等だと見ているようです。
一つは張角が死んだことによって、太平道本来の思想等が消えてただの賊軍となったという見方。
もう一つは、張角死後も各地域の集団にその思想は残っていたという見方です。
前者はキ州集団(つまり張角が率いた集団)と各地域の集団との間に上下関係のようなのを見ているようです。
後者はキ州集団と角地域の集団の関係は対等だと見ているようです。
(812SH/SB)
71 魏延
黄巾の乱について語る上で必ず話題にのぼる
蒼天巳死
黄天当立
歳在甲子
天下大吉
の蒼天の解釈ですが、これに関する解釈はホントにいろいろありますよね。
以前に赤龍さんが紹介なさっていた説以外にもおもしろいのが幾つかありましたので、2,3紹介してみます。
先ず、蒼天そのものには深い意味はないという解釈です。
これは
蒼天巳死
黄天当立
歳在甲子
天下大吉
のうち真ん中二句の
黄天当立
歳在甲子
が大事なのであり、蒼天巳死は「蒼」が中国語の発音に直すと「黄」と発音が似ていることから「蒼」を付けたのであり、別に発音が似ていれば他のでもよかった。
つまり、「蒼天巳死と天下大吉」は「黄天当立と歳在甲子」の真ん中二句を強調(特に黄)し、尚且つ前後を配置して成句にしたというものです。
また、「黄天」は黄老信仰を背景とする独自の表現で五行とは全く関係ないとしています。
(下に続けます)
蒼天巳死
黄天当立
歳在甲子
天下大吉
の蒼天の解釈ですが、これに関する解釈はホントにいろいろありますよね。
以前に赤龍さんが紹介なさっていた説以外にもおもしろいのが幾つかありましたので、2,3紹介してみます。
先ず、蒼天そのものには深い意味はないという解釈です。
これは
蒼天巳死
黄天当立
歳在甲子
天下大吉
のうち真ん中二句の
黄天当立
歳在甲子
が大事なのであり、蒼天巳死は「蒼」が中国語の発音に直すと「黄」と発音が似ていることから「蒼」を付けたのであり、別に発音が似ていれば他のでもよかった。
つまり、「蒼天巳死と天下大吉」は「黄天当立と歳在甲子」の真ん中二句を強調(特に黄)し、尚且つ前後を配置して成句にしたというものです。
また、「黄天」は黄老信仰を背景とする独自の表現で五行とは全く関係ないとしています。
(下に続けます)
(812SH/SB)
72 周
結局は宗教の頭が死去した事により、それまで信じていた言葉が安っぽい嘘になってしまった事が一番の瓦解の原因では?最もらしく新しい天下を語ってるわりにすんなりいかない事、言葉が本当であるなら楽に悠々と天下取れても不思議はない、さらに張角が病死した事、天下を取り平和に導くはずの人が天命で死去してしまう。つまり信じていた事が信じられなくなり簡単に瓦解したのではないでしょうか?なんかちょっとズレてるかも?とりあえず読んでくださった方感謝。
(SH001/au)
73 諸葛潤
確かに官軍は
どたばたでしたが、
皇甫嵩や朱儁は
それなりには
優れた指揮官でしたし、
一応ちゃんとした訓練も
ある程度は
受けているはずなんで、
所詮太平道の軍は
農民の寄せ集めですから
これに勝つのは
普通にきついでしょう。
略奪は
自然に太平道に
入っていない
多くの
農民や盗賊なんかが
どさくさにまぎれて
太平道に入ったり、
あるいは勝手に
太平道を名乗って
略奪を進めるなどをし、
略奪集団として
評判が悪くなりました。
太平道が
あそこまで力を
持ったのは
張角になかなか
人望があったこと、
また、太平道は最初は
宗教団体として
始めた団体でも、
少し時がたつと
彼は革命を起こそうと
地下でかなり力を
付けていたに違いないと
思います。
実際、黄巾の乱は
張角が権力争いで
負けた清流官僚を
取り込んで、
綿密な計画をたてさせ、
36の地区に分けて
一斉蜂起させたという
話を聞いたことがあります。
その清流官僚の
綿密な計画で
最初は漢王朝に
大きな打撃を
与えられましたが、
ロクに訓練も受けず、
略奪ばかりする
集団が長く保つはずも
ありません。
張角の死は
でかいとは思いますが、
そんな集団の衰退を
早めたに
過ぎないと僕は
思います。
どたばたでしたが、
皇甫嵩や朱儁は
それなりには
優れた指揮官でしたし、
一応ちゃんとした訓練も
ある程度は
受けているはずなんで、
所詮太平道の軍は
農民の寄せ集めですから
これに勝つのは
普通にきついでしょう。
略奪は
自然に太平道に
入っていない
多くの
農民や盗賊なんかが
どさくさにまぎれて
太平道に入ったり、
あるいは勝手に
太平道を名乗って
略奪を進めるなどをし、
略奪集団として
評判が悪くなりました。
太平道が
あそこまで力を
持ったのは
張角になかなか
人望があったこと、
また、太平道は最初は
宗教団体として
始めた団体でも、
少し時がたつと
彼は革命を起こそうと
地下でかなり力を
付けていたに違いないと
思います。
実際、黄巾の乱は
張角が権力争いで
負けた清流官僚を
取り込んで、
綿密な計画をたてさせ、
36の地区に分けて
一斉蜂起させたという
話を聞いたことがあります。
その清流官僚の
綿密な計画で
最初は漢王朝に
大きな打撃を
与えられましたが、
ロクに訓練も受けず、
略奪ばかりする
集団が長く保つはずも
ありません。
張角の死は
でかいとは思いますが、
そんな集団の衰退を
早めたに
過ぎないと僕は
思います。
(N705i/FOMA)
74 魏延
>>72
一概に張角が死んだことによって、太平道の教えが瓦解したかというと、必ずしもそうとは言い切れないんですよね。
なにしろ武帝紀の注釈に出て来る「魏書」には青州黄巾がソウ操に送った手紙が掲載されているのですが、その内容に「漢行巳尽、黄家当立」(尽は原文では旧字体)というのがあります。
この文は先に太平道集団が流布させた
蒼天巳死
黄天当立
歳在甲子
天下大吉
の内の蒼天巳死、黄天当立の部分と似ており、仮に蒼天を漢王室だと解釈するなら、張角死後もその思想は彼らの中に生きていたとも考えられるんです。
ただ、やはりこの辺りの解釈は分かれておりまして、周汲ウんが言われるように張角死後の黄巾を「後期黄巾」と分類し、元々の思想はない(もしくは薄まった)ものだという解釈もあります。
一概に張角が死んだことによって、太平道の教えが瓦解したかというと、必ずしもそうとは言い切れないんですよね。
なにしろ武帝紀の注釈に出て来る「魏書」には青州黄巾がソウ操に送った手紙が掲載されているのですが、その内容に「漢行巳尽、黄家当立」(尽は原文では旧字体)というのがあります。
この文は先に太平道集団が流布させた
蒼天巳死
黄天当立
歳在甲子
天下大吉
の内の蒼天巳死、黄天当立の部分と似ており、仮に蒼天を漢王室だと解釈するなら、張角死後もその思想は彼らの中に生きていたとも考えられるんです。
ただ、やはりこの辺りの解釈は分かれておりまして、周汲ウんが言われるように張角死後の黄巾を「後期黄巾」と分類し、元々の思想はない(もしくは薄まった)ものだという解釈もあります。
(812SH/SB)
75 周
皆さんこんにちはです。後黄巾について自分の見解としては簡単で単に黄巾首領の死去により、この時代最もポピュラーな職業の盗賊になっていったと考えています。盗賊になる地盤は既に出来てる訳ですし、故郷に帰ろうにも故郷の反応を恐れ意気揚々と帰れないと思いますので、勿論総ての黄巾がそうなったとは考えてはいませんが、大半はそうではないかと、なにより曹操の死後契約通り田舎に帰った兵達は帰る理由と帰りやすい時が出来た為ここぞとばかりに故郷に帰ったんだと考えております。また稚拙な文になったけど読んでくださった方に感謝。
(SH001/au)
76 魏延
青州黄巾についてなんですが、彼らてソウ操に降伏後も建安12年(207年)には後漢王族の済南王劉賛を殺してますね。
まあ、多分ソウ操に追い散らされた残党の仕業だとは思いますが。
まあ、多分ソウ操に追い散らされた残党の仕業だとは思いますが。
(812SH/SB)
77 魏延
ゼミ発表の時に作った黄巾残党の年表です。よろしければ参考にどうぞ。あと、不足部分や訂正部分がありましたらご指摘ください。
青州黄巾活動年表
中平二年(185年) 青州黄巾、青州、徐州に蜂起する。
中平五年(188年)十月 青州黄巾再び青州、徐州に蜂起し郡県を寇するも徐州刺史陶謙によって撃破される。
初平元年(190年) 青州黄巾北海に侵入。後に張饒に率いられて冀州より再び侵入するも孔融によって撃破され、張饒は死亡。また管亥に率いられて侵入し、孔融を都昌に包囲するも救援にきた太史慈及び劉備に撃破される。
初平二年(191年)十一月 青州黄巾太山郡を寇するも太守応劭これを討つ。転じて渤海に寇するも東光で公孫讃に敗れる。この時、黒山と連合しようとしていた。
初平三年(192年)四月 袞州に侵入し任城相鄭遂を殺し、東平に袞州刺史劉岱を殺すも、東郡太守曹繰に壽張にて敗れ、済北まで追われ降服する。兵三十万、男女百万余いたという。
建安十二年(207年)十月 黄巾賊済南王劉賛を殺す。
その他の黄巾残党
中平五年(188年)四月 汝南・葛波の黄巾、郡国を攻める。六月、益州黄巾の馬相、益州刺史の欷儉を殺し天子を自称する。巴郡を寇し郡守を殺すも益州従事 龍に斬られる。十月、葛波の黄巾、下軍校尉鮑鴻に討たれる。
建安元年(196年) 汝南・潁泉の黄巾何儀、劉辟、黄邵、何曼等衆各々数万、袁術、孫堅に附く。二月、曹繰に討たれ降服する。
建安五年(200年)八月 劉辟等再び反乱を起こして袁紹に附き、劉備と共に許周辺を略すも曹仁に撃破される。
建安六年(201年)四月以前 汝南の賊共都等、劉備と共に汝南を略するも曹繰に討たれる。
青州黄巾活動年表
中平二年(185年) 青州黄巾、青州、徐州に蜂起する。
中平五年(188年)十月 青州黄巾再び青州、徐州に蜂起し郡県を寇するも徐州刺史陶謙によって撃破される。
初平元年(190年) 青州黄巾北海に侵入。後に張饒に率いられて冀州より再び侵入するも孔融によって撃破され、張饒は死亡。また管亥に率いられて侵入し、孔融を都昌に包囲するも救援にきた太史慈及び劉備に撃破される。
初平二年(191年)十一月 青州黄巾太山郡を寇するも太守応劭これを討つ。転じて渤海に寇するも東光で公孫讃に敗れる。この時、黒山と連合しようとしていた。
初平三年(192年)四月 袞州に侵入し任城相鄭遂を殺し、東平に袞州刺史劉岱を殺すも、東郡太守曹繰に壽張にて敗れ、済北まで追われ降服する。兵三十万、男女百万余いたという。
建安十二年(207年)十月 黄巾賊済南王劉賛を殺す。
その他の黄巾残党
中平五年(188年)四月 汝南・葛波の黄巾、郡国を攻める。六月、益州黄巾の馬相、益州刺史の欷儉を殺し天子を自称する。巴郡を寇し郡守を殺すも益州従事 龍に斬られる。十月、葛波の黄巾、下軍校尉鮑鴻に討たれる。
建安元年(196年) 汝南・潁泉の黄巾何儀、劉辟、黄邵、何曼等衆各々数万、袁術、孫堅に附く。二月、曹繰に討たれ降服する。
建安五年(200年)八月 劉辟等再び反乱を起こして袁紹に附き、劉備と共に許周辺を略すも曹仁に撃破される。
建安六年(201年)四月以前 汝南の賊共都等、劉備と共に汝南を略するも曹繰に討たれる。
(PC)
78 ストラップ
(NS01/au)
79 魏延
>>78
直接書いてる記事ではありませんが、三国志魏書の夏候淵伝にはセイ南、楽安で黄巾の残党徐和、司馬具(にんべん付き)を破った記事があります。また、共に鎮圧したゾウハ伝にも同じ記事があり、その前文にはエン家の息子討伐の記事があります。この時期が件の建安十二年に近いことから王殺害事件の事を指していると考えることができると思います。
ただ、夏候淵伝では殺されたのは王ではなく長吏となっていますが。
直接書いてる記事ではありませんが、三国志魏書の夏候淵伝にはセイ南、楽安で黄巾の残党徐和、司馬具(にんべん付き)を破った記事があります。また、共に鎮圧したゾウハ伝にも同じ記事があり、その前文にはエン家の息子討伐の記事があります。この時期が件の建安十二年に近いことから王殺害事件の事を指していると考えることができると思います。
ただ、夏候淵伝では殺されたのは王ではなく長吏となっていますが。
(812SH/SB)
80 魏延
お久しぶりです。なんだかんだで学生を通り越して社会人になってしまいましたf^_^;
黄巾の組織について学生時代の勉強を通して考えたことを箇条書きにしてみたいと思います(恐らくこんな組織だったろうな・・・て感じです)
・太平道教団を中核に、その周辺に飢民、貧民、夜盗、大小の反乱勢力がひっついて構成された組織。
・背後には宦官、有力豪族などのなんらかのパトロンが存在。
・宗教に基づいて組織化された集団。
・乱鎮圧後は中核的な集団と外縁の集団とが分離。
・高い情報伝達能力を有する。
・独自の行政区「方」を持つ。←飢民や夜盗、大小の反乱勢力などがここに合流か?
・教団内においては、宗教を通して、身分を越えた交流があったのではないか。
以上です。また、時間がある時に詳しいことを書かせていただきたいと思います。
黄巾の組織について学生時代の勉強を通して考えたことを箇条書きにしてみたいと思います(恐らくこんな組織だったろうな・・・て感じです)
・太平道教団を中核に、その周辺に飢民、貧民、夜盗、大小の反乱勢力がひっついて構成された組織。
・背後には宦官、有力豪族などのなんらかのパトロンが存在。
・宗教に基づいて組織化された集団。
・乱鎮圧後は中核的な集団と外縁の集団とが分離。
・高い情報伝達能力を有する。
・独自の行政区「方」を持つ。←飢民や夜盗、大小の反乱勢力などがここに合流か?
・教団内においては、宗教を通して、身分を越えた交流があったのではないか。
以上です。また、時間がある時に詳しいことを書かせていただきたいと思います。
(941SH/SB)
81 魏延
久しぶりに書き込み。
このスレの初めの方で話題になっている「蒼天」の解釈について。
黄巾の乱を扱った研究においては、かの予言は五行説に当て嵌めて考えるのが一般的です。しかし、それでは蒼天→黄天という流れを説明するには腑に落ちないものがあります。
なぜなら、五行説に従うならば蒼天の部分は火徳の漢王朝を表すのですから「赤天」もしくはそれ類するものである必要があります。しかし、蒼は木徳を表すものなので、五行説に当て嵌めると、どうしても蒼天の解釈が悩み所となります。
ただし、この予言に関しては五行説に当て嵌めない解釈も存在します。その一つが、天変地異を表したものだという解釈です。
つまり、蒼天を特別な解釈をするのではなく、そのまま青空を意味すると考える。
そして、黄天は空が黄色になることを表す。
その時は甲子の年であり、これによって天下は良くなる。
青空が黄色の空になる・・・・これは黄砂を意味している。つまり、青空が黄砂によって黄色の空になる自然現象(当時にとっては天変地異)が甲子の年におき、そこから天下は良くなる。
そんな意味の予言だという解釈です。確かにこれなら蒼天→黄天の問題は解決されます。また、難解な意味もなく、最下位の構成員にも理解しやすい、視覚に訴えるものです。
当然、だからといってこれが絶対に正しいわけではないでしょう。というよりも、直接書かれている情報が少ない為、どうやっても推測になってしまいます。しかし、これこそが黄巾の乱について考察する時の面白みでもあるんですよね。
参考になれば幸いです。
このスレの初めの方で話題になっている「蒼天」の解釈について。
黄巾の乱を扱った研究においては、かの予言は五行説に当て嵌めて考えるのが一般的です。しかし、それでは蒼天→黄天という流れを説明するには腑に落ちないものがあります。
なぜなら、五行説に従うならば蒼天の部分は火徳の漢王朝を表すのですから「赤天」もしくはそれ類するものである必要があります。しかし、蒼は木徳を表すものなので、五行説に当て嵌めると、どうしても蒼天の解釈が悩み所となります。
ただし、この予言に関しては五行説に当て嵌めない解釈も存在します。その一つが、天変地異を表したものだという解釈です。
つまり、蒼天を特別な解釈をするのではなく、そのまま青空を意味すると考える。
そして、黄天は空が黄色になることを表す。
その時は甲子の年であり、これによって天下は良くなる。
青空が黄色の空になる・・・・これは黄砂を意味している。つまり、青空が黄砂によって黄色の空になる自然現象(当時にとっては天変地異)が甲子の年におき、そこから天下は良くなる。
そんな意味の予言だという解釈です。確かにこれなら蒼天→黄天の問題は解決されます。また、難解な意味もなく、最下位の構成員にも理解しやすい、視覚に訴えるものです。
当然、だからといってこれが絶対に正しいわけではないでしょう。というよりも、直接書かれている情報が少ない為、どうやっても推測になってしまいます。しかし、これこそが黄巾の乱について考察する時の面白みでもあるんですよね。
参考になれば幸いです。
(941SH/s)
82 魏延
そういえば、蒼には東という意味もあります。もしかしたら蒼天→東の天→東の天子で後漢王朝を意味していたのかもしれませんね。前漢の都長安から見れば、洛陽は東にあたりますからね。
こう考えれば、蒼天は太平道集団内における後漢王朝の隠語だったのかもしれませんね。まあ、思いつきのはなしなんで根拠になるものはないんですが。
こう考えれば、蒼天は太平道集団内における後漢王朝の隠語だったのかもしれませんね。まあ、思いつきのはなしなんで根拠になるものはないんですが。
(941SH/s)
83 バンビ
中々おもしろい考察ですね!
でも、そこまで難しく考えたのかな?という風にふと思っちゃうんですよね(^_^;)
ところで
張角は馬元義を派遣して内から門を開けさせようとして、結果は失敗してますが、もし密告がなかったとしてそんな簡単に開けれたんですかね(笑)
でも、そこまで難しく考えたのかな?という風にふと思っちゃうんですよね(^_^;)
ところで
張角は馬元義を派遣して内から門を開けさせようとして、結果は失敗してますが、もし密告がなかったとしてそんな簡単に開けれたんですかね(笑)
(ISW13HT/au)
84 魏延
馬元義自体は、太平道集団の中でもかなりの実力者だったことは後漢書の記述から確認することができます。数万人の民衆を引き連れて州を跨いで行進をおこなったようです。
個人的に、馬元義は太平道集団のパトロンとなった有力な豪族だったのではないかと考えています。もしそうであるならば、彼が洛陽内に1000人以上の内応者を得ていたことも、有力豪族のパイプを利用したことによって為したと考えられます。
この内応者の中には宦官等も含まれていたようですが、いわゆる十常侍クラスはいなかったようですし、その他がどんな階層だったのかはわかりません。
個人的に、馬元義は太平道集団のパトロンとなった有力な豪族だったのではないかと考えています。もしそうであるならば、彼が洛陽内に1000人以上の内応者を得ていたことも、有力豪族のパイプを利用したことによって為したと考えられます。
この内応者の中には宦官等も含まれていたようですが、いわゆる十常侍クラスはいなかったようですし、その他がどんな階層だったのかはわかりません。
(941SH/s)
85 バンビ
とても納得のいくレスありがとうございます♪ヽ(´▽`)/
ですが、数万を引き連れての大移動は気付かれそうな物ですよね(笑)
黄巾軍は36万という数がいて意外にも統率が取れていたみたいだすが、張角に軍事的能力はあったのでしょうか?
張宝などは官軍を数が多いのもありますが、何度か苦戦させてもいます!
波才や張慢成などを任命するのにある程度は知っておかねばという気がしますが、豪族の中から選んだのでしょうか?
どう思われますか?
ですが、数万を引き連れての大移動は気付かれそうな物ですよね(笑)
黄巾軍は36万という数がいて意外にも統率が取れていたみたいだすが、張角に軍事的能力はあったのでしょうか?
張宝などは官軍を数が多いのもありますが、何度か苦戦させてもいます!
波才や張慢成などを任命するのにある程度は知っておかねばという気がしますが、豪族の中から選んだのでしょうか?
どう思われますか?
(ISW13HT/au)
86 魏延
推測なのですが、おそらくは各地方の有力パトロンに指揮を任せたのではないかと思います。
また、張角自身の軍事能力についてはわかりませんが、太平道集団自体の情報伝達能力はかなり高かったと思われます。なにせ、反乱の計画が露顕するやいなや直ちに一斉蜂起できるのは情報伝達がよほどスムーズでないと無理でしょうし。
おそらく、張角を中心とした各パトロンとの独自の情報ルートが存在していたのではないかと思います。彼ら上層部の動きを見るに、ただの民衆ではなくそれ相応の豪族だったのではないか。そうでなければ、張角が後漢朝廷に死蔵されていた書物(名前忘れた)を入手ルートがわからなくなりますし。彼らがその書物を回し読みし、張角がその中の代表格となって教団を運営していき、次第に武装化していった・・・そう考えればあの集団がどんな組織構造なのかなんとなく見えてくる気がしないでもないです。
また、張角自身の軍事能力についてはわかりませんが、太平道集団自体の情報伝達能力はかなり高かったと思われます。なにせ、反乱の計画が露顕するやいなや直ちに一斉蜂起できるのは情報伝達がよほどスムーズでないと無理でしょうし。
おそらく、張角を中心とした各パトロンとの独自の情報ルートが存在していたのではないかと思います。彼ら上層部の動きを見るに、ただの民衆ではなくそれ相応の豪族だったのではないか。そうでなければ、張角が後漢朝廷に死蔵されていた書物(名前忘れた)を入手ルートがわからなくなりますし。彼らがその書物を回し読みし、張角がその中の代表格となって教団を運営していき、次第に武装化していった・・・そう考えればあの集団がどんな組織構造なのかなんとなく見えてくる気がしないでもないです。
(941SH/s)
87 バンビ
魏延さんのおっしゃる通り出来た組織だったんでしょうね!
公孫讃について調べていたら黄巾軍は軽重を持っていた事を初めて知りました!笑
フツーに考えれば持ってるか!って感じですが、自分のイメージが戦闘→略奪って印象があったので思い込みの類は怖いですな(笑)
公孫讃について調べていたら黄巾軍は軽重を持っていた事を初めて知りました!笑
フツーに考えれば持ってるか!って感じですが、自分のイメージが戦闘→略奪って印象があったので思い込みの類は怖いですな(笑)
(ISW13HT/au)