1

孫権について

孫権について不思議に思ったこと。
まず彼は碧眼だったようですが、親が西洋人だったわけはないんですよね?イキナリ青い目で生まれるなんてあるのか?

次に孫策とは確執とかがあったのか?

そして晩年の孫権。まだよく調べてないのですが毒を盛られ続けておかしくなった?など。

まず博識な皆様にご意見等お聞きしたく思い、スレたててみました。他にも孫権の謎みたいのがありましたら、それもお聞かせ願えたらと思います。
(W11K/au)
2 天草
彼の親が孫堅である事は、間違いないでしょうし、孫策らと母親が違うというのもないと思いますので、碧眼というのは、少し青みがかった…みたいな感じなのかな?
孫策との確執はあったとしたら、(私の意見としては)孫権のみにだと思われます。詳しくは『実録!江東の小覇王』と専用スレにて。。。

孫権毒殺説は興味ありますね。もし資料やソースがあればどなたかお願いします。個人的には彼は71歳という当時にしては異例の長生きですから、普通に大往生ではないかと思ってますが。。。特に彼の晩年は英雄と呼ぶには残念な伝ばかり並びますからね…(汗)
(PC)
3 大伴
角張った顎、光る眼球、胴長短足であったとされており、父堅は権を「貴人の相」と言った、とあります。

が、私はこれは、後に作られた孫権の容姿である可能性も、あると思います。


孫権は偉人である

偉人の眼光は鋭いであろう

鋭い眼光は普通の目からは発せられない

偉人である孫権は普通の目では無い


と、ね。
(F2102V/FOMA)
4
天草さん、毒殺ではなく確か弱い毒で頭が変になったらしいです。どっかのHPで誰かのカキコみただけですので、信憑性は?ですが…。面白いなと思って覚えていたのです!
(W11K/au)
5 大伴
毒殺は聞いた事がありませんね。
その人は、小説か妄想かと、区別できない人ではありませんか?
(F2102V/FOMA)
6 天草
まぁしかし、英雄の最後を正史とは別の角度で検証するのも面白いですもんね。

現に私は孫策・孫権の問題に一石を投じてるわけですし…(汗)

それにしても孫権って言う人物ほど評価が人によって分かれる人も珍しいですよね。
皆さんは彼をどう評価しますか?好きか?嫌いか?も含めて教えて下さい。
(PC)
7 しす
好きではない、好きではないが…ボロクソに言われるほど惨い人でもないとは思います。
ただパパや兄やん(特に兄やん)と比較されてしまうのが不幸と言えば不幸かな?という気もします。
孫策が父孫堅の威名があったとは言え、事実上裸一貫に近い形からあれだけの勢力を築いたのに対し、孫権はどうしてもお坊ちゃま的イメージがつきまとう。
だが曹操、劉備という傑物を相手に、勢力を維持しつづけたこのだからもうちょっと評価してやってもええんでないかい?とは思います。
でもやっぱり好きになれない(爆)
(PC)
8 独眼龍李克用
毒殺はないでしょうが、薬をやっていたのか酔いやすい体質(酔って駄目になる)じゃないですかね?酒飲んで狂う人は、他の時代にもいますし。

私の評価では、孫権はよくわからない人です(笑)何をしたいのかいまいちわからないんで。資質的なものでは、配下を使う(扱う)のは抜群だったのではないでしょうか?自分ができないから人に任すとも言えますが、軍事や戦争はヘタだだから配下に一任するというのが、見受けられます。それも、よくわからないんだけど(爆)
(P900i/FOMA)
9 エロハシ
このトピ、ハチャメチャだなぁヽ(゚∀゚)ノアハハ…(笑)

人事の面では、最高の手腕を発揮してますよね。周瑜から始まり魯粛、呂蒙、陸遜… これ見たら、Σ(;゚Д゚ノ)ノスゴォッってなっちゃいますよね。
確か越賊を傘下に治めたのは彼の代でしたっけ? けっこうやることはやってるんじゃないかと…

ただ酒癖は悪かったみたいですね。「俺の酒は飲めねぇのか!?」系だったみたいですよ(笑)
(P900i/FOMA)
10 天草
陳寿の評価を…

「孫権は魏に対して恥を忍んでへりくだると共に、才能あるものを任用し、計略を重んじるなど越王句践に似た非凡さを備えた人物だった。だからこそ、江南に独立して三国鼎立の一翼を担う事が出来たのだ。
けれども彼の性格は疑い深く、容赦なく人を殺し、その傾向は晩年になるほどひどくなった。戯言を信じてむやみに人を殺した事、跡継ぎを廃したり死を命じたりした事は『先々を見越した謀を残し、子孫をして平和に天下を治めしむ』という『詩経』の趣旨から大きくかけ離れているではないか。子孫の代に衰え、ついに国を覆すに至ったのも、その遠因が孫権にないとは言い切れないのだ」

評価も分かりづらいなぁ(笑)
(PC)
11 しす
確かに孫権の評価と言うのは難しい…。
ただ現代の日本人の感覚で彼を評価しようとしてはいけないのかも。
ただ彼のエピソードにしても伝わってるのが、張昭との子供じみた喧嘩とか、酒癖の悪さとか、諸葛瑾の驢馬の話しとか…
??な話しか、部下を引き立たせるような話しの方がイメージが強い。
しかも神様を殺したことで演義での扱いも三国の一雄でありながら決して高いとは言えない。
ただ当時としては異例の長寿を誇り、トップに居続けたことは一つ評価に値するのかな?という気もするのですが。
(PC)
12
皆様孫権は好きではないようですね!
私は結構好きですが…。
統治する能力は三国一だが、どうも尊大な性格が玉にきず、孫権の印象はそんな風に感じます。
(W11K/au)
13 天草
孫権とは話が少しズレますが(いつもの事?)よく孫策の早死にを悔やむ方が多いですが、私はその前孫堅の早死にを悔やみますね。彼はかなりの良将ではなかったかと。しかもその二人の息子を配下として加えていたら…。いい軍団になってたんじゃないかな?
(PC)
14 大伴
彼等親子は、地盤を固めて基礎を作りましたが……治める為の才となると、違う能力ですからねぇ。戦は二人とも、孫権とは違い、上手だった様ですが。
(F2102V/FOMA)
15 天草
私が思う孫権の良い点は、自分の才能や限界を正直に把握していたんじゃないかと。
その結果、父や兄に比べて才能のない自分は有能な人物を取り上げ、権限を与える事が一番だと考えていたのではないでしょうか?出来もしないのに、自分が一番だと考え、自滅する人は今の世でも沢山いますからね。
(PC)
16 佐奈
はじめまして!私も孫権好きなんで語らせてください。孫権の碧眼は三国志演義の設定なので実際は碧くないです。アジア人でも碧眼はできますよ!実際に日本人で居ました!昔日テレの番組でありました。黒眼の両親からでも碧眼は稀に産まれるそうで、その場合はたいていは片目で確率は10万人に一人とか。両眼だと天文学的な数字の確率まあ、突然変異ですね。
ただ、正史でも孫権の容姿は異相だったとありますから、よほど漢人離れした姿だったのでしょう。
孫策との確執はないと思います。理由は孫策の死で孫権は政務を行わないほど悲しんでましたから
(SH505i2)
17 大伴
抱えこみ過ぎた人の代表は、孔明ですね。

孫権は晩年、太子の後見人に、諸葛恪を推す声が大きかったにも拘わらず、そうはしませんでした。孫権は、恪の才の優れた事を無論、識っていましたから、これによって、彼の人事の妙も解ると思います。彼は適材適所、という言葉を、曹操と同じく、良く理解していたのですね。

尚、姜維も孔明の後継者に選ばれませんでしたが、この姜維と恪という人は、性格の似た所がある様に、私には感じられます。彼等は共に強気の気質で、失敗を恐れない性質です。これが、使われる時には生きても、より慎重な立場を要求される時にマイナスに働くと、そう思われたのではないでしょうか?
二人が能力を認められながら、孫権、孔明それぞれの信用を勝ち得なかった理由だと思います。
(F2102V/FOMA)
18 佐奈
連書きすみません
毒の話しは私も初耳です。でも、このはなしは事実はどうであり晩年の孫権の非道ぶりを拒否してると思いますね。往年の孫権はすばらしい名君でしたから、晩年の失政はかれの老害によるものなので、爺さんになったから狂ったのでなく、毒盛られて変になった、と伝えたほうが良いですよね。私は孫権はやっぱり名君だし君主としては父兄より上ですよ。孫堅も孫策も身奇麗なまま亡くなったので老いて荒めが見えた孫権より幸せですよ。二宮事件で衰退させたなんていうけれども、事件なくても、孫権の死後はめちゃめちゃになったと思います
(SH505i2)
19 天草
佐奈殿、初めまして!以後よろしくお願いします!
それにしても大伴殿との被り方は見事なもので(笑)

さて、私が何度も訴えている、孫権の孫策疎外論は、孫策の死後、孫権の中で大きくなっていったのでは…と考えます。孫策が短期間で雇用した武将は少なくなく、彼らが呉の中でかなりの発言権を持っていたのは恐らく事実でしょうからね。詳しくは実録!江東の小覇王のJの後半に書いてますが、呉建国後に、孫策に帝位を与えていません。

こんな感じですが、皆さんはどう思います?
(PC)
20 大伴
佐奈さんはじめまして。以後も宜しくお願いしますね。

さて、孫権の目の話のついでに、容姿全体について。
彼は、「長上短下(上半身が長く、下半身が短い)」であったとされています。この特徴は、言わば胴長短足です。
胴長短足である人間は、手が下半身の下の方まで届くでしょう。オーバーな表現を用いれば、「手を垂れると膝まで届く」となるやも知れません。
誰かに似ていませんか?


天草説に関しては、正直、可能性がある、という程度ではないかと思います。「A氏を尊敬している」と言いながら、まるで尊敬していない人は沢山いますし、孫権も兄の名声を最大限に利用する為、それを演じた可能性は0では無いと考えます。しかし号の件と、息子の扱いの件の二点では、未だ根拠が薄弱です。もう一つ、事実が欲しいところですね。しかし、掘り下げれば、面白いかも知れませんよ。
(F2102V/FOMA)
21 天草
実は私も気になってあれから、ずっと調べてます。孫策と孫権について。

何か目新しい事実が発覚したら、また紹介しますね。
(PC)
22 しす
孫権の孫策に対する扱いなんですけど、個人的にはやはりコンプレックスみたいのがあったのかなぁ?とは思ってます。
孫策の遺言って結局は言葉的に孫権を立ててはいるものの、事実上中原制覇の野望を封印したに等しい。
遠まわしに「お前じゃ無理だよ」と言われてるようなもんですから。
ま、孫策にそういった意図があったかはともかく、権自身がそう受け止めた可能性もあるのかな?という気はします。
もし自分であれば、自分の才能を認めてくれた兄に感謝するも、フト考えて「アレ?」ってなっていじけると思うw
(PC)
23 天草
もしかしたら、儒教の影響で、兄弟共帝位に就いたらまずいなんて事があるのかな?って考えてます。
もしそれがなければ、孫策から全てを引き継いだ事実、孫策が孫家繁栄の為に尽力した貢献度を考えても、帝号を与えなかったのはどう考えてもおかしい気がするんですけどね。

遡って、兄弟の間で継承が行われた皇帝っていないのかな?
(PC)
24
天草さん、劉弁劉協なんて一応兄弟間で帝位継承が行われましたよね?
関係ないか!
(W11K/au)
25 佐奈
☆天草さん、大伴さんこちらこそ宜しくお願いします!
孫権皇帝擁立後の孫策の扱いの低さに付いては魏を見習ってではないでしょうか?曹操は帝位についてはいませんが太祖武帝と諡してます。『武』は創始者に使われます。父孫堅は武列帝ですね。私も詳しくはしりませんが(笑)呉も同様だと思います。魏の禅譲は過去に例のない事なので。確かに孫策は国の形を作りあげましたが、皇族としての孫家の始まりは孫堅です。それと家督の継き方もは親→子が常識なために、孫策が孫権を後継者に使命しようとした時もかなり反対されました。
(SH505i2)
26 佐奈
字数が足りなくてすみません続き。
そういう事もあり孫紹の扱いも仕方ないのだと思います。それと、呉には世襲制、血族で軍を引き継ぐ事は許されるが、能力のない者は例え名族や血族でも認められないという制度がありました。残念がら孫紹にはそれがなかったから当然ですよね。これらから、孫策に『帝』がつかないから、孫策を疎んじたとは思えません。むしろ、後継争いの種になりそうな孫紹をそのままにしてる事は態偉かったと思います。現に、孫亮は叔父孫静の孫達に帝位からおろされてしまいました。陳寿がセコいだけだと思いますよ
(SH505i2)
27 天草
確かに、孫策に帝号を与えていたなら、孫権の後の後継者問題に、一人余計な候補者が増えるのは間違いないですね。それを考えると授与しない方が正しかったのかも。。。

飛殿の言うとおり、劉弁ー劉協の例がありましたね。その方法は置いといて…(汗)

孫権はなぜ、晩年になって評価を落とすような行動が目に付くようになったのでしょうか?
(PC)
28 しす
孫権の晩年の暴走ですが、個人的見解ではありますが下記のようなことが原因かな?と思ってるのですが。

○早すぎる孫登、孫慮の死による失意。
○魏の司馬一族専横による、家臣達への不信感。
○虞翻、張昭、諸葛瑾ら重臣の死によって孫権自身の発言力が絶対的なものになってしまったこと。

何となく弟秀長死後の秀吉に似てると思うのはわしだけでしょうか?
(PC)
29 趙某
"武"は決して高祖に諡されるわけではありません。武力をよく用い、功績のあった場合につきます。まあ高祖は大抵の場合武力で国を切り開くので"武"がつくことが多いのも事実ですが。
さて皇帝の兄弟相続ですが史記に次のような記述があります。「…高帝(劉邦)は、子孫が後嗣となる規則を設けて、海内を安じられたのです。」これは前漢の文帝が皇太子を立てず兄弟相続を匂わせた際、有司らが諫めた言葉です。つまり漢代から後嗣は子孫にすることが固まったと思われます。
(N900i/FOMA)
30 佐奈
成る程そうだったのですか!そういえば司馬懿は宣帝でしたね。勉強になりました。

晩年の孫権の暴走は高齢からくる劣ろえで混乱し、自暴自棄になったのかもしれません。私もしすさんと同様で、登の死もあったと思います。ただ、重臣の不在は反対に、孫権の君主権が弱くなったと思います。このころは父兄の代の武将は亡くなってますから、孫権はただの爺さんとしか思わなくなってるのでなめられたのでは?
(SH505i2)
31 独眼龍李克用
私が、自分のホムペにひきこもっている間にこんなに白熱していたとは…入れん(T_T)
仕方ないので、趙某さんに補足です。
自分の子に跡を継がせるのは夏王朝からです。それまでは、有力な大臣に跡を継がせていました(例えば堯→舜とか)。夏、殷、周、秦と子に跡を継がす伝統は続いてます(春秋時代の秦は兄弟相続があったけど)。兄弟相続は乱の元なので、王や皇帝に後継ぎがいない場合など限られます。
ちなみに、高祖と呼ばれるのは劉邦だけで、実際には太祖・高皇帝が正しかったと思います。
(P900i/FOMA)
32 趙某
補足ありがとうございます。
たしかに夏王朝の帝啓より王位(帝位)を一族が独占する流れは定まりますが、兄弟相続をしている王は秦以外にもいます。乱れる元として忌むものではありましたが子が幼い場合は弟に位を譲る場合もあったわけです。しかし漢代になると安定した支配力から幼君を立てることができるようになりました。そのこともあって兄弟相続が行なわれなくなったのは漢代以降とみていいと私は考えています。
スレとずれてしまいましたが、晩年の孫権は老齢ゆえの変貌でしょう。それまで理知によって押さえられていた猜疑心、情愛が前面にでてきたのだと思います。
(N900i/FOMA)
33 天草
生きてるうちに世代交代みたいな考えは当時の中華にはなかったのでしょうか?前例は?
そういう人材もいなかったかな?
(PC)
34 独眼龍李克用
生きているうちに世代交代というのはなくもないですが、自分から進んでというのは少ないと思います。基本的にはそんな考えはないですね。禅譲思想が、それに近いですが滅多にないですし。

戦国時代の趙の武霊王という人が、息子の趙何(次男)を自分が生きている間に王にしてます(恵文王)。それで、自分は主父と名乗り、政治にはあまり参加してません。ただし、後に恵文王は主父を殺すということがあります。

それ位しか覚えてないなあ( ̄〜 ̄)ξ
(P900i/FOMA)
35 天草
さすがは李殿!この手の話しなら、右に出るものはいませんね。素早い反応感謝です。

早死にした、孫堅・孫策の分まで生きてた故に後の評価を下げてしまった孫権。。。ある意味かわいそうかも…。
(PC)
36 しす
「呉の不人気について…」スレとも関係があるのでアゲ
(PC)
37 天草
しす殿>スレ上げ感謝!
では、孫権の政治手腕について語りませんか?
彼が行った善政・悪政をご存知の方、意見を下さい。
(PC)
38 郭煕
孫権は外交は兎に角、内政では失敗が多いです。有名なのは人狩りでしょうか。一万人の正規兵の半ばと将軍二人を失ったこの行為は愚かとしか言いようが無い。
外交ですら公孫淵に騙され、斐松之に暗愚暴虐無道と言われています。
呂蒙などの抜擢がある一方で個人的な感情で張昭を丞相にしなかったり陸績や虞翻を左遷したりしています。
まだありますがこの辺で。
(W11K/au)
39 くわぁまん
お!?スレが揚がってますな…。

確か、呉夫人は妹と二人で孫堅に嫁いだはず…。記録には無いけど、孫策、権は異母兄弟かもしれない。
(SH900i/FOMA)
40 郭煕
孫堅呉夫人伝の注を見ると「かつて策を〜今度はまた〜」という話がありますから多分同じですよ。
(W11K/au)
41 智 (お初です)
どうしようにもないねぇー 孫権は。よく、国がもってたもんだね。
人狩りは人口不足を補う上で仕方ないと。張昭と虞翻は讒言がしつこ過ぎた人格も問題だが。
あと、名前忘れたが、ある部下の事の言葉信じてホシツとか、罰してるね。ただ、呉後期は文官が多い中、
公孫淵の件は怒りとはいえ、孫権が攻制があったと見れますな。 晩年は長所が欠点になった。
(N900iS/FOMA)
42 佐奈
・・・。もう、孫権はいいです。これからは、もっと立派な武将を好きになろうと思います。最悪ー!暴君だ。こりゃ。孫紹が後継げばよかったんでしょうね。馬鹿みたい私。
(N252i)
43 郭煕
確かに張昭らは頑固と言えますが、それを受け入れるのが王者の度量ではないでしょうか。性格的に問題なら潘璋や朱カンあたりは刑場のさらし者になりかねません。
孫権の長所は長寿以外に無いと私は思っています。性格は気まぐれで諫言を嫌い、えこ贔屓も甚だしい。ただ、それらの多くが有能だった事は評価するべきかもしれません。
(W11K/au)
44 郭煕
上のコメントを書いている間に佐奈殿のような意見が出てしまったので今度は擁護に(無節操)。
孫権は確かに欠点も多く、三国の中でおそらくトップではないでしょうが、君主としての熱意には確かに溢れており、だからこそ陸遜らが世に出て、呉主伝は事績に満ちているのだと思います。
孫権を暴君としてしまうと明の皇帝はほとんど暴君暗君ですし、そう否定するほどでは無いかと・・・。総合的には充分及第点だと思います。
(W11K/au)
45 くわぁまん
孫権の無能スレばっかり揚がっているので今度は弁護のスレをお願いします。
(SH900i/FOMA)
46 佐奈
唯一の長所、『長寿』のおかげで呉の未来はめちゃめちゃになったので、なにもないでしょう。たんなる運の良いヒト。
劉禅のがまだマシ。賢兄愚弟て言葉がぴったり!
(N252i)
47 くわぁまん
麒麟も老ゆれば駑馬に劣る…。孫権もしかりか…

しかし、何故おかしくなったんだろう?

おかしくなった1番の理由は後継者の件と言われていますが…。何か別の理由があったのでは?
(SH900i/FOMA)
48 ユウキ
孫権の評価が低いのは印象が薄いって事とつながると思うんですけどソウソウやリュウビには奮闘や危機の創業のドラマがあると思うんですでも孫権にはそれが無い。だからリュウビやソウソウと比べるんじゃなくてソウエイやリュウゼンと比べるべきだと思うソウエイだって孔明死んでからはダメになったみたいだしリュウゼンも優れているとは言えないし
(P900i/FOMA)
49 天草
しかし、有能な人材が彼のもとに集まり、そして生涯を通じて忠義を貫いていますから、そんなに悪い人間ではなかったのではないでしょうか?晩年は…置いといて(汗)
孫権を裏切って、呉に半旗を翻した人って誰かいましたっけ?
(N900i/FOMA)
50 しす
前にも書きましたが、長らく呉のトップとして君臨し、国家を維持してきたことは充分に評価に値するのではないかと思うんですがねぇ。
ところで天草殿の言う「呉に叛旗を翻した人」って思いパッと当たらないですよね。
失策の追及を恐れて魏に投降しちゃった香具師とかはいるけど。
(PC)
51
天草さん>孫権をおおいに裏切ったといえば公孫淵などはいかがです?
(W11K/au)
52
↑呉の人でなくてすいませんm(_ _)m

なんだかんだ孫権とは憎めない人だったんでょうね。晩年はともかく。
(W11K/au)
53 くわぁまん
韓当の息子は逃げてますね…
(SH900i/FOMA)
54 天草
くわぁまん殿、そうなんですか!?知らなかった(;^_^A

そうそう!以外と裏切られてないって事は、それだけ素直で人望があったって事じゃないかな?政治のやり方が安定してたのか、それとも派閥がなかったのか…いづれにしても、ここは大いに評価して良い点ではないでしょうか?
(N900i/FOMA)
55 佐奈
孫権本人にはすぐれた能力はないですが、才気に優れた人物に、任せ、起用するという、度量は広い人物ではあると思います。
張昭はその頑固さで蔑ろにされたといわれますが、彼が高齢のため、帰休にもかかわらず、たびたび召されては諫めるという、関係だったといいます。腹は立てても、張昭は必要だと考えていたからだと思います。また、素直という点も確か。

晩年の失敗の一つに、呂壱を信任し多くの臣を無実の罪で罰した事がありました。呂壱の悪事だとしった時、過ちを認め、謝罪したといいます。陸抗にも、泣いて詫びてます。
(N252i)
56 佐奈
連レスですみません。 孫権は頭に血がのぼりやすい反面、己を知る事を知っていたようで、本人の酒乱癖のにも、酔っている自分の言葉は信じるなと、常に言っていたそうです。そういう面あったらこそ、孫策の後、誰もが離れずにすんだのでしょう。
晩年はそれらが衰え、好し悪し、考えず、ほいほい讒言を鵜呑みにし、結果沢山の将を失いはしましたが。
先日はかなりショックでしたが冷静にがんがえたら、一番等身大な人物だなと思いました。欠点がわかりやすくて。
(N252i)
57 天草
孫権だって、誉めるべきところはいくらでもありますし、佐奈殿もファンのままでいても、何ら恥じる事のない人物だと思いますよ☆

部下を信用し、まわりも納得のいくだけの人事や政治を行なったことは、むしろ一部の人間を特別視し、その私怨のために多くの犠牲や裏切りを出した劉備より優れていたのでは…とも考えられますよね!
(N900i/FOMA)
58 郭煕
前に私は長寿だけが取り柄と言いましたが、君主制において長期に渡って在位するのはそれだけで安定しますから。評価に値します。
ところで孫権の晩年の評価は芳しくないですが、私は比較的評価しているんです。張休や陸遜らの悲劇はともかく、曹操の死後に起こったような身内の争いを生前に防いだわけですから。また、前半のような大規模な戦いが242年以降見受けられません。呉を私物化した孫峻と孫チン、そして孫皓こそ滅亡の要因だと思いますがいかがでしょうか。
(W11K/au)
59 天草
あえてまた批判するなら、そういった同族で無能な人間を重用したことが、最大の汚点だったのかも知れないですね。

さて、何度か話題にも出ている張昭と孫権の仲ですが、皆さんは不仲と思いますか?それとも信頼あっての衝突だと思いますか?
(PC)
60 独眼龍李克用
>>59
どちらもあるのではないかと。信頼関係は、あったと思います。

ちょっと気になったのですが、孫権の長女はどんなのだったんですか?孫魯班(字が大虎らしい…)というらしいですが、天草さん調べてください(他人任せですいません)
(P900i/FOMA)
61
はて、孫権の身内の人間で重用した人物とは、どなたですかな?

孫峻と孫チンはようやく、後継者が孫亮に落ち着いたのに、格を殺害し、廃帝させ、ますます乱させた、悪人ですな。ちなみ、孫静の孫。孫亮は幼かったが聡明だったらしい嫌がらせを見破った程。

張昭は尊敬はしてたが、うるさかったんだろう。憎ければ遠ざけていただろうに。
(N900iS/FOMA)
62 天草
李殿>あまり詳しくないので、コピペで失礼。ここに収まるかな?

三国志における最強の悪女。
孫魯班は正史など文献で登場するのは全公主という名前が多い。
孫権の娘で全jの妻(全公主というのはこのため)である。
元々の災いは年老いた孫権の優柔不断なところにあったのだが、孫魯班の母・歩夫人は孫権の寵愛を受けており、宮中では皇后と呼ばれていた。
実際に孫権も歩夫人を皇后にしたかったのだが、太子である孫登の母・徐夫人がいたため不可能だった。
そうこうするうちに孫登が病死し、孫権は太子の孫和と孫覇の身分の違いを明確にしなかった。
結局これが原因で後継ぎ争いが始まったのだが、孫和の母・王夫人と孫魯班は仲が悪かった。
魯班の母・歩夫人と王夫人がライバル関係だったからだと思われる。
魯班は当然ながら魯王・孫覇についてしまった。
まず魯班は王夫人の悪口を孫権に吹き込み、王夫人を皇后にさせなかった。
そのことを孫和が恨んでいるのではないかと思い孫和の失脚を図り、病に伏した孫権にあることないこと吹き込んだ。
孫権は信じ込んでおおいに怒り、王夫人は憂死、孫和は疎んじられ、孫亮がかわいがられた。
魯班は夫の従兄の娘を孫亮の妻とし、自分の地位の安泰を図った。
その後、孫峻が実権を握ると、親戚関係にあった魯班にとっては力強かった。
孫峻は皇族で「魯班の夫の従兄の妻の弟」である。
孫峻の傲慢な政治により呉の民の恨みを買っていたが暗殺計画は2度も失敗した。
その2度目に魯班は妹・魯育を処刑している。
孫和を太子からおろすことに反対したのを根に持っていたのである。
このことを孫亮に問いただされ、魯育の義理の子に罪をなすりつけ殺した。

その後実権を握った孫リンは魯班を遠ざけた。
そのため、魯班は孫亮らと結託し孫リン暗殺計画を立てた。
しかし孫峻の姉(魯班の夫の従兄の妻)から計画がばれて孫亮は廃位、魯班は流された。
その後は歴史から名が消えている。

孫魯班は自分の伝がないため、いろいろなところで目にする。
それだけ影響が大きい人物でもあったのだ。

長文失礼!
(PC)
63 佐奈
補足です。魯班は、はじめ周兪の子周循に嫁いだが、周循が早死にしたため、未亡人となりました。気の毒に思った孫権は全ソウに嫁がせ、全公主と呼ばれるようになりました。
孫和と対立したのは、孫覇。和と生母が同じで同時に寵愛を受けたので、和を太子にたてると、覇を魯王に封じました。しかし、二人の待遇は同じだっため、太子と区別をつけるべきと、臣下の意見で、同室だったのを別々の宮殿に分けたことから側近たちの対立から派閥抗争になりました。
(N252i)
64 独眼龍李克用
おお〜、二人とも感謝です。
魯班は、結構重要な人間だったんですね。知らなかった(; -_-)
(P900i/FOMA)
65 くわぁまん
ここに入れて良いのか…

キ覧と戴員のおけべ反乱もありましたね。
(SH900i/FOMA)
66 天草
ずばり、皆さんが考える呉滅亡の一級戦犯は誰ですか?
(PC)
67 ユウキ
ソンコウ、シンコン、ソントウの早世かな
(P900i/FOMA)
68 天草
最近、孫権を擁護する方が増えてますから、このスレをageるのも一興ですな。

孫権人格否定派の意見も待ってます♪
(PC)
69 天草
私から一つ実例を…。

215年、合肥攻撃に従軍し、命を落とした陳武を哀れみ、孫権は愛妾たちを殉死させたとあります。

これって酷いですよね。。。
残された家族を厚遇した話なら良く聞きますが、これには驚きました。

当時の中国(三国志以前を含めて)こういう風習はあったのでしょうか?
人材を愛していたと言ってもこれはやりすぎの感は否めません。
(PC)
70 さくら
残酷な話ですが、日本でも王がなくなった場合、奴隷かなんか男女生きたまま、一緒に埋めてましたよね。それと、同じなのではないでしょうか?陳武の戦死はかなり惜しまれてたので、良い意味で殉死させたのでは、中国は日本以上に女性の扱い低いから、感じ悪いですが。
夏侯尚は正室が曹家の血縁だったのに、側室(愛妾?)の方を寵愛したばかり、曹丕に殺されて、ショックで痴呆性で亡くなってしまったよりはりマシかと。
(N900iS/FOMA)
71 しす
これも>>>67に関連してage
(PC)
72 天草
孫権に限らず、孫策・孫堅と孫三代はいずれも戦場に自ら赴くイメージがありますが、政治手腕はどうだったのでしょうか?

父や兄に比べて、政治に関して残されているであろう孫権の政治能力が分かるものをどなたか見つける事ができますか?
(N900i/FOMA)
73 ナナホッシー
関羽のスレで外交権の話がありますが、孫家に関しても大都督はかなりの権限が与えられ、また領土統治も各領主に任せていた部分が多そうです。
呉が豪族の集合政権だからなのでしょうが、これでは孫権の実績が残りにくいですね。

主な実績は異民族政策になりそうです。
(W21S/au)
74 くわぁまん
どこかのレスで書いたかなぁ?

謹兄ちゃんは孫策でなく孫権に仕官したのは何か謎を解く鍵になりそーですね。
(F901iC/FOMA)
75 天草
古スレage祭り

孫権が孫策に帝位を与えなかった件について、もう一度問題視!

孫策は全てを弟に任せたので、何も思ってなかったのでしょうが、孫権はどうなんでしょ?
(PC)
76 天草
呉応援age

>>75について意見求む
(N902i/FOMA)
77 朱家
陳寿は、孫策の子孫紹の爵位が低く、道義を欠くと言ってるけど、王位は追尊だし、呉侯は孫策が漢(曹操)から与えられた由緒ある爵位だと思うのですが…
孫権がまともに王としたのは、孫覇だけで、最晩年に孫休とかを王にしてるけど、孫亮が若いがゆえの皇族強化だと思うし、寵愛してた孫慮、孫和(太子以前)でも王にしてないし、王位に抵抗というか、こだわりがあるように思います。孫覇の王位も、こだわりで失敗したように思いますしね。
他と比較して、孫紹の爵位は妥当だと思うし、陳寿の批評が正しいとは思えませんが…
(PC)
78
私はやっぱり後継者問題をハッキリさせるため、というのが、孫策に帝位を与えなかった理由としては一番しっくりする気がしますが。ただ、兄弟二人揃って皇帝を名乗るのを遠慮した、というのもありかと。
そういえば、孫権の代から登用された武将達って、誰が斡旋したんでしょう。諸葛勤や周喩かな。
(P902i/FOMA)
79 天草
日本人の美学から言えば、もし孫権が孫策の血筋を後継ぎにしていれば、間違いなく絶賛だったんでしょうね。
しかしあくまでも、我が子と甥。まぁ普通に考えれば仕方がないことでしょう。

私はやはり陳寿の評価に賛成です。
>>77の言い分もなるほど!と思いましたが、逆に考えれば、漢の爵位止まりだったという事ですよね?

このままなら、呉という国の流れは…
孫堅→孫権
であったという事になりますし。

孫策が孫権を後継ぎにしたのは自然の流れだと思いますが、孫策にはやはり遡って帝位を与えた方が、後の孫権の評価を考えても妥当だった気がします。
(N902i/FOMA)
80
彼が仲が悪かった(遠ざけた)人と言えば張昭・陸遜等が浮かびますが反対に蒋欽や周泰わ異常な程に重用されています肉体派の武人好きなのか自分より頭が良い能吏が嫌いだったんですかね?
(EZ)
81 赤龍
>>80
陸遜については、孫権の晩年の後継者問題に根ざしたもめごと(二宮事件)で孫権との関係が悪化しただけであり、それまでは陸遜を特別疎んじていたわけではないと思いますが、どうなのでしょうか?
(PC)
82 しす
微妙に話がズレますが…
私も何度か発言してますがやはり>>81で赤龍さんが述べられている後継者問題こそが、彼の不人気の決定的な理由なんでしょうね。
そういえば彼は晩年に王表なる「姿見えぬ神」に傾倒した挙げ句にトンズラされてますが、意外に取り沙汰されてませんよね。
そういえば彼の周りでは他にも仙人やら呪い師などのエピソードが多い気がするのですが…。
(PC)