1 小龍

太史慈スレ

英雄と謡われる割りには、イマイチ話題に上がらない彼をみなさんはどう思ってますか?
私はこのホムペで孫策との一騎打ちや降伏の内容を知りましたが、もっと彼の事を知りたいと思ってます。
(N900i/FOMA)
2 天草
太史慈1
太史慈2
太史慈3

私は太史慈は呉の臣家というよりも、孫家に加担した群雄という位置づけだったのでは…と思ってます。
その証拠に劉ヨウや士燮などと同等に伝が立っているのです。つまり周瑜や呂粛や周泰らとは全くの別格で取り扱われているわけですね。
(PC)
3 小龍
そうだったのか…(>_<)
上の文を見る限り、晩成型の武将だったのかな?
長生きしたんでしょうか?
(N900i/FOMA)
4 大伴
太史慈の没年と享年は、このサイトの人物辞典にも書かれていますよ。

尚、このサイトでの年齢は、常に数え年である事に注意。
(F2102V/FOMA)
5 小龍
( ̄□ ̄;)!!
すいません、確かに書かれてましたね。赤壁の前に死んでたのか…。
彼の性格について、正史に記載はないんですかね?
(N900i/FOMA)
6 大伴
孔融の為に劉備への使者に立ったり、孫策の信用に応えて約束の期日までに帰ってきたりと、義理堅い人物であった事は間違いありません。
又、東莱郡の曹奏史であった頃(太史慈二十一歳の時)は、郡と青州の争いで、州の使者から上章を奪い取っていますから、言葉も巧みだった様です。

人材マニアの曹操も、彼を欲しがったと云います。
(F2102V/FOMA)
7 小龍
曹操のとこにいたら、出世して、今以上に名が残ってたかも知れませんね。
(N900i/FOMA)
8 しす
むしろ曹操の下でには勇将、猛将多いからかえって目立たないような気がするのですが…。
(PC)
9 大伴
孔明が徐庶の消息を聞き、「魏には人が多い様だ」と謂ったそうです。きっと事実、魏には、有能な人が多くいたのでしょう。から、太史慈も、徐庶と同じだったかも知れませんね。
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10 佐奈
太史慈は志をとげないまま死ぬ事を嘆いたといいますから、孫家への忠誠は確かです。孫権は息子の太史享を自分の館で教育したのは期待していたからでしょうね。もう少し生きて欲しかったですね
(SH505i2)
11 天草
呉書・太史慈伝の注釈で、太史慈は臨終の際に
「男として生まれたからには七尺の剣を引っさげて天子の位に登るべきなのに、その志を得ぬまま死ぬのか」
と嘆息したと書かれてます。

私は逆に、孫家への忠義ではなく、大きな野望を臨終の間際まで抱えていたのではないか?と思います。

太史慈が普通の忠臣なら、各国の群雄たちと並んで伝が立っている事が、不自然ではないでしょうか?
(PC)
12 天草
話題にのぼったので上げ
(PC)
13 李克用
age
(P900i/FOMA)
14 赤龍
私も太史慈の伝が、劉ヨウ、士燮と並んで立てられ、他の呉の臣とは別の扱いを受けている点に注目しています。これは何を意味しているのか?陳寿はその理由について何も語っていませんし。皆様はどう思われます。
(PC)
15 天草
私は、太史慈は群雄扱いされていたと思ってます。

もしかすると、孫策に懐柔されただけなのかも?

板違いですが、馬超もそうだったのでは…と感じてます。
(N900i/FOMA)
16 赤龍
また、演義での武人としての印象が強いですが、天草さんが人物伝で指摘しているように、「若い頃から学問を好み」とあり、文官としてスタートし、当時一流の名士である孔融が、わざわざ太史慈の母の世話をしています。ここまでは、文人的要素が強いものの、その後一転して武人としての活躍が続いています。しかし、その後も「青州の名士」とか「天下の智士」と称されるなど、単なる武人でない事がうかがえます。かと思えば、劉ヨウは「許子将に笑われる」と彼を抜擢することをためらう。彼の本分、立場、評価はどのようなものだったのか?色々と疑問が浮かびます。
(PC)
17 赤龍
書くのとろいんで、間に入られてしまった(笑)
>>15
しかし、馬超なんかは普通に蜀の武臣として伝を立てられてますね。私は、太史慈の伝について、劉ヨウとの関係を重視した。もしくは、劉ヨウ没落後、別行動をとり、一時的に独立勢力として孫策と対峙したことを重視し、孫氏に敗れ、従った江南地域の勢力として扱った。というような理由を考えています。まだ自分でも悩んでいると子ですが。
(PC)
18 赤龍
天草さんのブログで取り上げられたので。
太史慈の伝の位置については、歴代の学者も問題に感じているようです。『三国志集解』ではその一つとして「太史慈は、劉ヨウの将であることから、連ねてその後に伝が書かれた。(他の呉臣の)諸伝は、本々の呉の臣僚。ただ太史慈のみ本は敵臣。そのため、ここに附されたのである」という説明が紹介されてます。一見もっともらしいですが、でも甘寧も敵将じゃあ?潘濬は?といったつっこみがはいりますよね。
(PC)
19 くわぁまん
アッシが思うに、大史慈は親蜀派に見られたのではないでしょうか?

劉備との出会いは孫策に会うより先、北海の孔融の所に母親が保護されてた時まで遡りますからね。

アッシは今でも思います。もしあの時、大史慈が劉備陣営に加わっていればと…。五虎将軍は六虎将軍となり蜀の未来は少しは変わったのではないですかね…。
(F901iC/FOMA)
20 しす
私が思うに、まず
○孫家に降ってからの活躍がほとんどないこと。
>>15で赤龍殿が触れられているように、一時的とは言え、独立勢力として台頭したこと。
○帰順ではなく、敵対し降伏して臣下に加わったこと。

そういえば呉って「降伏」という形で臣従した人ってあまりいませんよね…たぶん。
(PC)
21 ストラップ
「射に精妙だった‥‥‥賊の手を矢で梁に縫い付けた」と、劉繇太史慈士燮伝第四にありますが、これの説明として、「臂(ひじ)が長く」とあるのは疑わしいですね。

久しぶりに>>>79見たのでageます。
誰か>>>7-3にある神亭の戦いで図書館に投稿しませんか?
(PC)
22 天草
孫権軍における太史慈の立場が気になりました。

張コウやカクのスレで降将の立場の難しさは、想像しやすいのですが、彼の場合はどうだったのでしょう?
(N902i/FOMA)
23 ストラップ
太史慈の死は>>2-5にもありますね。
合肥の戦いで張遼に殺されたとするのは、三国志演義の創作ですね。

文脈のわからない方は
http://359kk.nobody.jp/tuusinn.html
の登録を。
(PC)
24 元歎
呉書第四に劉ヨウや士燮の伝とともに太史慈伝が収められた理由…『名士でかつ孫家に対抗しその後実質的に服従した』という条件に当て嵌まるからではないでしょうか? 今パッと思いついたことなんで確かめてはないですが、この条件に当て嵌まるのは三人だけなのでは…と思います。名士なのに武力に頼り頼って対抗した(士燮はどうだっけ?)、という点では珍しいでしょうし…

どこかで書いたような気もしますが、太史慈は実質的に孫家に服従していたとはいえ、対外的には孫家の協力者だったんじゃないかと考えてます。孫家というのは、とにかく家柄が悪いし、良い噂もないし、そんな孫家に太史慈が臣従したとなれば、太史慈の名士としての格がかなり落ちると思うんです。太史慈の名声を活用するために、同盟者として働いてたんじゃないかと。周瑜は明らかに臣従してますが、周瑜の名声の基盤は揚州。太史慈は青州。太史慈のような北来名士はほとんど同盟者の扱いで、例えば孫家が青州を制圧した時になって初めて、太史慈は孫家の顔で青州を統治するために、対外的(つまり、ここでは青州民に対して)にも臣従すると。それまでは、役立つかもしれないから協力者。張紘も協力者の体裁だったから、孫策の死の時、孫家を攻めようとする曹操を止めることができたんじゃないかと…。
(PC)
25 天草
>>24

あれ?太史慈は名士でしたっけ?
手元に資料がないので、分かりませんが、出自や家柄を理由に許子将は彼を徴用する事に反対したという記述がなかったですかね?
(N902i/FOMA)
26 元歎
ええ、名士ですよ。孔融と親交ありましたしね。多分、孔融から人物評価されてたと思います。まあ、孔融は変わり者ですが(笑)

劉ヨウが『太史慈を重用したら許劭に笑われないか?』と心配したことですね。
これは、太史慈の若い頃の上章破り事件を許劭が快く思ってなかったからだと思います。
劉ヨウ勢力で、一番格が高いのは許劭ですから、いつも許劭のことを気にしてたんでしょうね…。
(PC)
27 巫俊(ふしゅん)
許劭って、劉ヨウの楊州に在住してたんですか(−−)。o〇ZZZ
今度コーエーの三国志で遊ぶときは劉ヨウでプレイして許劭を軍師にせねば(笑)
寝る前レスでした♪

そーだ、太史慈というか孫呉の名族のことですけど、なんか名族ってのは、子孫の繁栄のためにも、武力のある軍閥や強力な皇帝権力など、名族の繁栄からすると一見危険そうな勢力と共存関係にあることが中世中国の時代の流れだそうです。

つまり、名族とは君主権力や軍閥の支配と共存し、相互に足りないものを補いあうことで、名族自身が手を汚さなくとも繁栄を享受できるという考え方らしく。
太史慈の場合も応用できるかもしれませんね。
(PC)
28 天草
う〜ん…
>>26
太史慈を名士とするには、ちょっと納得のいかない説明ですね。
少なくとも私の思う太史慈像とはかけ離れてます。

相変わらず出先ですから、調べる事は出来ませんが(苦笑)、確か孔融とは地元ではなく、逃亡先で出会ったんじゃなかったかな?
母と知り合いだったのは誰だっけ?(;^_^A

うろ覚えで申し訳ないですm(__)m
他にも彼を名士だと思う方がいたら、私を納得させて下さい。
(N902i/FOMA)
29 元歎
>>24
訂正^^;
太史慈が劉ヨウたちと同じ巻の理由…『名士でかつ孫家に対抗した』ですね。劉ヨウは臣従してない!とさっき気付きました^^;

>>28
すいません、文章が下手で…(汗)

太史慈伝に『(太史慈は)仕郡奏曹史.…慈年二十一,』とあります。21歳より前に役職に就くなんていうのは、まず名族か豪族の出身です。そして、孔融を救援に行く時、『單歩徑至都昌.』とあるように、一人徒歩で行ってるんです。ということは、族的(豪族)勢力を当てにしていない(名士か否かの目安の一つ)、あるいは族的勢力がないということです。他の太史慈伝の部分を見ても、族的勢力に頼ってないんです。また、《呉歴》には孫策が『太史子義,青州名士,』と言ったとありますし、《江表伝》には『天下智士也』と言っています。
それで、太史慈は名士だと考えます。
(PC)
30 巫俊(ふしゅん)
後付け設定で、呉の時代に名士ということにされたってことはないですよね?
いえ、私には全然及ばないところですが。
(PC)
31 赤龍
>>29
孔融救援に一人で行ったというのを名士とする根拠にあげるのはどうでしょうか?
これでは、ただ単に軍勢を集めるだけの実力も名声もなかったからともとれてしまいます。これでは、まず結論ありきの理由にしかならないんじゃないでしょうか?
もっとも、この場合は名士云々をおいといて、半端な軍勢を集めても包囲する賊軍にみつかり戦闘になり蹴散らされるのがおち。一人だったからこそ、包囲のゆるいうちに闇にまぎれて進入できた。結果的には正しい行動だったといえるでしょう。もっとも、そこまで計算してたかは不明ですが(笑)
(PC)
32 赤龍
ちなみに、私は太史慈自身は名士とみなされていたと思ってますよ。
問題としてるのはその根拠のあげかたということです。
(PC)
33 元歎
>>31
なるほど、そうですね…。

ただ、これは前文の『まず名族か豪族の出身』をうけていて、名士でないなら族的勢力を何らかの形で利用することを気にしないだろうと思ったわけです。
(PC)
34 赤龍
>>33
まず、豪族だとしてもその力はピンからキリまで。しかも、その家の中の立場にもよります。
この場合も、たとえ本来の家柄はそこそこ、庶民以上だったとしても、単に軍を集める力がなかっただけとも考えられます。
また、仮に名士だとして、このような危急の際に一族勢力の力を利用することは、本当に一般的にするべきでないことと思われているのでしょうか?
>>29でいう「名士が族的勢力をあてにしない」というのは、族的勢力を基盤とし自家の財産・勢力を伸ばそうという行為を(建前・表面的なものにしろ)を行なわず(つまり横暴な領主様にならない)、人々の声望を集めていくということではないでしょうか?
それによって、いざ危急の際にはその声望により多くの人を動かしている様は、むしろよく見られると思います。そうした力が、群雄が名士を取り込もうとした一因ですよね。
太史慈の場合には、結局個人的武勇・智略と、劉備の援軍に頼るしかなかった。つまり、当時の彼には単に軍を集める力が無かったと考えた方が妥当ではないでしょうか。
(PC)
35 天草
太史慈には成り上がりの好印象を持っていたのですが、元歎サンの書き込みを見る限り、名士である可能性の方が高そうですね。

確かに一介の役人を曹操が欲しがるなんて話しも不自然ですし、良く考えればそうなのかな?って感じですね。
(N902i/FOMA)
36 玄龍
はじめまして
太史慈のファンなので、こんなに熱く語っているのを見て思わずカキコミました。
第一印象はカッチョエエ名前だなー、だけだったんですけどね…
(V604SH)
37 巫俊(ふしゅん)
太史慈は呉のファンに限らず各ファン層から人気のある部将ですよね。
周泰あたりとの人気ランクの違いはそこら辺にあるような気がします^^
青州時代の劉備の近くにもいたし、義に厚かったりと、割りとライトユーザーから人気を得るタイプでしょうか。
(PC)
38 玄龍
小学校の頃「横山光輝三国志」で知ったんですけどね。
太史慈は名士というより「街の有能なお兄さん」だと思いますよ。もし名士なら父親の名前がでてきてもおかしくないのに、家族構成は母だけだし、その母も孔融のお世話になっているということは財力もたかが知れていると。
なにより名士なら体裁を気にして犯罪紛いの騒ぎは起こさないのでは(曹操はヤンチャしてましたが)?
母の恩義の為に命を懸ける男が母を残して家まで没落させるとは考えにくいと思うのです。
(V604SH)
39 天草
>>38
玄龍サン、よろしくお願いしますm(__)m

私も名士ではないと考えてましたが、ここまでのやりとりを見るかぎり、少し体勢不利ですね(笑)

名士云々にかかわらず、太史慈にカリスマ性があった事は、まず間違いないでしょう。
一介の一武将が敗戦後とはいえ、一度は独立してるわけですから、多くの人達が賛同しているのでしょうからね。
しかも太史慈の場合、それまであまり重用されてなかった事を考えれば、まさにポストではなく人間として魅力があったと言えるかも知れませんね。
(N902i/FOMA)
40 玄龍
天草さん、同感です。太史慈という武将自身に魅力があるのでしょう。
それ以外にも太史慈の実績があってのことだと思います。ゲームなどでも「演義」をベースにしているせいか、武芸一辺倒になっていますが、知略や統率にもずっと優れているはずだと。
(V604SH)
41 孫伯麗(みらう)
こんにちは
こちらの話も興味ありです
例によってネタを揃えてから出なおしてきます
(P700i/FOMA)
42 玄龍
孫策、権スレに便乗して…

太史慈が対劉表の守備についたとき、揉め事は無かったのでしょうか?
太史慈の死後、程普が後任になったように、かなり重要なポストだったはずです。降将である太史慈が任命されたとき、程普や韓当、黄蓋の反応が気になって仕方が無いのですが…
(V604SH)
43 皇澪桜
話題にあがったので上げます
(W21CA/au)
44 巫俊(ふしゅん)
>>>94
太史慈が一万の兵を統率したという記録も存在しないですし、孫策に従属した後の太史慈の官位は門下督であり、劉ヨウが急死した後の豫章郡の反抗的な勢力を孫策側へ帰参させたのは太史慈ですが、帰参した兵力を太史慈が管掌したという記録もありません。

その後太史慈は豫章郡の中から新設された建昌都尉(数県の軍事的指導職)に就官していて、赤壁の戦いの起こるずっと以前に死んでいます。

建昌都尉が孫策側勢力の西南を守る要衝であったとはいえ、六県ほどを預かる職責では豫章郡の降兵の多くを預かってはいなかったでしょうに。
(PC)
45 巫俊(ふしゅん)
94ではなく
>>>493
です。
(PC)
46 玄龍
久々にカキコします。


太史慈の略歴を見ると、劉ヨウの下に行くとき、「身を寄せた」とか「目通りした」という表記がよくあります。
太史慈は正式に仕官していないのでしょうか?
正史ではどのように記されているか、ご存知の方いらっしゃいませんか?
(841SH/SB)