1 天草

実録!荊州逃亡劇

9・1からスタートしました。今回は人気の高い『長坂の戦い』がメインになると思われます。
(PC)
2 天草
二日でいきなり4回分をアップしましたが、私が気になったのはCにある徐庶の劉備軍における立場です。もしかしたら、もともと劉備軍の配下武将じゃなかったのではないでしょうか?
(PC)
3 大伴
草ろ対にもう少しスペースを割くかと思っていたのですが……三顧の礼は、独立シリーズの予定なのかな?

私は別スレッドで何度も書きましたが、三顧の礼と、孔明が最初は、己から劉備に会いに往ったとする説は、背反しないと思っているのですが……
(F2102V/FOMA)
4 天草
悩みましたが、討論場で何度も出てるので、三顧の礼に関する記述は省かせてもらいました。すいません。

背反しないという言葉が難しくて(笑)分からないのですが、信じていない(三顧の礼はなかった)ということですか?
(PC)
5 大伴
背反とは撞着という意味です。

複数の事柄が並び立たない事をこういいます。


つまり、孔明が自ら出向いた後に、三顧の礼があった、と、私は考えているのです。
(F2102V/FOMA)
6 天草
なるほど。
確かにそれならありえるかも知れないですね。

実際にあっていたなら、本当の実力の分からない人間のために三度足を運んだというより、現実的ですね。
(PC)
7 天草
そういえば。。。

諸葛亮スレで思い出したので、連カキします。

三顧の礼の後の記述で、
『劉備と諸葛亮の交情は日ごとに密になり、関羽や張飛はこれに対して、不満を漏らしていたが…』
と書いてますが、これは蜀書・諸葛亮伝の引用です。ここで私がまさか?と思いながら、調べた言葉があります。『交情』です。

辞書をひいたら、
1 交際している相手に対する親しみの情。
2 男女が情をかわすこと。

と出てきました。
まさか…と思いますが、同人ホムペの方が喜ぶような間だったのでは…。

((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

どう思います?私の劉備像・諸葛亮像を壊さない為にも反論願います(笑)
(PC)
8 大伴
「交情」とは友情とも同義に使われる言葉(「一死一生乃知交情」などと云います)ですから、問題無いのでは?交際は、男女交際の様な、愛欲の関係だけとは限りませんし、気にする事は無いでしょう。
これがもし、「情交」であったならば、可能性は高いのですが。
(F2102V/FOMA)
9 天草
フォローありがとうございます。安心しました。

さて、冒頭で話しました、徐庶は本当は劉備配下ではなかったのでは…という考えですが、後々の調査で誤りである事を確認しました。間違いなく劉備配下として存在していたようです。混乱させてすいません。この内容に関する実録シリーズの記述を全て書き換えました。
(PC)
10 天草
ところで…H長坂の戦いの最後にアップさせた趙雲像見ました?カッコイイ!!

長坂も行ってみたいですね♪
(PC)
11 天草
取り急ぎ、終わらせました。
意見や議題がありましたら、お願いします。
(PC)
12 小龍
長坂に限らず、益州に入るまで、劉備は逃げてばかりいますよね?
敵は大軍だったんでしょうから、仕方ないかもしれませんが、戦うという選択はなかったのかな?
(N900i/FOMA)
13 天草
やはり、それだけ曹操軍の大軍が、相手にならないくらいの数だったのではないでしょうか?特にこの長坂に関しては…。
これが逆(曹操が侵攻を受ける立場)なら、もしかすると奇策で対応してたかもしれませんね。
(PC)
14 ストラップ
(F2102V/FOMA)
15 無問題
自分が疑問なのが、逃亡する前劉備が劉宗のもとに立ち寄ったとき、孔明が劉備に『劉宗を追い払えば荊州をてに入れられます』と進言した事です。逃亡する身で兵力もそんなにないのに何故そのような事をいったのでしょうかね?劉備の軍勢はけっこう多かったとも受け取れるますよね
(W32SA/au)
16 赤龍
>>15
その直後に、襄陽を通過した際に「劉ソウの側近や荊州の人々は多く先主に帰順した」とあります。
このことから、荊州において劉備の影響力は結構あったこと、劉備を支持するもの、劉ソウ(及びその周囲)の判断を不服とするものが相当いたことが推測できます。くわえて劉表の死による混乱。
こうしたことから、荊州をのっとり、支配することもできると判断したのだと思います。
(PC)
17 赤龍
ちなみに、正史注の『魏書』に見える劉表が劉備に荊州を任せようとする話。裴松之はありえないと言ってますが、同時代の劉備や孫策の遺言と同種なものとは見れないでしょうか?相手が辞退することをみこした「お前を頼りにしてる」つまり「我が子を頼む」というような意味で。そう考えると、これに近いやりとりがあったというのも、ありえない話ではないと思います。
で、それを持ち出して、劉備が荊州を奪い取る名分とできると考えたのかもしれませんね。
後に、いざ自分が同じ立場になった時におんなじような事を言ってくる人がいましたが、そのとき孔明はどう思ったんでしょうね(笑)
(PC)
18 無問題
赤龍さん、お久しぶりです。なるほど…、孔明はそこで荊州を劉宗から奪い取れる可能性が高いと見たわけですね。しかし、この劉備のいざというときに優柔不断になる姿勢がきらいですね…。今更聖人ぶりやがって感じですもん(悪)それとも、荊州を盗ってもまとめきる自信がなかったとか…。孔明に心中に関しては謎ですね…。梁父シ(漢字が…)を口ずさんでいることから個人的にはけっこう腹ぐろい青年だったのかなと思ってます。まあ、参考はあくまでハイショウシの注ですからあまり信用ならないかも…。
(W32SA/au)
19 天草
>>17
納得させられました!!
確かにその通りですね。

劉備臨終の際、孔明に後事を託された際、この時のことを思い出したかもしれませんね。
そうなると、嫌味にも聞こえ、さらに自分が矢面に立つわけにはいかなくなるわけで…もしかすると劉備の方が諸葛亮よりも計算高いのかもしれませんねw
(PC)
20 元歎
>>17
うーん…この時劉表政権は蔡瑁とかカイ越に頼ってて(というか牛耳られてた?)、その蔡瑁が(多分カイ越も)劉ソウを推しているのに、劉表が劉キ派の劉備にそんなこと言えるでしょうか? 劉表の側近(蔡瑁派で固められていたはず)が蔡瑁に伝えれば、劉表政権は崩壊する可能性だってあります。そんなことを劉表がするとは思えません。

諸葛亮が「劉ソウから荊州を奪え」と進言したことについては、「諸葛亮が蔡瑁の親戚」ということで蔡瑁・カイ越らを納得させられると思ったのが諸葛亮であり、できないと思ったのが劉備なのではないでしょうか。
(PC)
21 赤龍
劉備が劉キを後継者に推してたというのは演義の話で、正史では特に後継者問題に口を挟んではなかったように記憶してます。劉キが諸葛亮に相談しに行ったときも、諸葛亮は最初断りつづけてたというように、むしろ表立って劉キ派と取られないよう注意していたように思えます。江夏に劉キを派遣するという策にしても、劉ソウ派としても望むとこであり、刺激することのないものです。
また、劉ソウ派が劉備を「劉キ派という理由」で警戒したという記述もありませんし。
明確に劉キ支持の姿勢を見せたのは、劉表死後の劉ソウ派との決裂以後のことではないでしょうか?
(PC)
22 赤龍
仮に劉キよりの立場で、劉ソウ派の連中との不和があったとしても、だからこそよけい、劉備に「信頼しているからよろしく頼む」というメッセージを送り、共に劉ソウを助けてもらわねばならないとは考えれないでしょうか?実際、前述のように劉ソウより劉備を選んだ人が結構いたわけですから。

ちなみに、劉備軍は降服決定の際に無視されてたくらいですから、いくら血縁があっても、いまさら蔡瑁を説得できるほどの影響力なんて無かったと思います。
(PC)
23 元歎
いえ、劉備は劉キ派です。劉備は博望で夏侯惇・于禁を撃退したりして荊州における影響力は大きかったのに、蔡瑁派・劉キ派どちらも取り込みを図ろうとしないことはないので(劉表の付近は蔡瑁派で固められていたとしても、地方では劉キ派がまだまだ健在)、劉備はどちらかに属していたでしょう。そして、蔡瑁の劉備暗殺未遂があります。このことから(劉表生存時から)劉備は劉キ派だと思います。

劉ソウではなく劉備を選んだ人たちは、劉キ派の豪族たちであり、諸葛亮の人脈による人々もいたと思います。

ええ、だから劉備は逃げることを優先したんだと思います。諸葛亮は血縁関係ということにくわえて、自身が豪族・名士であること、また、自分の才能にも自信を持っており、これらのことから説得できると考えたのかもしれません。
(PC)
24 赤龍
蔡瑁等と劉備らの対立は、対曹操の問題、劉表政権の方針などでも十分説明でき、後継者問題を持ち出さなければ説明できないものではありません。
荊州の方針で蔡瑁らと意見が対立したから、劉キを支持しなければいけないなんて理屈もありません。前述したように、劉キの相談を諸葛亮が拒否したように、劉キ派の取り込みを警戒していたふしさえあります。
蔡瑁の劉備暗殺未遂自体も真偽が怪しいものですし。
そして、繰り返しますが劉表の生前に劉備が劉キを支持していたという記述は私が調べた範囲では見当たりません。
後に劉キと手を組んだこと。演義で劉キを支持していたこと。これらからくる先入観が強すぎるのではないでしょうか?
(PC)
25 元歎
ちょっと言い方が悪かったですね。後継者問題から派閥争いになったわけではなく、劉表の赴任前から豪族どうしの争いはあったと思います。劉表が赴任早々、豪族を宴会に招いて斬ったのが劉キ派(劉キ自身は関係なくて、のちの劉キ派ということです)であり、そう仕向けたのが蔡瑁派だと考えてます。
そうした中に有名な劉備が逃げ込んできたんですから、当然どちらに付くかは荊州全体が注目していたと思います。そして、劉備は劉キ派につきます。だから蔡瑁は劉備を暗殺しようとしたのだと思います。劉備が劉キ派と思われないようにしたと言うことについては、中立と思わせた方が劉表にも取り入りやすいですし、客が、劉キ派だ!と公言するような行動をとることもないと思います。
劉備暗殺未遂ですが、これは劉表赴任時の事件と同じ手口です。可能性は充分にあります(まあ、だから歴史家の創作という可能性もあるわけですが)。
(PC)
26 赤龍
>>25
まず、劉表に粛清された宗賊達の勢力と劉キとのつながりが私には確認できません。何かそれを示す史料があるのでしょうか?
そもそも、元歎さんが考えるように劉表配下が劉キ派と劉ソウ派に真っ二つに分かれて争っていたということ自体が事実なのでしょうか?劉キが排除されたということが分かるだけで、そうした後継者に関わる対立が読み取れません。
やはり、演義のイメージ、及び袁氏、曹氏の後継者争いからの連想で、劉表の後継者問題をとらえてはいないでしょうか?
(PC)
27 朱家
『魏書』だけでなく『英雄記』にも刺史に上表したとありますし、裴松之の早くから後継者が決まってたからってのは、かなり弱い(笑)
徐州でも、拒否してますから、まず拒否するでしょう。それで暗殺計画なら、かなり説得力があります。劉表を殺して、さっさと劉ソウにする可能性もありますね。劉キ派だから暗殺ってのはちょっと…
しかし、私も直接は言ってないと思います。劉ソウが蔡夫人の子か不明ですし、一族の保身を優先しそうな蔡瑁らを信頼してるとは思えず、劉ソウに「もし何かあったら、劉備を頼れ」ぐらいかな?毒をもって毒を…劉備は猛毒ですが(笑)
(W32K/au)
28 元歎
劉表赴任時に斬られた豪族たちが属していた勢力が劉キを支持したのです。なぜ支持したのかといえば、劉ソウは対抗勢力である蔡瑁との関係が深いからです。多くが劉表に斬られて大打撃を受けたんですから、生き残るためには劉表の次の世代を考えて劉キの後ろ盾になるしかなかったと思います。劉表は強大な権力を持っていますから(特に仮節)、蔡瑁らが積極的に劉キ派を排除しようとすれば、全滅させられることも予想されます。これまで名士であり豪族である蔡瑁やカイ越でさえ屈服させることが出来なかった勢力です、再起はありえたと思います。まだ張虎とか陳生が残ってたわけですし、多分黄祖も劉キ派ですから。劉キが江夏で上手く治められたのも黄祖の影響があったからでしょう。

劉備の名は広く知られていました。評価は別として、とにかく有名。蔡瑁らは、戦を多くしてきた劉備が劉キ派に加わることで、荊州が混乱するのを恐れたんだと思います。それが劉表が防備を設ける(もちろん蔡瑁派の差し金)理由でしょう。しかし、劉備は夏侯惇を打ち破り、さらに豪族たちに支持される。だから、蔡瑁派も暗殺に踏み切ったのだと思います。
(PC)
詳しくはないので議論には参加しませんが‥‥‥
元歎さんが先ず>>28にある

「劉表赴任時に斬られた豪族たちが属していた勢力が劉キを支持したのです」

が何処に書かれていたかを示す事で、議論は進展すると思いますよ☆>>26に答える事が、先ず第一だと思います。
(PC)
30 赤龍
私が聞きたかった事は、ストラップさんが指摘してくれましたが、つけくわえて黄祖が劉キ派とする根拠も私にはわかりません。
そもそも、劉表政権に組み込まれた宗賊の勢力と蔡瑁・カイ越等がその後も対立していたということを示す史料もあるのでしょうか?張虎・陳生にしろカイ越等の説得により帰順しています。
(PC)
31 無問題
スレが遅れました…。なるほどそうかんがえますか。さすがは赤龍さん!(笑)そういえば、蔡瑁は曹操と旧知の仲だったそうですね?昔一緒に誰かに会いに行ったけどあってもらえなかったのだとか。彼のそろばん勘定としては、劉宗をおしたてて曹操にくだった方が厚遇されると思ったのではないでしょうかね?しかし、こういうかれの行いは地元の人々に軽蔑されたんだとか…。彼は名よりも実をとったのでしょうな…
(W32SA/au)
32 朱家
赤龍さんの考えは、劉備が曹操交戦派で、劉表の側近が降伏派だから、劉表の考えは劉備に近いから「頼む」と言ったのだ。と解釈してよいのでしょうか?
(W32K/au)
33 元歎
『劉表赴任時に斬られた豪族たちが属していた勢力が劉キを支持した』ことは、多分書かれてないと思います。陳寿は劉備を良く書こうとしていましたから(劉表はどうかわからない。「評」では批判してますが、良く書こうとしてると思えるところもあって…)。普通に読めば、この斬られた豪族たちというのは印象が良くなく、劉備とその豪族勢力はともに劉キ派だった…と書けば、劉備の印象は悪くなりかねません。それに、派閥争いはそんな明確に書かれませんし…まあ、書かれていない理由になると思います。だからこの辺は>>28のように状況から考えられることです。

黄祖の都督に陳就、また部将には張碩がおり、張虎・陳生となんらかの関係があったと思います。黄祖は江夏太守で、孫策と孫権に何度負けても支持されていたことから、江夏豪族であると思われます。張虎・陳生も江夏の人ですから。
(PC)
34 赤龍
>>31
『襄陽キ旧伝』に見られる蔡瑁の話ですね。白文なんでちゃんと読めませんが(笑)ということは、若い頃は洛陽に出ていたってことになりますね。ひょっとしたら、その時劉表と知り合うこともあったかも?
>>32
劉表が対曹操交戦派だったとは思えません。それは曹操を攻めるべしという劉備の案をいれなかったことなどからもわかりますね。ただ、だからといってカイ越、韓嵩らのように積極的に曹操に従おうとまでは考えていなかったようですね。
(PC)
35 ストラップ
>>33
>>25>>28の語尾を拾ってみて下さい。
「思います」「考えてます」「予想されます」「可能性は充分にあります」「からでしょう」
特に「思います」はそれぞれに4回づつ、計8回も書かれている程です。
元歎さんの今回の書き込みは、その大部分を推理、推測、推論で成り立たせた長い文章で、これは当然演繹的推論ではありませんし、ここまで予想が多くては、蓋然的仮説とも言えなさそうです。
ちょっと文章が長過ぎるので、前半部だけを要約して抜き出してみます。

豪族達は敵対する蔡瑁と関係の深い劉ソウを支持する事は出来ない。
劉ソウを支持出来ないから劉キを支持する。

この二つが出発になっている様ですが、僕には根拠が弱い気がしてなりません。
劉備を劉キ派とする前に、証明すべき問題が先ず多い様に感じられます。

参考:>>>328
(PC)
36 天草
劉備はあくまでも中立を貫きたかったが、劉ソウ派(外戚派)らは、曹操と敵対している劉備が邪魔だったので邪険にした。

この程度でしか考えていません。

劉表は戦争経験の多い劉備に期待し、前線に置くことで利用しようとした。
劉キは自分を排除しようとする者達の存在に怯え、派閥とは無関係の諸葛亮(敢えて言うなら劉備派?)に相談した。

こんな感じじゃないですか?

そうなると…やっぱり劉備が劉キ派というわけでもないのかな?

もし劉キが長生きしてたら、劉備はやはり彼を立てて、荊州を彼に渡していたでしょうか?
疑問ですね?
(PC)
37 飛燕
割り込み失礼m(__)m
劉備は中立であったと思います。彼は関わりたくなかったんじゃないでしょうか?劉備が独立を図っていたのなら、何派である、というのは彼の行動を制限してしまうのではないでしょうか。例えば、彼が親劉キ派で、劉キが荊州の主となり、曹操が南下して来たとき、劉キが戦うといえば戦わなければならないし、降伏するといえば降伏しなければならない、ですよね?いついかなるときでも、臨機応変にどんなこともできる状況、が劉備にとっての最善である気がします。そのために、劉備は双方に適度に愛想良くしてたんじゃないでしょうか。また、孔明が劉キに助言したエピソードがありますが、これはあくまで劉キが無理強いして頼んだものであり、劉備の自主的な、好意によるものではありません。裏返せば、劉備は劉キにそこまで親身に考えていなかったのではないでしょうか。
豪族>伝にそのことを書くと印象が悪くなる、ということは劉キ一派自体が悪い、ということでしょうか?それなら孔明伝に劉キを助けたことは書かないと思います。劉キ支持であることを書いたところで、印象は悪くならないんじゃないでしょうか。
かなりの長文ホントに失礼(汗)
(F900iC/FOMA)
38 赤龍
これまでの私の意見からもわかるかと思いますが、私は「劉キ派」という存在そのものを疑問視しています。
「劉キ派」というと「劉ソウ派」に対抗する派閥勢力があり両者が争っていたかのような印象をうけますが、前述したとおり『三国志』『後漢書』などで劉キを支持したという人の名が全くと言っていいほど見つけられません。
当然劉キは長子である以上、その側近とかは支持したでしょうが、荊州が二つに割れるどころか、圧倒的に不利だったのではとさえ考えてしまいます。わざわざ諸葛亮にまで何度も相談しようとすること、逃げるように江夏へ行くことなど、味方の少なさ、後継者を望むどころではない圧倒的な不利な状況を感じます。
袁紹や曹操のとこのような、家臣が真っ二つに割れて争う後継者争い、及びそれを連想させる「劉キ派」というもの自体が、私は疑わしいものではないかと感じています。
(PC)
39 朱家
赤龍さんありがとうございます。そのように感じたもので…

とりあえず、蔡瑁らが支持したから、劉ソウを寵愛した訳ではないですからね。蔡瑁が劉キを支持してたら、かなり混乱したと思いますが…
(W32K/au)
40 無問題
蔡瑁の姉は劉表の嫁さんのようですね?そりゃ彼の姉の子の劉宗がついた方が自分に有利になりますよね?しかし、蔡夫人や蔡瑁、張允の暗躍があったとはいえなんであんなに劉キの味方が少ないんだろう?蔡一族に対抗する派閥があってもいいものなんですけど?
(W32SA/au)
41 飛燕
劉キの味方の少なさには僕も疑問。蔡一族への反発もそうですが、「嫡子は長男」という常識、それに袁家の例がありますから、反劉ソウ勢力(劉キ派)はいてもおかしくありませんよね。何故そういう派閥ができなかったんでしょう?
(F900iC/FOMA)
42 天草
あくまでも推測ですが…伊籍あたりは劉キを推して、彼と行動を共にし、荊州南下後の劉備と合流した一人だと思いませんか?

劉表配下の人物で劉ソウ降伏後も劉備と行動を共にしたのは彼くらいしか思いつきませんし…。
(PC)
43 元歎
中立とはそんなに良いものでしょうか。当時の荊州の状況で、中立というのは孤立になります。逃げてきた劉備には危険すぎます。また、荊州豪族の支持があったんですから、中立というのはありえませんし。あと、劉キ派、といっても実際に劉キの意見が尊重されるわけではなく、意見が尊重されるのは実力ある豪族とか名士です(この時代はどこでもほとんどそう)。

ちくま訳『劉キはいつも諸葛亮と自己の身の安全策を謀ろうとしていたが、諸葛亮はそのたびに拒否して、相談に乗らなかった。劉キはそこで…ともに高殿に登って…はしごをとりはずさせて、諸葛亮にいった、「(誰にも聞かれないよ)」諸葛亮は答えた「…申生…重耳…をご存知ではありませんか」劉キは…悟り、ひそかに…計略をめぐらせた』
この話についてですが、何も考えずに読むと無理強いさせられているように思えます。しかし、見方を変えてください。『諸葛亮はそのたびに(劉キのための安全策を誰かに聞かれて、阻止されると困ると言って)拒否して』のように考えてみてください(一例)。

劉キ派の名前が残っていないことについては、敗者の中の敗者なんですから残っていなくても仕方ありません。
僕も劉キ派は(圧倒的かどうかはわかりませんが)不利という考えです。55人も斬られたんですから。

ちょっと話が膨らみすぎましたが、主張したかったのは>>17の否定。言葉を変えて言うと、劉備を警戒して防備を設けていたのに、蔡瑁らといっしょに荊州を任せようというのはおかしいです。

ところで、僕の考え、矛盾はありませんよね?

ちょっと語尾に気をつけてみました(笑) 今回のは充分考えられることなのに、史料がない。これは口惜しいですね。新たな出土史料を待つしかないですね。96年にも何か発見されてたような。
(PC)
44 赤龍
>>42
伊籍は私も考えましたが、彼の伝を見る限り、どうも劉キというよりも、ずっと劉備支持という印象を受けます。襄陽通過の際(もしくはそれ以前)に劉備に合流したようにとれますし。劉キ派とするには、ちょっと根拠が不足してるなと。
>>43
ちょっと厳しいこと言わせていただきますね。
どうやらストラップさんと私の指摘・質問をあまり理解されてないように感じます。
とりあえず、仮説の前提となる根拠が薄弱、疑問視されてること。ストラップさんは語尾の形式を問題にしているわけでは無いということ。これらの事をもう一度よく考えて一連の議論を読み返してはいかがでしょうか?今のままでは単なる一人よがりの主張に終わりかねませんよ。
(PC)
45 赤龍
もひとつ付け加えると、どうやら元歎さんは>>>328-7で紹介されている内容を無批判に正しいとした前提で話を進めていますが、私はその前提自体を疑問視している。そこも議論がかみあわない原因の一つかもしれませんね。
さて、劉キ派云々はひとまず保留し>>17への否定に対する私の意見だけ述べておきます。
私は、劉備の積極的交戦、カイ越らの曹操への従属という方針に対し、劉表は積極的攻勢を控えつつ独立を維持と考えています。そして、そのためには曹操に対抗させる劉備の存在も必要だった。くわえて、劉備の影響力の大きさを認識した上で、その離反による崩壊を恐れた(これは前にも触れました)。そのために劉備にも後事を託したと考えています。
(PC)
46 天草
>>44
改めて伊籍伝を見ましたが(伝があるのを忘れてましたw)、「劉表が亡くなると、そのまま先主に随行して南に向かい…」とありますから、確かに劉キと行動を共にしたというわけではなさそうですね。

では新たな人物を…。
●霍峻
出身地が江陵のすぐ東、南郡の枝江県で、兄の軍を取り仕切っていたとあるので、当時、劉備と共に荊州北部にいなかった可能性もあるのではないか?

●向朗
当時は臨沮の長とあるので、赴任地までしっかり残されているのは彼くらい。
臨沮は江陵と襄陽の間くらい。

いずれにしても、この当時劉備に帰服したとすれば、荊州南下以前か途中と考えがちですが、先主伝を素直に受け取るなら、長阪を抜けた時の劉備には数十騎という仲間しかいないわけですし、劉キと共に合流したと考えてもおかしくないのではないでしょうか?
(PC)
47 元歎
理解していたからこそ…だったんですが。

>>>328-7と僕の考えはほとんど同じですが、無批判に正しいと言うとは。自分でも史料を読み、証拠をいろいろ探しましたし、容易に考えられることを確認しました。今までの話はその『前提』が成り立つということを説明してきたつもりで、このことを前提として話を進めているわけではありません。まあ、>>17の否定についての反論も含めてこの話はもうやめにしときます。赤龍さんとは今まで通り話したいですから。
(PC)
48 赤龍
このまま打ち切ると後味悪いし、私の言いたい事が伝わってない可能性があるので、あえて続けますね。
無批判に正しいと言うのは失礼な言い方でした。しかし、「『前提』が成り立つということを説明してきた」と言われていますが、その説明の多くが(肝心のとこが)「〜だと考えられる」「〜であるはずだが史料には見られない」というような史料による根拠に欠ける元歎さん個人の推測で成り立っています。そして、その説明が疑問視されている。そうであるのに、その上に元歎さんの推測による仮説がさらに積み上げられている。まず土台が固まってないのに、その上にいくら仮説を積み上げてもそれははなはだ脆弱なものである。これがストラップさん>>35で言われていることだと思います。
例えば一つ。>>30で私が質問した、宗賊勢力と蔡瑁・カイ越等がその後も対立を続けていたのか?という疑問。元歎さんはそれを当然の前提とされて、その根拠が示されていません。こういう問題を無視して話を続けられても、それは一人よがりに過ぎないものになりかねない。そう言っているのです。
(PC)
49 無問題
まあまあ、お二方…(^_^;)しかし、確かにその点は疑問ですな?その宗教団体やら草賊の連中は頭が殺されてからおとなしく劉表に従ったんでしょうかね?もし、臣従していなかったらなんらかの抵抗運動があってもおかしくないはずですが…。もしかして、張斉の時みたいなやり方で彼等の心を掴んだんじゃないでしょうかね?
(W32SA/au)
50 赤龍
私が「荊州の豪族がこれ以前も以後も二派に分かれて対立していた」という構図に疑問を感じたのは、やはり>>30であげた、宗賊勢力の一つと思われる張虎、陳生への説得にカイ越、ホウ季が派遣され、この説得により劉表に帰順したという記述です。もし、両勢力の間に根深い対立があったのなら、この人選は極めて危険ですよね。しかし、彼らは単独で向かい成功させた。むしろカイ越らは荊州の名士として宗賊勢力にも顔が利いたと考える方が自然と感じます。カイ越の献策の発言中にも「私が昔からめんどうをみていた者がおり」ともあります。
宗賊はあくまで郡県の役人に反抗してたから「賊」とみなされていたのであり、彼らの敵はカイ越・蔡瑁等ではなかったと私は考えています。
そして、結局は宗賊勢力を配下に組み込み劉表の軍事力の基盤とするわけですから、生き残りの帰順した連中を懐柔こそすれ、敵対勢力として露骨な弾圧を加える必要は無いと考えます。
(PC)
51 元歎
僕が疑問に思ったのが、『劉表は…ひそかに防備を設けた』という記述です。荊州の一部の豪族が劉備に心をよせているのを見て劉備の心に疑いをもったのが理由とされてますが、カイ越らの支配下の豪族ならば何の心配もありません。そこで、カイ越らの支配下にない豪族、完全には服従していないと思われている豪族がいるのではないかと考え、しかも、それは県レベルの豪族(この程度の集まりならカイ越らが恐れる理由はない)ではなく郡レベルの豪族。そう考えて、宗賊と表現されたあの斬られた豪族たちの勢力が思い浮かびました。張虎・陳生は襄陽を占拠するほどの豪族ですから、郡レベルと考えられます。そして、この張虎と陳生は江夏出身。劉キが避難場所と選んだのも江夏。曹操の来襲で劉備が逃げて最終的に落ち着いたのも江夏の夏口。江夏に何かあるものかと考えれば、太守に黄祖がいて、黄祖を調べれば張碩・陳就がいたのです。ここまで来たらもう信じきっちゃいましたね。

張虎・陳生が降伏したのは、豪族が多く斬られて二人だけ(じゃないかもしれないけど、名前が残っているのは二人なので…)では統制がとれないと判断したからだと考えてます。頭は斬られても、一族の誰かが土地を守って勢力は消えないでしょうから、この降伏は勢力回復のための休息であり、劉表の今後の動静を観察するためじゃないかなと。もちろん、カイ越の名士としての規制力もあったとは思いますけど。多分、降伏してもその軍は解体されてないと思うんですよ。劉表軍に組み込まれてもいない、服従はしてても一定の勢力を保っていたと。そして劉ソウが後継者になりそうだから、動きが再び活発になった。そういう考え方です。

記述に疑問を持って、そこからは史料を提示してませんから、結局は推測で、言っていることは変わらないんですが。
(PC)
52 赤龍
まず、ちょっと史料の読み間違いの可能性を。
劉備に心をよせたのは「荊州豪傑」であり、豪族に限定されませんよ。ちなみに、ここでいう豪傑は我々がイメージする武勇に優れた猛者ではなく、文や武に優れた人物のこと。当然荊州豪族の一部も含まれていたでしょうが。劉表の側近である伊籍が劉備と親しくしていたこと、後に徐庶や諸葛亮が劉備に仕えたことなども含むと思われます。
そしてこの記述では、劉表が警戒したのは、このように劉備の名声が高まると共に、力をつけることに対してであると思います。
(PC)
53 赤龍
>>51を読んで改めて感じたのが、元歎さんの説は荊州の豪族が明確に二派に分かれているという事が前提になっているということ。この前提も問題があるように感じます。荊州の人々は、カイ越・蔡瑁派と宗賊勢力どちらかに属して無いといけないのか?これもよく考えるとおかしな話ですよね。
宗賊化しなかった豪族でも、カイ越・蔡瑁らと密接なかかわりをもつ者ばかりではない。これは当たり前の事ではないでしょうか?
同時に、宗賊というものの実態ももう一度よく見直してみる必要があると思います(史料少ないですが)。
(PC)
54 元歎
いや、読み間違えではありません^^; 豪傑、文・武に優れていると知られている人はほとんど豪族だと思うので。

二つだけではありません。司馬徽とか龐徳公らの勢力とか、豪族とは言えませんが一定の発言力がある劉表の賓客(王粲とか杜襲など)とか、いくつかあったと思います。しかし、これらはカイ越らと敵対する理由がなく、劉ソウが後継となっても損害はありません。また、カイ越らが危険視することもありません。蔡氏の子が支配者になると困り、かつカイ越らが敵視する理由がある実力者を考えると…です。

レス遅気味ですいません。

ところで…史料が新たに発見される…というのは、どのくらいあるんでしょうか?
(PC)
55 赤龍
>>54
カイ越らと敵対しなければ劉備を支持しないという理屈がまず問題です。
カイ越らと敵対する理由が無いとして、カイ越らを積極的に支持しなければいけない理由があるのか?どうも対立の構図ばかりにこだわりすぎている様に思えます。
カイ越らと敵対する気がない連中でも、彼らが劉備を支持すれば、結果劉備の実力・名声が高まり、劉表にとって警戒すべきものになるのですから。

新史料の発見なんてのはいわば運しだい。そうそうあるものではありません。考古資料ならちょくちょく見つかってますが。
ですので、みつかる予定もない新史料をあてにするのは、宝くじが当たることを前提に買い物するようなもの。まずは、今存在する史料で他に読むべきものはないのか?既読の史料からさらに読み取れること・考えるべきことはないか?そうした事を考えるべきです。
>>43の末尾みたいな言い方は、私にはなにか違うな?て感じてしまいます。
(PC)
>>55
>>43の末尾みたいな言い方は、私にはなにか違うな?て感じてしまいます。」
の続きは、>>>395へ。

ここでは劉備の荊州逃亡に関する話題(及び、それを考証するための荊州時代の劉備の立場並びに、当時の荊州の状態)に限りましょう。
宜しくお願いします。
(PC)
57 元歎
司馬徽グループとか賓客グループからの人気があっても、劉備を恐れる必要はなく、懐柔なりすると思うんです。劉表伝に『劉表は劉備を…任用することは出来なかった』とありますが、なぜ劉備と距離を置いたのか。曹操に対しての盾として劉備が必要ならば、劉表支配下につなぎとめるためにカイ越サイドに引きこむはずで、そうしなかったのは、劉備の力の核となるものがカイ越らとは相容れないものだったからだと思います。
(PC)
58 赤龍
>>57
どうも私が指摘している問題点がうまく伝わってないように思えます。
私は「荊州には二派に分かれた豪族以外にも他の勢力がいるのではないか?」といっているのではありません。「荊州の豪族は本当に全てがその二派に色分けされるのか?」といっているのです。それをふまえてもう一度私の指摘を読み返してみてください。
(PC)
59 赤龍
あと>>>395-3でも、朱家さんから重要な指摘がなされてますね。「首を斬られた勢力と同じなら、カイ越を斬って交戦、もしくは袁術に降るはずだから、別勢力である」宗賊とひとくくりに呼ばれているが、彼らは一致団結した一つの勢力であったのか?繰り返しますが、宗賊の実体についてももう一度よく考えてみる必要があると思います。
このように、新史料の発見に頼る以前に、現史料で考えるべきことというのはまだまだいくらでもあるのですよ。
(PC)
60 元歎
レスが遅くなってすいません。

>>58
完全に二派に色分けはされていなかったと考えています。例えば司馬徽グループなら、劉表の支配は受けていますが劉表政権に参加はしてません(龐統?)。賓客グループもそうです。この二つのグループを二派が利用しなかった(できなかった)理由として、どちらも劉表を主となすに足らない人物としていて距離を置いていたことが考えられます。この他にも中小豪族はいたと思いますが、カイ越を動かすほどの勢力ではないと思い、大きく四つぐらいに考えてます(勢力の大きさの差は結構ありますが)。

>>59
すいません、宗賊をひとつの勢力としていました。そこで即席の考え方を…^^;
ちくまの訳注を見ると、宗賊とは江南をあらした一揆のことで各地で有力者を中心に結集して官に刃向かった…とあります。だから宗賊たちには官と利害が対立し、そして劉表赴任まで官が抑えられなかったという二つの共通点があります。また蔡瑁は襄陽の豪族でありながら、張虎・陳生に襄陽を占拠されてます。これらから宗賊は団結はしていなくても、個々だけでもかなりの力があり(といっても大豪族は極少数で、ほとんどは中小豪族だと思いますけど)、特に張虎・陳生は蔡瑁を上回る兵力を持っていた…と考えられます。赤龍さんの指摘から、今は張虎・陳生が反蔡瑁派の中心と考えてます…また指摘されて変わりそうですが^^;

ところで、劉表は単身宜城に乗りこみカイ越や蔡瑁と宗賊対策を相談してますが、宜城は襄陽の南。襄陽は占拠されているはずなのに。なんか変ですね。さすがの宗賊でも、全国レベルの名士である劉表には手を出せなかったということでしょうか…。うーん。
(PC)
61 元歎
あと、埋まりかけたスレをageてしまってすいませんm(__)m 新しい話題があったのに…。
(PC)
62 元歎
>>60
んにゃ、読み返してみたら後半何言いたいのかよくわかりませんね^^;
(PC)