2 天草
関羽が初めて神として祀られたのは、唐の時代という説が有力ですが、その地位が高まったのは宋代の頃らしく、宋の皇帝は北方の非漢民族に追い詰められると、同じく北方の曹魏と戦った関羽に撃退を祈った…結果、関羽は国家の守護神とされ、明代には関聖帝君(関帝)と呼ばれるに至った…とあります。
驚くべき事に、清の時代の非漢民族の満州族の記録にも「赤い顔で長い髭の神が降り、清軍を守った」という記述があるそうです。
(ナツメ社・図解雑学 三国志より)
諸説ありそうですが、私の調べではこんな感じです。さらに調べてみますね。皆さんの考えも教えてください。
驚くべき事に、清の時代の非漢民族の満州族の記録にも「赤い顔で長い髭の神が降り、清軍を守った」という記述があるそうです。
(ナツメ社・図解雑学 三国志より)
諸説ありそうですが、私の調べではこんな感じです。さらに調べてみますね。皆さんの考えも教えてください。
(PC)
3 しす
六朝時代の道教の資料に「真霊位業図」というものがあります。
要するに神様カタログです。
その第七階位には現世で皇帝や王や武将だった人物が配されています。
そこには曹操や司馬懿、劉備なども含まれているそうですが、関羽の名は無いそうです。
ということは彼は魏晋南北朝時代には道教の神としては認知されていなかったことになります。
ただ彼の終焉の地、玉泉山には既に廟があったらしいというのは何かの本で読んだけど忘れた(爆)
彼が具体的に神に報じられた記録としては『仏祖統紀』に隋の高名な僧、天台智大師のもとに関羽がの霊が現れて仏法に帰依したいと願い出たというのがあります。
そこで智大師は時の帝、煬帝に上奏し、伽藍神に祀ったそうです。
余談ですが天台智大師は天台宗の開祖です。
要するに神様カタログです。
その第七階位には現世で皇帝や王や武将だった人物が配されています。
そこには曹操や司馬懿、劉備なども含まれているそうですが、関羽の名は無いそうです。
ということは彼は魏晋南北朝時代には道教の神としては認知されていなかったことになります。
ただ彼の終焉の地、玉泉山には既に廟があったらしいというのは何かの本で読んだけど忘れた(爆)
彼が具体的に神に報じられた記録としては『仏祖統紀』に隋の高名な僧、天台智大師のもとに関羽がの霊が現れて仏法に帰依したいと願い出たというのがあります。
そこで智大師は時の帝、煬帝に上奏し、伽藍神に祀ったそうです。
余談ですが天台智大師は天台宗の開祖です。
(PC)
4 しす
玉泉山の廟というのは恐らく彼の死後まもなく祀られたものでしょう。
偉業を讃えるというよりは、祟りを恐れてのことだと思います。
関羽の死後、呂蒙や曹操が相次いで死んだことを、当時の人々が関羽の祟りであると思ってもなんら不思議ではないですから。
ま、菅原道真や平将門と同じですね。
それからしばらくは民間レベルで細々と信仰が続けられていたのではないでしょうか。
そういった土壌があって、後に講釈師らによって「三国志」の物語が広まるにつれ、彼の神としての地位も向上していったのではないかという気がします。
偉業を讃えるというよりは、祟りを恐れてのことだと思います。
関羽の死後、呂蒙や曹操が相次いで死んだことを、当時の人々が関羽の祟りであると思ってもなんら不思議ではないですから。
ま、菅原道真や平将門と同じですね。
それからしばらくは民間レベルで細々と信仰が続けられていたのではないでしょうか。
そういった土壌があって、後に講釈師らによって「三国志」の物語が広まるにつれ、彼の神としての地位も向上していったのではないかという気がします。
(PC)
5 ヤスシ
なるほど。
確かに祟り→神様はありそうですね。もっと早い時代から神として奉られているのかとおもっていました。
ついでと言っては難ですが、関帝は戦いの神であるのと同時に、商売の神でもあると聞いた気がします…。
商売?ってイメージじゃないと思うのですが、この辺は何か判りますか?
確かに祟り→神様はありそうですね。もっと早い時代から神として奉られているのかとおもっていました。
ついでと言っては難ですが、関帝は戦いの神であるのと同時に、商売の神でもあると聞いた気がします…。
商売?ってイメージじゃないと思うのですが、この辺は何か判りますか?
(W11H/au)
6 天草
これにもかなりの説があるんじゃないでしょうか?
私の知ってる説は…
関羽の出身地の山西省解県は、古来より塩生産の中心地であったらしいのですが、彼ら塩商人達の間で、塩の生産・流通を邪魔するシユウ神という邪神と戦う関羽が神として崇められたそうです。明代になると彼ら山西の商人達は中国全土で大きな商人の勢力になり、彼らの考えが各地に広がり、関羽という守護神が広く伝わったという説です。
また単純に、『信義』に厚い関羽の生き方や考え方(演義の影響も大いにありか?)が商売に通じている、とされている事も考えられてます。
私の知ってる説は…
関羽の出身地の山西省解県は、古来より塩生産の中心地であったらしいのですが、彼ら塩商人達の間で、塩の生産・流通を邪魔するシユウ神という邪神と戦う関羽が神として崇められたそうです。明代になると彼ら山西の商人達は中国全土で大きな商人の勢力になり、彼らの考えが各地に広がり、関羽という守護神が広く伝わったという説です。
また単純に、『信義』に厚い関羽の生き方や考え方(演義の影響も大いにありか?)が商売に通じている、とされている事も考えられてます。
(PC)
7 しす
かなり眉唾ですが、関羽が算盤を発明したからだという説もあるそうです。
ただし、逆に算盤の起源から追っていったら「関羽」なんて文字は一つもみつけられませんでしたがw
余談ですが算盤の起源は資料によってマチマチでした。
1 紀元前中東のアバカスという計算器具
2 古代ローマで使われた青銅製の計算器具
3 紀元前中国の計算器具
中国に関しては実用的なものは後漢からだとするものと、宋〜元時代だという説もあるようです。
資料を見る限りでは中東のアバカスが一番原始的なのでこれが起源ではないかと。
それがローマへ伝わり、シルクロードを通って中国に渡り、青銅製からより軽くて実用的な竹製の算盤になったと考えるのが自然でしょう。
というわけで算盤の発明はガセと考えていいでしょうね(核爆)
ただし、逆に算盤の起源から追っていったら「関羽」なんて文字は一つもみつけられませんでしたがw
余談ですが算盤の起源は資料によってマチマチでした。
1 紀元前中東のアバカスという計算器具
2 古代ローマで使われた青銅製の計算器具
3 紀元前中国の計算器具
中国に関しては実用的なものは後漢からだとするものと、宋〜元時代だという説もあるようです。
資料を見る限りでは中東のアバカスが一番原始的なのでこれが起源ではないかと。
それがローマへ伝わり、シルクロードを通って中国に渡り、青銅製からより軽くて実用的な竹製の算盤になったと考えるのが自然でしょう。
というわけで算盤の発明はガセと考えていいでしょうね(核爆)
(PC)
8 しす
あ、失礼、まだ他の説書き忘れていました。
関羽が「簿記法」を考案したとか「出納簿」を考案したとかいう説もあるそうです。
それとこれは何の資料で見たかすら憶えておらず、飽くまで私の記憶によるものということを前提に…。
神話としてのお話です。
ある時神様が集まって、天界での役割を決めることになりました。
そこで袋に色んなものを入れ、そこに手を入れて取ったもので決めるということになりました。
そこで関羽は算盤を引き当てたため、商売の神様になったというお話。
関羽が「簿記法」を考案したとか「出納簿」を考案したとかいう説もあるそうです。
それとこれは何の資料で見たかすら憶えておらず、飽くまで私の記憶によるものということを前提に…。
神話としてのお話です。
ある時神様が集まって、天界での役割を決めることになりました。
そこで袋に色んなものを入れ、そこに手を入れて取ったもので決めるということになりました。
そこで関羽は算盤を引き当てたため、商売の神様になったというお話。
(PC)
10 大伴
民間信仰であった関羽信仰が強化されたのは、清の時代です。満州族から起こった国である為、漢民族の人心を得る為に、国家神としました。
関羽は、玉泉山で成仏していますから、菩薩にもなっています。詳しい成立資料がありませんから何とも言えませんが、こちらからの流れも無視できません。仏弟子が道教の神としてとりこまれる事は、良くある流れです。又、劇で人気のある登場人物は神格化される事は良くありますから(孫行者や時遷など)、こちら側の流れやも知れませんね。尚、「春秋」の愛読者であった為に、儒教の分野でも神格化していますが、こちらは完全な便乗です。
関羽の誕生日は、六月二十四日とされ、中華民国では休日だったとの事。
関羽は、玉泉山で成仏していますから、菩薩にもなっています。詳しい成立資料がありませんから何とも言えませんが、こちらからの流れも無視できません。仏弟子が道教の神としてとりこまれる事は、良くある流れです。又、劇で人気のある登場人物は神格化される事は良くありますから(孫行者や時遷など)、こちら側の流れやも知れませんね。尚、「春秋」の愛読者であった為に、儒教の分野でも神格化していますが、こちらは完全な便乗です。
関羽の誕生日は、六月二十四日とされ、中華民国では休日だったとの事。
(F2102V/FOMA)
11 大伴
大ポカ!
平話の周倉の注釈に、
「関羽を神として扱ったのは、仏教の方が早いが、」
の一文を発見!!!↑の仮説は正しい様です(仏教に神はいませんが)。
尚注釈は、「現在の廟などのイメージはむしろ宗代に道教において、元帥神として形成されたものである」と続き、当時の記述で周倉にあたる人物が、「周昌将軍」となっている事を述べます。尚、周昌とは、漢初の人物で、高祖に使えた人らしいです。
平話の周倉の注釈に、
「関羽を神として扱ったのは、仏教の方が早いが、」
の一文を発見!!!↑の仮説は正しい様です(仏教に神はいませんが)。
尚注釈は、「現在の廟などのイメージはむしろ宗代に道教において、元帥神として形成されたものである」と続き、当時の記述で周倉にあたる人物が、「周昌将軍」となっている事を述べます。尚、周昌とは、漢初の人物で、高祖に使えた人らしいです。
(F2102V/FOMA)
13 C
関羽は、劉備につく以前は塩の密売人をしていたという説もありすよ
そこからの商売の神ということもあると劉備は、儒教のプロパガンダとなり民間向けにはならず張飛は、関羽にくらべると(あくまで)演義のエピソードが少ないせいでは?
そこからの商売の神ということもあると劉備は、儒教のプロパガンダとなり民間向けにはならず張飛は、関羽にくらべると(あくまで)演義のエピソードが少ないせいでは?
(F900i/FOMA)
14 しす
>C殿
演義で関羽のエピソードが張飛に比べて多いのは、彼が既に神格化がある程度確立されていたからじゃないでしょうか。
他の武将達が皆姓名で呼ばれているのに対し、関羽だけは「関公」と諱で呼んではいないことでも、彼が特別扱いであることは伺えますし。
演義で関羽のエピソードが張飛に比べて多いのは、彼が既に神格化がある程度確立されていたからじゃないでしょうか。
他の武将達が皆姓名で呼ばれているのに対し、関羽だけは「関公」と諱で呼んではいないことでも、彼が特別扱いであることは伺えますし。
(PC)
16 大伴
Cさん今後も宜しく!!!
関羽闇製塩業者用心棒説は、彼の出身地のみに起因するもので、歴史的事実とは言い難いですが、関羽神格化の重要なファクターである事は間違いないでしょうね。
ちなみに出身地に起因とは、関羽が解県の出身であるという事です。解県には、解池という塩湖があり、古くから製塩業が盛んだった事によります。
関羽闇製塩業者用心棒説は、彼の出身地のみに起因するもので、歴史的事実とは言い難いですが、関羽神格化の重要なファクターである事は間違いないでしょうね。
ちなみに出身地に起因とは、関羽が解県の出身であるという事です。解県には、解池という塩湖があり、古くから製塩業が盛んだった事によります。
(F2102V/FOMA)
17 たかひろ
さてさて顔良廟の近くて関羽の劇や祭ったら嵐がふくとか言われますが、顔良廟で関聖帝君廟の民芸屋で買った札シールを持って参りましたが、何も起きず…
しかし、そのシールを二倍の値段で買っていた事が判明。これも顔良の祟りか…
しかし、そのシールを二倍の値段で買っていた事が判明。これも顔良の祟りか…
(F2102V/FOMA)
18 赤龍
実は張飛も後世一応は神様になってます。科挙の神様で、試験の不正を許さないとか。そんな説話を読んだ覚えがあります。三峡ダムで張飛廟水没?なんて話題も昔ありましたし(どうなったんだろ)
(J-SA05)
19 しす
そういえば周倉というキャラは関羽の神格化と共に、民衆の「関羽の側にいたい」という思いが具現化したものだと思っていました。
で、最近もしかしたら演義で関平が養子として登場してるのもそれと関係あるのかな?という気がしてきたのですが。
よく考えたら演義におけるこの二人って民衆の代表選手ですよね。
かたや元黄巾、かたや河北の名士の次男坊。
関羽の実子ではなく、養子としたことで待神として周倉と並んだ時のバランスを保ったとも考えられますが、発想の飛躍のしすぎですかね?
で、最近もしかしたら演義で関平が養子として登場してるのもそれと関係あるのかな?という気がしてきたのですが。
よく考えたら演義におけるこの二人って民衆の代表選手ですよね。
かたや元黄巾、かたや河北の名士の次男坊。
関羽の実子ではなく、養子としたことで待神として周倉と並んだ時のバランスを保ったとも考えられますが、発想の飛躍のしすぎですかね?
(PC)
20 天草
いや、そうなのかも知れませんね。本当の忠臣というのは彼らの事なのかもしれませんし、民衆もそんな彼らを望んだのでしょうね。
ところで…
周倉は本当に演義のみのキャラなんでしょうか?
モデルもいないのかな?
ところで…
周倉は本当に演義のみのキャラなんでしょうか?
モデルもいないのかな?
(PC)
24 大伴
光栄、三国志平話299〜301の注より部分を引用
(略)現在の廟のイメージはむしろ宋代に道教において、元帥神として形成されたものである。有名な道教儀礼書の一つである『道法会元』巻二百五十九には、そのような元帥神としての関羽が見えているが、ここに見える周倉は「周昌将軍」という名前になっている。これは冥界の事であり、漢初の人物で漢の高祖に仕えた周昌が関羽の部下となっていても、実はそれほどの矛盾はない。ただ、単なる書き誤りの可能性もあり、周倉が本来周昌であったかは、とりあえず不明のままとしておく。
(略)現在の廟のイメージはむしろ宋代に道教において、元帥神として形成されたものである。有名な道教儀礼書の一つである『道法会元』巻二百五十九には、そのような元帥神としての関羽が見えているが、ここに見える周倉は「周昌将軍」という名前になっている。これは冥界の事であり、漢初の人物で漢の高祖に仕えた周昌が関羽の部下となっていても、実はそれほどの矛盾はない。ただ、単なる書き誤りの可能性もあり、周倉が本来周昌であったかは、とりあえず不明のままとしておく。
(F2102V/FOMA)
26 しす
李殿の言っているのは魯粛伝に見える魯粛と関羽の会談に見える人物のことでしょう。
京劇の「単刀赴会」で描かれている場面であり、演義でも描かれています。
魯粛伝によると、荊州領有をめぐって魯粛が関羽を責め立てた時に口出ししてきた人物のことでしょう。
演義や京劇ではここで周倉が口出ししてきます。
ただこの人物が周倉のモデルになったと言うよりは、正史にある名もない人物の役割を周倉に割り合てただけではないでしょうか。
京劇の「単刀赴会」で描かれている場面であり、演義でも描かれています。
魯粛伝によると、荊州領有をめぐって魯粛が関羽を責め立てた時に口出ししてきた人物のことでしょう。
演義や京劇ではここで周倉が口出ししてきます。
ただこの人物が周倉のモデルになったと言うよりは、正史にある名もない人物の役割を周倉に割り合てただけではないでしょうか。
(PC)
30 しす
>天草殿
関羽伝に裴松之の注の中に『蜀記』からの転用では秦宜禄の妻を娶りたいと言ったけど、結局曹操に取られちゃった話がありますよね。
でそれと異なる話を何か別ので読んだ記憶はあるのですが、それが何だったかは失念。
でそれによると関羽はわざと「彼」と言って秦宜禄の妻と思わせておいて、実は自分はちゃっかりお目当ての呂布の奥さんもらっちゃったというのもあるようです。
今度ちゃんと調べてきますね。
関羽伝に裴松之の注の中に『蜀記』からの転用では秦宜禄の妻を娶りたいと言ったけど、結局曹操に取られちゃった話がありますよね。
でそれと異なる話を何か別ので読んだ記憶はあるのですが、それが何だったかは失念。
でそれによると関羽はわざと「彼」と言って秦宜禄の妻と思わせておいて、実は自分はちゃっかりお目当ての呂布の奥さんもらっちゃったというのもあるようです。
今度ちゃんと調べてきますね。
(PC)
33 ストラップ
学燈社刊、「小学生の中国文学全集7 三国志ものがたり」を読んでいたのですが、関羽が字を、
「あざなは寿長であったが、のちに雲長とあらためた」
と、述べています。通俗演義にあるエピソードなのでしょうか?
「あざなは寿長であったが、のちに雲長とあらためた」
と、述べています。通俗演義にあるエピソードなのでしょうか?
(PC)
36 寿君
でも、寿長って字も雰囲気的に関羽に合ってるような気もしますね。
思うに、関羽はお尋ね者だったから、土地土地、文献によって様々な変名が伝わってるのかも知れません。確か、姓も“関”じゃなくて“管”だったって書いてた本もありましたよ。
思うに、関羽はお尋ね者だったから、土地土地、文献によって様々な変名が伝わってるのかも知れません。確か、姓も“関”じゃなくて“管”だったって書いてた本もありましたよ。
(P900i/FOMA)
37 しす
関羽に関しては人気あるだけに民間伝承も多いですね。
鍛冶屋の常親方の養い子で名は常生(ちなみに常生は中国語で長生と発音が同じです)とか、
寿君さんの言う、豆腐屋の管爺さんの養い子というのもあります。
関羽、字を雲長と改めた経緯に関しては、故郷河東で人を殺して逃げた際に役人に咎められて咄嗟に名乗った名前ということになっています。
ちなみにこの関羽が人を斬った話は京劇で「斬熊虎」という演目になってます。
鍛冶屋の常親方の養い子で名は常生(ちなみに常生は中国語で長生と発音が同じです)とか、
寿君さんの言う、豆腐屋の管爺さんの養い子というのもあります。
関羽、字を雲長と改めた経緯に関しては、故郷河東で人を殺して逃げた際に役人に咎められて咄嗟に名乗った名前ということになっています。
ちなみにこの関羽が人を斬った話は京劇で「斬熊虎」という演目になってます。
(PC)
38 寿君
しすさん、その関羽の伝説が載ってる本発掘しました。確かに、おっしゃる通りですね。
なるほど、その役人に咎められた時に城門の「大慶関」の3文字が目に入ったからと書いてます。でも、“関”でなくて“大”だったら、”大羽”になってましたね(;^_^A
なるほど、その役人に咎められた時に城門の「大慶関」の3文字が目に入ったからと書いてます。でも、“関”でなくて“大”だったら、”大羽”になってましたね(;^_^A
(P900i/FOMA)
40 天草
関羽の全国区デビューはやっぱり『官渡の戦い』という事になるのかな?
最高の武勲は『ハン城の戦い』で曹仁を破り、ホウ徳を討ったことなんでしょうね?
しかし、曹操は関羽が降った時点で厚遇してますから、その前にかなりの活躍をしてたのかも知れませんね。
俗に言う蜀の『五虎大将軍』はとにかく記載が少ないので、残念!!
最高の武勲は『ハン城の戦い』で曹仁を破り、ホウ徳を討ったことなんでしょうね?
しかし、曹操は関羽が降った時点で厚遇してますから、その前にかなりの活躍をしてたのかも知れませんね。
俗に言う蜀の『五虎大将軍』はとにかく記載が少ないので、残念!!
(PC)
41 元歎
新潮選書『関羽伝』を読んだのですが、現在の研究によると関羽の生年は160年だそうです(劉備は161年、張飛は173年)。177年に関羽は胡氏と結婚、178年に関平が生まれ…って実子なんですね。そして188年にタク郡で劉備・張飛に出会ったそうです。黄巾の乱に間に合ってない…。さらに、なんと、関羽の63代目(だっけ?)の子孫が解県?に今もいるそうです! どこかの大学の教授が証明しているそうです。正史には『ホウ悳の子のホウ会が関氏血統をことごこく滅ぼした』とあるのに…。この本は信頼できるのか…。でも、関羽ファンとしては信じたいですね♪
すいません、ちょっと話がずれてしまいました。
すいません、ちょっと話がずれてしまいました。
(PC)
42 赤龍
その本を読んでないのではっきりした事は言えないでしょうが、かなり後世の伝説・創作などに基づいているのではないでしょうか。神として大いに信仰されていますから、偽の古文書なんかも結構作られてそうですし。劉備の生年以外の数字はかなり眉唾ものと思いますよ。関羽の子孫にしても、大学教授が証明って、どうやって証明したんだ?とつっこみたくなりますし。夢を壊すようで申し訳ないですが。ただ、関平が実子というのは、正史でもそうですよ。
(PC)
43 元歎
ああ、夢が壊れた( ̄Д ̄;) (笑)
やっぱり信頼できませんか〜。中国の大学なので、大学名も教授も忘れてしまいました。図書館で借りた本なのですぐには確認できませんし…。たしか、中国の研究者の中ではだいたい認められているって書いてあったと思います(間違ってたらすいません)。でも、張飛の生年は遅すぎますよね。劉備より関平の方が年が近いことになってますから。
子孫…。と思われる人は代々、市?のトップになっているそうです。名誉職? 羨ましいなぁ(笑)
やっぱり信頼できませんか〜。中国の大学なので、大学名も教授も忘れてしまいました。図書館で借りた本なのですぐには確認できませんし…。たしか、中国の研究者の中ではだいたい認められているって書いてあったと思います(間違ってたらすいません)。でも、張飛の生年は遅すぎますよね。劉備より関平の方が年が近いことになってますから。
子孫…。と思われる人は代々、市?のトップになっているそうです。名誉職? 羨ましいなぁ(笑)
(PC)
44 削除済
45 DJ SEIETSU
皆さん、本当に関公の事に関心が深いですね。私は関公崇拝者なので嬉しい限りです。私も新潮選書より発行されている大学教授の今泉恂之介という方が現地取材などを元に書いた「関羽伝」を愛読しています。この本は、関羽が“神”となる所以など、関羽についての多くの関連事項が記されています。確かに、関羽の郷土とされる中国山西省の運城市にいる、関公の62代目とされる関新剛氏について等、この本に信憑性があるかは解りません。この本は著者が研究したレポートで、著者自身も懐疑的に思われている部分も多いです。しかし、史実を完全に無視したレポートではないという事は断言できます。それに実際に研究するとなれば、氏のように、郷土史家を訪ねたり、中国で行われる三国志の学術討論会に参加し、沢山の研究家と交流をもつのが、より信憑性を深める道だと思います。無論それらは、史実にそって討論されたり研究したりする中で、演義や伝説の創造性についても考えていると思われますしね。いかがですかね?
(EZ)
46 李克用
館長いないので代わりに言っておきますが、>>44の宣伝と見受けられる書き込みは、注意事項にも書かれているとおり、禁止されています。留意しておいてくださいm(__)m
(P900i/FOMA)
48 赤龍
古い時代の史料に見られない先祖の話が、新しい時代の史料に見られるということは、後世につくられた系図の可能性が高いと思います。関播がどういう人物か、私はよくしりませんが、隋の楊氏が楊彪の末裔を、唐の李氏が老子の末裔を称したように、当時異民族系の人々が漢人化し、漢人風の姓を称すとき、先祖を漢の名家と称する傾向がありました。関播の場合も(漢人としても)自家の箔をつけるため、関羽の子孫という系図をつくりあげた可能性もあります。
(PC)
49 赤龍
DJ SEIETUさん、始めまして。『関羽伝』に関する情報ありがとうございます。現地の関羽に関する伝承、伝説の類(特に史書に残らないもの)なども丹念に扱った研究ということでしょうか?面白そうな本ですね。私も入手できれば読んでみたいです。
(PC)
51 もうしわけありませんm(_ _)m
管理人代行の方へ…あまりに関羽についての討論が深くなされていて、是非とも交流したい方々ばかりで、宣伝めいた事をしてしまいました…本当にもうしわけありませんでした。一応、削除しましたが、HPのアドレスを載せるのはまずいでしょうか?こういった事を始めたばかりでよくわからないので、教えて貰えればありがたいですm(_ _)m
(EZ)
52 天草
DJ SEIETUサン>そんなに気にしなくていいですよ。
私も自治会の皆さんも気にしているのは、DJ SEIETUサンの書き込みが困るのではなく、本当に悪質な宣伝が書かれた時に、削除しないといけないので、その為にルールを徹底しようと言う趣旨です。
貴殿の書き込みに悪意のない事は、誰もが感じるところですから気にしないで下さいね。
良かったら討論場の最上部やTOPページの上部に注意事項がありますので、読んでみて下さい。
板違い失礼!
この話題は以後自治会スレにて。
私も自治会の皆さんも気にしているのは、DJ SEIETUサンの書き込みが困るのではなく、本当に悪質な宣伝が書かれた時に、削除しないといけないので、その為にルールを徹底しようと言う趣旨です。
貴殿の書き込みに悪意のない事は、誰もが感じるところですから気にしないで下さいね。
良かったら討論場の最上部やTOPページの上部に注意事項がありますので、読んでみて下さい。
板違い失礼!
この話題は以後自治会スレにて。
(PC)
54 赤龍
関平が実子だったとするのは、単純に、正史に関平は普通に「関羽の子」とあり、養子という記述は一切無いということです。ということは、素直に実子ととるべき。養子とするのは、ずっと後世の小説である演義(先行する講談、伝承などは未確認ですが)であるため、後世の創作と考えるのが妥当だろうということです。
(PC)
56 赤龍
なんでなんでしょうね?こっからは完全な推測、思い付きの類です。
○単純に、養子となるシーンをいれて話を盛り上げようとした。
○この手の英雄は、女に興味が無いもの(笑)それが劉備よりも早く子供作ってたらイメージダウン。そこで女性関係を匂わせないよう養子にした。
○血のつながらない養子でありながら、最期を共にしたということで、より感動的に、より両者の結びつきの強さを強調(これはなんかの本で見た気もする)
なんてことを考えましたが、どうでしょうか。
○単純に、養子となるシーンをいれて話を盛り上げようとした。
○この手の英雄は、女に興味が無いもの(笑)それが劉備よりも早く子供作ってたらイメージダウン。そこで女性関係を匂わせないよう養子にした。
○血のつながらない養子でありながら、最期を共にしたということで、より感動的に、より両者の結びつきの強さを強調(これはなんかの本で見た気もする)
なんてことを考えましたが、どうでしょうか。
(PC)
58 しす
関平養子化(?)現象に関しては私の意見は>>19で述べた通りです。
関平と周倉って不動明王に対する矜羯羅童子と制多迦童子(あるいはアポリー中尉とロベルト中尉)のような存在だと思っています。
両者の登場も関羽千里行の直後と時期もほぼ同じだし、この二人は関羽の侍神としてワンセットなんだという気がします。
関平と周倉って不動明王に対する矜羯羅童子と制多迦童子(あるいはアポリー中尉とロベルト中尉)のような存在だと思っています。
両者の登場も関羽千里行の直後と時期もほぼ同じだし、この二人は関羽の侍神としてワンセットなんだという気がします。
(PC)
59 私も…
場面を盛り上げる為の演出という意見に賛同します。研究家の間では、実子であるというのが大筋ですが、何故、養子としたか?という所ですよね。少し論点をずらしますが、[関羽、千里を行く」の後、劉備と再会するシーンで関平を紹介しますよね?劉備は勿論、関平を知らない訳で、子が出来ている事に感嘆しますよね?これも、長い旅であった事を感慨深くする為の演出ではないでしょうか?養子としてならば、尚更、関公が人として大きく、劉備にとっても又、大きな存在になると私は思います。
(EZ)
61 赤龍
>>59を読んで。千里行は関羽が単体で主役を張る話であり、その人柄・武勇を多くの人が敬い、慕っている事を示す話でもありますね。で、関羽を慕い、周倉、リョウ化が家来にしてくれとやってくる。そうした流れの中、関平も関羽を慕って養子となるとした方が話が盛り上がる。後の関羽配下がほぼ集まる話でもあるから、関平とも出会いのシーンも求められたということも考えられます。
(PC)
62 赤龍
ただ親子だから、最期まで関羽に従った、というよりも、関羽を慕って養子となり、最期まで従ったという方が、より関羽の魅力の大きさをアピールすることもできますね。そうしたことを考えていくと、演義の作者の手腕の見事さというのを改めて感じます。
ところで、千里行、関平・周倉等との出会いなんか、なんとなく『水滸伝』の宋江の旅と似てますね。
ところで、千里行、関平・周倉等との出会いなんか、なんとなく『水滸伝』の宋江の旅と似てますね。
(PC)
63 DJ SEIETSU
赤龍さん〉いやぁ、納得です。貴方の知識は、素晴らしいようですね(^_^)。更に、宋江の旅とは…関公も忠義によって人心を得たと言えますもんね。僕にはこのサイトが、好漢の集まった忠義堂の様に思えたりします。ははは。
(EZ)
64 無問題
DJ SEIETSUさん・はじめまして、よろしくお願いします。ほんとに美髯公の事が好きなのですね。あまりの心酔っぷりに感心してしまいます。(笑)自分はあまり関羽が好きではないですが、彼の生きざまは評価できますね。
(W21K/au)
66 無問題
悪く言えば、彼は傲慢で目上の者や同僚に不遜な態度だったと言います。そういう気難しい性格が神にされている理由の一つなのかな〜、と勝手に思ってます。自分もそういう所があまり好きじゃないですね。
(W21K/au)
67 DJ SEIETSU
無問題さん〉ええ。仰る通り(^_^)。関公の弱点とされる部分ですね。僕のサイトでも書いた事なのですが、プライド高いんですよね。ただ、どんな人でも譲れない部分はありますよね?(故、無問題さんが公をあまり好きでなくとも、こういう話ができて楽しい(^_^))公は決して礼を重んじる人間には、傲慢な態度をとらなかったと思います。相対する考えに己の誇りを示した態度が、あまりに気高かったのでは、ないでしょうか?神となる所以は、その誇りを立証する武もあった所であるような気もしますね。公はその誇りの高さから、マフィアやギャングなどの暗黒街の人間にも、かなり信仰されているそうです。彼らのような人達は、仁義というのを重んじるでしょうしね。無問題さんは、どんな武将が好みですか?是非伺ってみたいですね。スレ違いになるようでしたら、ウチのBBSにでもいらしてください(^_^)
(EZ)
69 しす
>無問題さん
その話ならこのスレの>>5-16で触れられていますよ。
あと横浜の中華街とありますが、横浜に限らず華僑と関帝は切っても切れない関係なので関帝廟、もしくは関帝像は各地で祀られているようです。
横浜以外では神戸が有名ですが、像だけなら京都や長崎にもありますよ。
その話ならこのスレの>>5-16で触れられていますよ。
あと横浜の中華街とありますが、横浜に限らず華僑と関帝は切っても切れない関係なので関帝廟、もしくは関帝像は各地で祀られているようです。
横浜以外では神戸が有名ですが、像だけなら京都や長崎にもありますよ。
(PC)
71 元歎
これもその本に書いてあったことですが、中国政府は『三国時代の街を再現したいから資金を』などという要望には随分渋るようですが、『関帝廟を建てたい(修理したい)から資金を』というものには、ホイホイ出してくれるそうです。関帝への信仰ぶりがわかりますね。
(PC)
77 DJ SEIETSU
無問題さん〉いやいや、このサイトの方々には及びませんよ。
生誕の情報も天草さんから頂きましたしね。ただ關帝ありきって性格が僕を支えてます。劉備や張飛の生誕祭もあるのでしょうかね?関羽の人気ですが、中国の豪勇ランキングなるものでは、確か四位らしいですよ。
休日になったりするのは、神故の在り方なんでしょうね。
ストラップさん〉横濱關帝廟のHP見ました。僕は別の所から聞いたんですが、詳しく記してありましたね。確かに劉備と張飛は呼び捨て(苦笑)
生誕の情報も天草さんから頂きましたしね。ただ關帝ありきって性格が僕を支えてます。劉備や張飛の生誕祭もあるのでしょうかね?関羽の人気ですが、中国の豪勇ランキングなるものでは、確か四位らしいですよ。
休日になったりするのは、神故の在り方なんでしょうね。
ストラップさん〉横濱關帝廟のHP見ました。僕は別の所から聞いたんですが、詳しく記してありましたね。確かに劉備と張飛は呼び捨て(苦笑)
(W31SA/au)
初めまして…
話はズレますが、張飛信仰に関しての話って耳にしたことはありませんか?
近所の中華料理店に張飛の木像があってビックリしました。
関帝のならしょっちゅう見るけど、張飛信仰はなかなか聞かない…
話はズレますが、張飛信仰に関しての話って耳にしたことはありませんか?
近所の中華料理店に張飛の木像があってビックリしました。
関帝のならしょっちゅう見るけど、張飛信仰はなかなか聞かない…
(P900i/FOMA)
79 しす
>>78
張飛信仰は関羽ほどではないにせよあるようです。
長江南岸、飛鳳山の麓に張恒侯廟(要するに張飛廟)というのがあります。
真偽はともかく、もともとは范彊、張達が投げ捨てた張飛の首が流れついて葬られた場所に廟が建てられたそうです。
(現在の廟は移築されたらしいので違う場所のようですが)
安らかに葬ってもらった張飛は、埋葬してくれた老人に感謝するだけでなく、こうした下々の者に気を配り、雨が降らなければ恵みの雨を、舟を出せば風を吹かせたなどの霊験を現したそうです。
ただし役人には厳しく、特に悪事をしでかした役人には天罰を与えたとか、役人が舟で通る時は舟を下りてお参りしなければ通れなかったという話しもあります。
張飛信仰は関羽ほどではないにせよあるようです。
長江南岸、飛鳳山の麓に張恒侯廟(要するに張飛廟)というのがあります。
真偽はともかく、もともとは范彊、張達が投げ捨てた張飛の首が流れついて葬られた場所に廟が建てられたそうです。
(現在の廟は移築されたらしいので違う場所のようですが)
安らかに葬ってもらった張飛は、埋葬してくれた老人に感謝するだけでなく、こうした下々の者に気を配り、雨が降らなければ恵みの雨を、舟を出せば風を吹かせたなどの霊験を現したそうです。
ただし役人には厳しく、特に悪事をしでかした役人には天罰を与えたとか、役人が舟で通る時は舟を下りてお参りしなければ通れなかったという話しもあります。
(PC)
80 しす
連ガキ失礼。
国内の関帝廟、もしくは関帝を祀ってる場所を調べました。
抜けている場所がありましたら補足よろしくです。
函館関帝廟 北海道函館市大町 中華会館内
立川関帝廟 東京都立川市 JR立川駅 立川グランデュオ7階 立川中華街
横浜関帝廟 神奈川県横浜市中区 JR関内駅or桜木町駅 横浜中華街
神戸関帝廟 兵庫県神戸市中央区 JR元町駅
京都萬福寺 京都府宇治市 JR奈良線黄蘗駅
大阪清壽院 大阪府大阪市天王寺区
千里関帝廟 大阪府豊中市 北大阪急行千里中央駅前 千里セルシービル5階 千里中華街
長崎興福寺 長崎県長崎市寺町 長崎路面電車公会堂前下車
長崎崇福寺 長崎県長崎市鍛冶屋町 長崎路面電車思案橋下車
沖縄至聖廟 沖縄県那覇市若狭 至聖廟内天尊廟
国内の関帝廟、もしくは関帝を祀ってる場所を調べました。
抜けている場所がありましたら補足よろしくです。
函館関帝廟 北海道函館市大町 中華会館内
立川関帝廟 東京都立川市 JR立川駅 立川グランデュオ7階 立川中華街
横浜関帝廟 神奈川県横浜市中区 JR関内駅or桜木町駅 横浜中華街
神戸関帝廟 兵庫県神戸市中央区 JR元町駅
京都萬福寺 京都府宇治市 JR奈良線黄蘗駅
大阪清壽院 大阪府大阪市天王寺区
千里関帝廟 大阪府豊中市 北大阪急行千里中央駅前 千里セルシービル5階 千里中華街
長崎興福寺 長崎県長崎市寺町 長崎路面電車公会堂前下車
長崎崇福寺 長崎県長崎市鍛冶屋町 長崎路面電車思案橋下車
沖縄至聖廟 沖縄県那覇市若狭 至聖廟内天尊廟
(PC)
81 DJ SEIETSU
しすさん〉素晴らしいデータです…
近くには、行ってみようと思いますよ(^_^)
補足なんですけど、奉られている訳ではないので微妙ですが、江戸東京博物館という所に関公の像があるそうですよ。
近くには、行ってみようと思いますよ(^_^)
補足なんですけど、奉られている訳ではないので微妙ですが、江戸東京博物館という所に関公の像があるそうですよ。
(W31SA/au)
82 しす
>>81
情報サンクスです。
調べたら確かに江戸東京博物館には神田祭で使用された再現された関羽の人形の山車が展示されているようですね。
かなり人形の出来は素晴らしい。
近いうちに生で見に行ってこようかと思ってます。
これは番外編って扱いにしておきましょうw
情報サンクスです。
調べたら確かに江戸東京博物館には神田祭で使用された再現された関羽の人形の山車が展示されているようですね。
かなり人形の出来は素晴らしい。
近いうちに生で見に行ってこようかと思ってます。
これは番外編って扱いにしておきましょうw
(PC)
83 くわぁまん
すんごいなぁ、そんなに関羽がいるのかぁ…(笑)
ところで話はそれますが、以前の話を蒸し返します…。(汗)
関羽は曹操の軍門に降る可能性は有ったのですかね?
曹操が秦宜禄の妻を与えていれば三国志の話は無くなったかもね…。
ところで話はそれますが、以前の話を蒸し返します…。(汗)
関羽は曹操の軍門に降る可能性は有ったのですかね?
曹操が秦宜禄の妻を与えていれば三国志の話は無くなったかもね…。
(F901iC/FOMA)
84 しす
>>81-82で触れている神田須田町の山車人形は復元されたもので、博物館の展示品ですが、全国的に見ると、結構関羽の山車人形は結構あるようですね。
また人形ではなく山車の緞帳に劉関張三英雄などを描いているものもありますから調べればまだまだ色々と出てきそうです。
これはまた引き続き調べて、ある程度まとまったらまたここにカキコします。
また人形ではなく山車の緞帳に劉関張三英雄などを描いているものもありますから調べればまだまだ色々と出てきそうです。
これはまた引き続き調べて、ある程度まとまったらまたここにカキコします。
(PC)
85 DJ SEIETSU
くわぁまんさん〉僕は関公ありきという偏った性格なので、可能性無しとしたいですね…僕では論になりませんかね(^_^;)
しすさん〉そちらのデータも僕には本当に役に立ちますよ。楽しみにしています(^_^)
しすさん〉そちらのデータも僕には本当に役に立ちますよ。楽しみにしています(^_^)
(W31SA/au)
86 しす
>>85
関羽の山車ですが、かなりてこずってます。
(そりゃそうだわな)
ただ祭り関係のサイトを巡って、いい感じで資料は集まっています。
廃止されてしまったものも含めるとかなりの数にのぼると思います。
という訳で一応途中経過報告。
関羽の山車ですが、かなりてこずってます。
(そりゃそうだわな)
ただ祭り関係のサイトを巡って、いい感じで資料は集まっています。
廃止されてしまったものも含めるとかなりの数にのぼると思います。
という訳で一応途中経過報告。
(PC)
87 DJ SEIETSU
しすさん〉いやぁ…
ごもっとも…
青森のねぶたなんかにも公をモチーフにしたものも毎年出る様ですしね…
しかし、データが集まっているとは…
凄いなぁ(^_^)
貴方に会ってみたくなりましたが…
残念ながら10日のオフには行かれん…
近いんですけどねぇ…
ごもっとも…
青森のねぶたなんかにも公をモチーフにしたものも毎年出る様ですしね…
しかし、データが集まっているとは…
凄いなぁ(^_^)
貴方に会ってみたくなりましたが…
残念ながら10日のオフには行かれん…
近いんですけどねぇ…
(W31SA/au)
89 朱家
他スレからで脈絡ないですが…
漢中王となった後、関羽に専行権(鉞と節)を与えてますので、完全な総大将ですよ。しかし外交権は印だと思うので、その権限はないですよね?呂蒙は表面上、友好を継続しますが、赴任してすぐに「関羽討つべし」を上奏してます。関羽もそれを察して、警戒を怠っていません。傲慢な態度も警戒してる(信用してない)からに思います。このような状況は劉備も分かってたはずなんです。関羽が蒔いた種ですけど、それを修復するのは、劉備、孔明の役割ではないですかね?もしくは戦いを覚悟して、援軍を送るとか(戦い詰めで劉備本隊に余裕はないと思うが)もちろん、関羽の責任は大きいですが、劉備、孔明にも少なからず責任があると考えています。しかし呉の兵糧を奪ってなければ、大きく変わった可能性は否定しません。
漢中王となった後、関羽に専行権(鉞と節)を与えてますので、完全な総大将ですよ。しかし外交権は印だと思うので、その権限はないですよね?呂蒙は表面上、友好を継続しますが、赴任してすぐに「関羽討つべし」を上奏してます。関羽もそれを察して、警戒を怠っていません。傲慢な態度も警戒してる(信用してない)からに思います。このような状況は劉備も分かってたはずなんです。関羽が蒔いた種ですけど、それを修復するのは、劉備、孔明の役割ではないですかね?もしくは戦いを覚悟して、援軍を送るとか(戦い詰めで劉備本隊に余裕はないと思うが)もちろん、関羽の責任は大きいですが、劉備、孔明にも少なからず責任があると考えています。しかし呉の兵糧を奪ってなければ、大きく変わった可能性は否定しません。
(EZ)
90 青龍
こちらでは初めてですね(^^)ヨロシクです。
朱家さんに連れられてやってきました。
関羽が荊州を任されたのは5年くらいですが、専行権を貰ってからその年にやられたのですよね?そんなとこから(浅はかですが)出過ぎたことというか、性格上舞い上がっていたのではないかと感じてしまいます。
呉を警戒していたとのことですが、そうなのですか?演義の話かもしれませんが油断しきっていた印象があります。
劉備や諸葛亮は仲間の裏切りのせい(兵が全く動かなかった)で気付かなかったと本で読んだ記憶かあります(曖昧ですが)。それが原因ならそれもまた関羽がまいた種ですよね?
朱家さんに連れられてやってきました。
関羽が荊州を任されたのは5年くらいですが、専行権を貰ってからその年にやられたのですよね?そんなとこから(浅はかですが)出過ぎたことというか、性格上舞い上がっていたのではないかと感じてしまいます。
呉を警戒していたとのことですが、そうなのですか?演義の話かもしれませんが油断しきっていた印象があります。
劉備や諸葛亮は仲間の裏切りのせい(兵が全く動かなかった)で気付かなかったと本で読んだ記憶かあります(曖昧ですが)。それが原因ならそれもまた関羽がまいた種ですよね?
(D901i/FOMA)
91 DJ SEIETSU
論の主軸にいる方々に横槍をいれてしまうかもしれませんが…
結果論で論ずると、責任という形になりますが、責任というものを論ずると確かに国の主という見方や一戦略の司令官という見方になるようですね。
この件に至っては、裏切、策略も絡むので、様々な意見が在り、決は人によりあるでしょう。
何故、関公が荊州城を治めたか?
何故、襄陽、樊城攻撃の命を受けたか?
私は、蜀の人材全ての総意だったと感じてます。
そして、誇り高き関公なれば、荊州での失敗を恥じ、現代における公の評をやや不満とするのではないかと感じてます。
しかし、事の成否とは別軸で、関公は己の戦いを貫いた事が後の評であると思います。
何も出来ぬ総大将という結果論は、あまりにクレバーな見解で私には悲しい。
【関羽派】である私の視点です。
結果論で論ずると、責任という形になりますが、責任というものを論ずると確かに国の主という見方や一戦略の司令官という見方になるようですね。
この件に至っては、裏切、策略も絡むので、様々な意見が在り、決は人によりあるでしょう。
何故、関公が荊州城を治めたか?
何故、襄陽、樊城攻撃の命を受けたか?
私は、蜀の人材全ての総意だったと感じてます。
そして、誇り高き関公なれば、荊州での失敗を恥じ、現代における公の評をやや不満とするのではないかと感じてます。
しかし、事の成否とは別軸で、関公は己の戦いを貫いた事が後の評であると思います。
何も出来ぬ総大将という結果論は、あまりにクレバーな見解で私には悲しい。
【関羽派】である私の視点です。
(W31SA/au)
92 しす
まず関羽を含め実績が残ってないことについては、もう蜀という国がそういう国だったから仕方ないとしか言いようがないですよね。
ま、もともとは荊州に拠を構えるまでは独立勢力というよりも、むしろ武を切り売りする傭兵軍団的な色が濃いように思われますので魏、呉と比較してしまうのも酷なのかもしれませんが。
ただ関羽の性格に問題があったとは言え、劉備の入蜀後に荊州を任せる人物として最も適任であったことも事実だと思います。
専行権を与えられて後にすぐ殺されてしまった件に関しては、彼に落ち度があったと言うよりもそこまで慎重に事を進めた呂蒙の手腕を評価すべきではないでしょうか。
ただ関羽が樊城を攻撃し、その余波が飛び火したことで曹操の尻に火がついたことも事実ですし、孫呉にしても放置しておけない状況に陥ったことは無視できないと思います。
むしろ魏にせよ呉にせよ、関羽の実力を重しと見たからこそ早急に叩き潰す必要があったのではないでしょうか。
ま、もともとは荊州に拠を構えるまでは独立勢力というよりも、むしろ武を切り売りする傭兵軍団的な色が濃いように思われますので魏、呉と比較してしまうのも酷なのかもしれませんが。
ただ関羽の性格に問題があったとは言え、劉備の入蜀後に荊州を任せる人物として最も適任であったことも事実だと思います。
専行権を与えられて後にすぐ殺されてしまった件に関しては、彼に落ち度があったと言うよりもそこまで慎重に事を進めた呂蒙の手腕を評価すべきではないでしょうか。
ただ関羽が樊城を攻撃し、その余波が飛び火したことで曹操の尻に火がついたことも事実ですし、孫呉にしても放置しておけない状況に陥ったことは無視できないと思います。
むしろ魏にせよ呉にせよ、関羽の実力を重しと見たからこそ早急に叩き潰す必要があったのではないでしょうか。
(PC)
93 青龍
DJさん>そのような意見(見方)は嫌いじゃないです。私は趙雲スレで「記述がない」とさんざん叩かれたので、その矛先を関羽に向けたまでです。
しすさん>「蜀という国がそういう国」とはどういった意味ですか?
「関羽が荊州を任せるのに適任であった」ですがあの場合、私もそう思います。ですが、それ故荊州を奪われた(関羽の)責任が重くなる気がします。
呂蒙の手腕についてですが、私は呂蒙を高く評価してません(関羽と比べてですかが)。そして、関羽に落ち度がなく呂蒙に負けてしまったとなると「関羽<呂蒙」という構図ができてしまう気がするので、それを無くすためにも落ち度があったと思いたいのです。
それと関羽(軍)の実力ですが、未来性はともかく当時異様に強かったとは考えづらいです。結局曹仁を攻めきれてませんよね。
しすさん>「蜀という国がそういう国」とはどういった意味ですか?
「関羽が荊州を任せるのに適任であった」ですがあの場合、私もそう思います。ですが、それ故荊州を奪われた(関羽の)責任が重くなる気がします。
呂蒙の手腕についてですが、私は呂蒙を高く評価してません(関羽と比べてですかが)。そして、関羽に落ち度がなく呂蒙に負けてしまったとなると「関羽<呂蒙」という構図ができてしまう気がするので、それを無くすためにも落ち度があったと思いたいのです。
それと関羽(軍)の実力ですが、未来性はともかく当時異様に強かったとは考えづらいです。結局曹仁を攻めきれてませんよね。
(D901i/FOMA)
94 朱家
専行権を貰い、やったるで〜はあったと思いますよ。
陸遜に交代してから、兵を動かすので、呂蒙を警戒してたと見ます。江陵が落ちなければ曹仁は倒したと思いますし、関羽一人で、曹仁、于禁、徐晃、呂蒙、陸遜を相手にしてる。逆に言えば、それだけ動員しないと関羽を討てないとの見方も出来ます。あえて図式にするなら「関羽<曹仁+呂蒙」ですね。曹操でも上にいけるか疑問です。
荊州の戦況を知る、知らないではなく、江陵問題を抱えたまま、うわべだけの同盟を継続させ、関羽が傲慢な態度で、さらに溝を深めたのに、対策を講じなかった劉備、孔明(法正?荊州関連は孔明だと思う)にも責任があるのではないか?という事です。
樊攻略は劉備の命ではなく、専行権を与えるにあたり、戦略を伝えただけと思います。しかし、孔明の戦略を無視した一方攻撃で、しかも中央突破、蜀(孔明)戦略をしっかりと伝えたのか怪しいと思います。伝えたのであれば、二年待て(呉との連携、劉備本隊の兵力の問題により)ぐらいは命じたはずで、それを無視するとは思えません。これも劉備の責任を感じます。
陸遜に交代してから、兵を動かすので、呂蒙を警戒してたと見ます。江陵が落ちなければ曹仁は倒したと思いますし、関羽一人で、曹仁、于禁、徐晃、呂蒙、陸遜を相手にしてる。逆に言えば、それだけ動員しないと関羽を討てないとの見方も出来ます。あえて図式にするなら「関羽<曹仁+呂蒙」ですね。曹操でも上にいけるか疑問です。
荊州の戦況を知る、知らないではなく、江陵問題を抱えたまま、うわべだけの同盟を継続させ、関羽が傲慢な態度で、さらに溝を深めたのに、対策を講じなかった劉備、孔明(法正?荊州関連は孔明だと思う)にも責任があるのではないか?という事です。
樊攻略は劉備の命ではなく、専行権を与えるにあたり、戦略を伝えただけと思います。しかし、孔明の戦略を無視した一方攻撃で、しかも中央突破、蜀(孔明)戦略をしっかりと伝えたのか怪しいと思います。伝えたのであれば、二年待て(呉との連携、劉備本隊の兵力の問題により)ぐらいは命じたはずで、それを無視するとは思えません。これも劉備の責任を感じます。
(EZ)
95 元歎
こっちの書き込みが増えましたね^^
外交権>諸葛亮が何も進言できなかった(しなかった?)ことから、外交に関する進言が許されている人物はいないんでしょうね。
>呉の兵糧を奪ってなければ
たしかにこれは、孫権にとっては絶好の名目となりましたね。于禁軍を破ったのは良いが、そのせいで兵糧が足りなくなったわけですから…難しいですね。
>呉を警戒していたとのことですが
確か、結構な数の守備兵を残してましたよ。でも、呂蒙が病気を理由に建業に帰ると言いふらしたから、関羽はそれを信じて守備兵をどんどん樊城の方につぎこんだんです。(一応、関羽は長江ぞいに見張り所を配置していたようです。でも、これって当たり前のような気が…)
DJさん>待ってましたよ♪ 関羽の話にDJさんが参加しないわけないですから(笑)
>劉備の入蜀後に荊州を任せる人物として最も適任であった
おお、これには大きく頷きます。でも、疑問なのが趙雲は荊州に残っても良かったのではないかということ。もしくはすぐに戻ってくるとか。張飛は益州攻略に必要ですから仕方ないですけど…関羽が軍を発する直前にでも、張飛か趙雲のどちらかは荊州に戻ってくるべきだと思うんですけどね。益州にいても大してすることはないはずだし。まさか…北方さんの小説みたいに、関羽が樊城を攻略した後にすぐ雍州にでるつもりだったとか…。でも国力がなぁ…
>「蜀という国がそういう国」とはどういった意味ですか?
多分蜀には史官が置かれておらず、そのため記録が少なく、当然史書に残るべきことも記録されていない、という意味だと思います。(でも、後主伝に史官が景星(めでたい星)を発見したという記述があるんですよね…)
外交権>諸葛亮が何も進言できなかった(しなかった?)ことから、外交に関する進言が許されている人物はいないんでしょうね。
>呉の兵糧を奪ってなければ
たしかにこれは、孫権にとっては絶好の名目となりましたね。于禁軍を破ったのは良いが、そのせいで兵糧が足りなくなったわけですから…難しいですね。
>呉を警戒していたとのことですが
確か、結構な数の守備兵を残してましたよ。でも、呂蒙が病気を理由に建業に帰ると言いふらしたから、関羽はそれを信じて守備兵をどんどん樊城の方につぎこんだんです。(一応、関羽は長江ぞいに見張り所を配置していたようです。でも、これって当たり前のような気が…)
DJさん>待ってましたよ♪ 関羽の話にDJさんが参加しないわけないですから(笑)
>劉備の入蜀後に荊州を任せる人物として最も適任であった
おお、これには大きく頷きます。でも、疑問なのが趙雲は荊州に残っても良かったのではないかということ。もしくはすぐに戻ってくるとか。張飛は益州攻略に必要ですから仕方ないですけど…関羽が軍を発する直前にでも、張飛か趙雲のどちらかは荊州に戻ってくるべきだと思うんですけどね。益州にいても大してすることはないはずだし。まさか…北方さんの小説みたいに、関羽が樊城を攻略した後にすぐ雍州にでるつもりだったとか…。でも国力がなぁ…
>「蜀という国がそういう国」とはどういった意味ですか?
多分蜀には史官が置かれておらず、そのため記録が少なく、当然史書に残るべきことも記録されていない、という意味だと思います。(でも、後主伝に史官が景星(めでたい星)を発見したという記述があるんですよね…)
(PC)
96 元歎
>関羽に落ち度がなく呂蒙に負けてしまったとなると「関羽<呂蒙」という構図ができてしまう
野戦で戦ったらどちらが勝つかはわかりませんよ。少なくともこの時、関羽は呂蒙と正面から向かい合っておらず、呂蒙は背後を襲ったので「関羽<呂蒙」とは言えないでしょう。(おそらく得意とするところが違いますね)
>関羽(軍)の実力ですが、未来性はともかく当時異様に強かったとは考えづらいです。結局曹仁を攻めきれてませんよね。
曹仁は守勢に強い将。周瑜も曹仁が守っていた南郡を手に入れるのに一年(だったっけ?)かかっています。何にしろ持久戦になっていたと思います。それを予想して(多分)関羽は兵糧を十分持ってきていたが、于禁軍が降伏したため兵糧が足りなくなり、呉との国境にある関所の兵糧を奪ったわけです。しかし、それでも兵糧は足らず、疲弊したところを(本当に疲弊していたかは不明。関羽<徐晃となってしまうのが嫌で…m(__)m )徐晃に打ち破られ、江陵に逃げようとするが既に呂蒙が占拠していることを知り、麦城に立て篭もる。そして降伏する振りをして逃走する。しかし潘璋の司馬である馬忠に捕らえられる。(斬首なのか戦死なのかは不明?) って、後半は概略になっちゃいましたね(汗) (降伏する振りをした…というのが残念です(T-T) )
もし、曹仁の樊城を落としていたら魏では反乱が相次いだでしょうね。事実、侯音(218年)や魏諷(219年)らが反乱・反逆してますし、盗賊も関羽の支党となってます。以下、関羽伝。『(ちくま訳)梁コウ・陸渾といった盗賊のうちには、はるかに関羽より印綬称号をうけて、彼の支党となるものがおり、関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公(=曹操)が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると〜(梁郟﹑陸渾?盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏.曹公議徙許都以避其鋭,)
↑すいません、僕のパソコンでは表示されない字は?になってますm(__)m 携帯の方には、本当にすいませんm(__)m
野戦で戦ったらどちらが勝つかはわかりませんよ。少なくともこの時、関羽は呂蒙と正面から向かい合っておらず、呂蒙は背後を襲ったので「関羽<呂蒙」とは言えないでしょう。(おそらく得意とするところが違いますね)
>関羽(軍)の実力ですが、未来性はともかく当時異様に強かったとは考えづらいです。結局曹仁を攻めきれてませんよね。
曹仁は守勢に強い将。周瑜も曹仁が守っていた南郡を手に入れるのに一年(だったっけ?)かかっています。何にしろ持久戦になっていたと思います。それを予想して(多分)関羽は兵糧を十分持ってきていたが、于禁軍が降伏したため兵糧が足りなくなり、呉との国境にある関所の兵糧を奪ったわけです。しかし、それでも兵糧は足らず、疲弊したところを(本当に疲弊していたかは不明。関羽<徐晃となってしまうのが嫌で…m(__)m )徐晃に打ち破られ、江陵に逃げようとするが既に呂蒙が占拠していることを知り、麦城に立て篭もる。そして降伏する振りをして逃走する。しかし潘璋の司馬である馬忠に捕らえられる。(斬首なのか戦死なのかは不明?) って、後半は概略になっちゃいましたね(汗) (降伏する振りをした…というのが残念です(T-T) )
もし、曹仁の樊城を落としていたら魏では反乱が相次いだでしょうね。事実、侯音(218年)や魏諷(219年)らが反乱・反逆してますし、盗賊も関羽の支党となってます。以下、関羽伝。『(ちくま訳)梁コウ・陸渾といった盗賊のうちには、はるかに関羽より印綬称号をうけて、彼の支党となるものがおり、関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公(=曹操)が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると〜(梁郟﹑陸渾?盜或遙受羽印號,為之支黨,羽威震華夏.曹公議徙許都以避其鋭,)
↑すいません、僕のパソコンでは表示されない字は?になってますm(__)m 携帯の方には、本当にすいませんm(__)m
(PC)
98 しす
言いたいことは全て朱家さんと元歎さんに言われてしまいましたねw
ま、それだけでカキコするのもなんなんで、>>81-87で触れてる関羽の山車(あるいはだんじり)ですが、北から攻めて現在大阪まで来ました。
関羽のみならず、三英傑や孔明の像あるいは緞帳も結構あることが解りました。
ただ、まだ調べてるだけでまとまってはいないので、いましばらく時間がかかりますってことで。
ま、それだけでカキコするのもなんなんで、>>81-87で触れてる関羽の山車(あるいはだんじり)ですが、北から攻めて現在大阪まで来ました。
関羽のみならず、三英傑や孔明の像あるいは緞帳も結構あることが解りました。
ただ、まだ調べてるだけでまとまってはいないので、いましばらく時間がかかりますってことで。
(PC)
99 青龍
たくさん書かれちゃいましたね(>_<")
元歎さん>守備兵を退いたことに対して油断したと言ったのですが・・・。また、それにより(裏切りのせいもありますが)江陵を取られているのでそこの事が「関羽<呂蒙」だと言ったのです。つまりは呂蒙にまんまと騙されたと言いたいのです。その上トドメ(?)は呂蒙ですし。やっぱり頭で呂蒙以上を求めるのは酷ですか?
関羽軍の実力ですが、一連の戦に多くの武将を費やさせた事は流石です。ですがやはり曹仁を落とせなかったのが引っ掛かります。曹仁の特徴は知ってましたが、それを落してこそ「異様」ではないですか?落し難いを落とせないのは普通なことです。それに関して朱家さんの「江陵が〜」ですが流れとして撤退してから(そう決めてから)知ったという感じだと思います(つまりは元歎さんと同じ)。
元歎さん>守備兵を退いたことに対して油断したと言ったのですが・・・。また、それにより(裏切りのせいもありますが)江陵を取られているのでそこの事が「関羽<呂蒙」だと言ったのです。つまりは呂蒙にまんまと騙されたと言いたいのです。その上トドメ(?)は呂蒙ですし。やっぱり頭で呂蒙以上を求めるのは酷ですか?
関羽軍の実力ですが、一連の戦に多くの武将を費やさせた事は流石です。ですがやはり曹仁を落とせなかったのが引っ掛かります。曹仁の特徴は知ってましたが、それを落してこそ「異様」ではないですか?落し難いを落とせないのは普通なことです。それに関して朱家さんの「江陵が〜」ですが流れとして撤退してから(そう決めてから)知ったという感じだと思います(つまりは元歎さんと同じ)。
(D901i/FOMA)
100 朱家
よし!このスレ最後。
あまりに関羽派が多く、過大評価を恐れ、呂布ばりに裏切ります。しかし、呂布なので信用しないで下さい(笑)
以前も書いたと思いますが、劉封に援軍を求めてるので、兵力が不足ぎみになってます。于禁を降した事で、呉の兵糧を奪いますが、同盟国から奪うなど、道義を欠いており、しかも守備は薄いままです。樊城が落ちそうだったとはいえ、援軍を断られた時点で退いていれば、江陵は防げたと思います。おそらく功をあせったのでしょうが、部隊の将ならまだしも、多くの兵の生殺与奪を握る総大将の立場で、功をあせるなど、失格と考えます。于禁は自ら討ちに行きますが、徐晃は、最初、賊に防がせます(命令か自主的かは不明) おそらく、兵の不足により関羽は動けなかったのでしょう。徐晃を討ちに行き、曹仁に呼応され敗北します。このような状態で戦ってる事も疑問です。撤退重視の定石を無視しており、敗北も当然でしょう。
青龍さん〉「江陵が〜」は希望的な推測で、唯一議論できないとこ突っ込むなんて酷い(笑)
あまりに関羽派が多く、過大評価を恐れ、呂布ばりに裏切ります。しかし、呂布なので信用しないで下さい(笑)
以前も書いたと思いますが、劉封に援軍を求めてるので、兵力が不足ぎみになってます。于禁を降した事で、呉の兵糧を奪いますが、同盟国から奪うなど、道義を欠いており、しかも守備は薄いままです。樊城が落ちそうだったとはいえ、援軍を断られた時点で退いていれば、江陵は防げたと思います。おそらく功をあせったのでしょうが、部隊の将ならまだしも、多くの兵の生殺与奪を握る総大将の立場で、功をあせるなど、失格と考えます。于禁は自ら討ちに行きますが、徐晃は、最初、賊に防がせます(命令か自主的かは不明) おそらく、兵の不足により関羽は動けなかったのでしょう。徐晃を討ちに行き、曹仁に呼応され敗北します。このような状態で戦ってる事も疑問です。撤退重視の定石を無視しており、敗北も当然でしょう。
青龍さん〉「江陵が〜」は希望的な推測で、唯一議論できないとこ突っ込むなんて酷い(笑)
(EZ)