17 大伴
武帝紀と、賈ク伝を合わせて張繍の追撃戦(曹操の後退)を読むと、戦術に関して言えば、

賈ク>曹操>苟イク

という事がはっきりとわかります。特に苟イクは軍中にありながら、全く曹操の意図するところに気付いていません。
曹操の後退は、足の遅い輜重を先に退避させ、補給物資を下がる戦闘部隊に逐次交付できる状態を作っていますし、又、伏兵を置いて敵の追撃速度を低下、逆襲までできる程の手を打っています。実に理想的なのですが、苟イクは基本的なこの事を理解していません。

私はこれを、「苟イク無能説」の証拠の一つとして上げたいと思います。


「苟イク無能説」については>>>28で近日中に!!!
(F2102V/FOMA)
18 赤龍
大伴さんの言われる張繍の追撃は、建安三年のを指すのでしょうか?おそらく荀イクはこの時許昌に残り、軍中にはいなかったと思われます。なぜなら、勝利を予想した事を事前に「手紙」で送っており、荀イクが何故予想できたか尋ねたのは、曹操帰還後の事になっています。現場にいなければ、あの手紙だけで戦況、曹操の戦術の詳細を知るのは不可能です。この件で荀イクに非はないかと。
(J-SA05)
19 大伴
詳しく見てみましょう。

(武帝紀より)
建安三年、曹操は張繍と劉表の攻撃を受け、退却。先ずは安衆を目指しました。この時苟イクに
「一日に数里を行軍するだけだが、(中略)安衆に到着すればまちがいなく張繍を破る」
とメールします。これは曹操が安衆を戦場に設定したという事(計画的後退)と、勝算が高いと判断した事を現すだけで無く、曹操の軍が遅滞行動(敵の追撃を遅らせながら、戦力を維持する事)を伴いながら後退している事がわかります。遅滞行動が大変に難しい事は承知のとおりです。
又、張繍軍の追撃は、平行追撃(相手の退却路に平行する道を利用した追撃)では無く、正面追撃であった事も推測できます。

次に安衆では、先ず最初に輜重を先に全部通していますが、これには二つの理由が考えられると思います。
・足の遅い部隊を先に通し、前線部隊の離脱速度を最大限に発揮させる為。
・必要に応じて退路上に補給物資を積み、交付できる様にする為。

そして主力が夜に撤退している事も忘れてはいけません。
「奇襲の軍を伏せておいた。ちょうど夜があけた」
と続いています。後退はそれを悟られない様に、悪天候や夜間を利用し、その兆候を秘匿するのは、レーダーが発達した現代でさえ常識です。
(F2102V/FOMA)
20 大伴
(続き)この後、曹操自ら精鋭で組織した残遅部隊を率い、収容部隊に奇襲をさせつつ、逆襲に成功します。
後に苟イクは何故勝ちを予測したのは何故か、と曹操に問います。しかし思い出して下さい。

@曹操が戦力を温存していた事。
A敵が何らかの理由で平行追撃(迂回)が出来なかった事。
B(Aより)戦線が直線化し、前線が僅かになる事
C安衆への計画的後退だった事。

少なくともこれだけの情報を苟イクは得ています。しかも曹操は逆襲のセオリーどおりに動いています。曹操の危惧すべきは、残遅部隊のモラールだけなのですが、それもCから考えれば通常の後退とは事情を異にします。

つまりこれだけ後退の上手な人が「勝つぞ」という訳ですから、逆襲に適した地形でモラールが維持できている事は想像つく筈なのです。
これを想像出来ないという事が、苟イクが軍事の素人だという事を現していると思います。
(F2102V/FOMA)
21 大伴
(続き)次にスレッドタイトルの賈クですが、
(賈ク伝より)

曹操の意図に気付き、張繍に追撃を止める様に進言しますが、張繍は聞き入れず、追撃を開始します。
しかし逆襲された後に賈クは、もう一度追撃する事を進言しました。
一度の勝利に気を許していた為に、曹操の軍は大打撃を受けます。
しかし恐らくは張繍側の問題(一度逆襲された為に恐怖感があり追撃を躊躇したか、元々敗残兵であった為に徹底した追撃の為の体力や資材が無かったか)により、決定的な打撃は与えられませんでした(無論、天候、地形、時間帯といった問題や、曹操軍のモラールの回復という理由から断念したかも知れない)。

以上の理由から私は、

賈ク>曹操>苟イク

と戦術家としての序列を付けるものです。
(F2102V/FOMA)