19 諏訪
>>18
『三国志集解』によると、「橋玄」を「喬玄」とする史料があるそうです。
袁術配下の将の橋ズイも、「武帝紀」や「袁術伝」では「橋ズイ」となっていますが、「孫策伝」では「喬ズイ」となっているように、「橋」と「喬」はしばしば通用されています。
晩唐の詩人杜牧の『赤壁』でも「銅雀春深鎖二喬」となっており、杜牧の時代(9世紀前半)には、既に「喬」姓として認識されているようです。

また二人の父の橋公を橋玄とする説も、はっきりとはわかりませんがかなり以前からあるようで、演義が成立する頃には、橋公=橋玄という認識が一般的になっていたと思われます。
(W51S/au)
20 諏訪
ちなみに、杜牧の『赤壁』を全文引用すると、

折戟沈沙鐵未銷
自將磨洗認前朝
東風不與周郎便
銅雀春深鎖二喬

東風が勝因となったこと、曹操の目的が二喬を得ることであったことなど、既に演義の原形が存在していることが窺えます。
(W51S/au)