20 元歎
李厳罷免の上奏文を諸葛亮は成都で書きました。しかし、漢中にいるはずの魏延らの名前があり、成都にいてそれなりの官位である董允や蔣琬の名前が見られない。さらに、罷免を諸葛亮と協議したのはすべて漢中所属(つまり諸葛亮の子分のような者たち)で、益州出身者はいません。よって、この一連の事件(最初から李厳を排斥しようとしたものかはまだわからない)が諸葛亮の策略によるものであると考えます。
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