20 巫俊(ふしゅん)
>>15
臧洪が特別であるのは、「呂布(張バク)臧洪伝」が魏書に立てられているからですね。
臧洪は山東の反董卓勢力の中で、「学生運動の左派論客」のような立場におり、影響力があったからです。

この種の論客やアジ演説者に例えられるということは、臧洪が類型をもっているということです。
社会においては、

>現代でも私は、テロ行為を許しませんが、その動機を否定しませんし

とおっしゃっておられることが示唆されてますように、
最初に少数の人々を決起させるのは、飢えや生活できなくなることへの怖れだけでは無いですよね。

社会不安が拡大するということは、残忍で醜悪な「テロ行為」の温床ですが、
最初の決起は高い理想によって支えられ、倫理的な名誉であるとか美名が後押しします。
「テロ行為」と「そこに行き着くまでの心理」という奴はつながっていますし、多くの人は朱家さんのようにテロ(反倫理)を否定しながらも、そこに至るまでの動機には馴染んでいる訳です。
社会の中には倫理の束縛から抜けて行動する人が必ずいます。

危険な行動を起こす人はごくわずかかもしれませんが、起こす人と起こさない人の違いは「リミッター」が外れているか外れていないかの違いでしかないのですよね。
「リミッター」が信用ならないものであるとしたら、動機の方に目を向けて「正常」な働きをする、しかしながら危険因子を常にふくんだ存在に目を向けることに至ります。

細胞と生物の関係なんかを考えてみれば、分かりやすいですが、どの細胞にもガン細胞に変化するだけの動機というか、社会的圧力が存在する訳です。
(PC)