22 大伴
郭嘉は207年、烏丸征伐の帰還後、三十八で亡くなっています。この年で十一年曹操に仕えていますから、二十八歳(197年)からの配下です。
逆算すると、彼が役所に召し出された二十歳は189年。霊帝が崩御し動乱の始まる年です。長続きしたとも思えません。
郭嘉はこの九年間の間(二十歳以前という事は無いでしょうから)に袁昭にも仕えています。郭嘉が袁昭へと仕えた期間と、戯志才が曹操軍で活躍した時期は重なりそうです。何故袁昭に仕える前に、苟イクは推薦しなかったのでしょうか?
苟イクが袁昭の元を去り、曹操に仕えたのが191年。この時に袁昭の元に郭嘉が既にいたとしても、やはり長くいたとは考えられませんから、充分余裕がある様に感じます。
まぁ苟攸ですら加わるのが196年ですから、いちがいには言えぬかも知れませんね。もっとも彼は公府に召されていた様ですが。
以上から私は、天草説の可能性は低いのでは無いかと考えます。それよりも、苟イクに人を見る目がなかったとか、呼ぶ程のコネクションがなかった、とした方がすっきりしそうです。全ての基準は苟イクの主観ですし、家系的な繋がりですから。如何でしょう?


尚、戯志才の活躍期間は最長でも、191年から197年迄の七年間となりますね。
(F2102V/FOMA)