『太平御覧』に見える曹操の命令書によると、漢中戦でさかもぎが焼かれたとき、本営から15里離れたさかもぎであるのに、淵自身がわずか4百の兵で修理に行き、それを蜀軍にみつかり攻撃を受けたと書かれています。
そして「淵本非能用兵也」すなわち、淵は本より用兵が得意でなかったと厳しい評価がなされています。そして「督帥たるもの直接の戦闘を控えるべきであるのに、さかもぎの修理などにいくとは」と嘆かれています。
>>5であげた曹操の忠告もあわせて考えると、やはり一方面軍の将としては思慮に欠けた、前線むきの猛将ということでしょうか?