24 寿君
もう過去に話題に出てるかも知れません。
蜀書二主妃子伝の穆皇后伝には、「先主が益州を平定したあと、孫夫人は呉に帰ったので、群臣が先主に穆后をめとるよう勧めた」(ちくま訳から)とありますよね?。
従来、孫夫人は劉禅を連れて呉に帰ろうとして、趙雲に劉禅を奪い返されます。
しかし、趙雲は益州平定時点では荊州に居ませんから、『蒼天航路』での王欣太氏のような解釈ができる訳です。
ただ、荊州から孫夫人が帰ったのなら辻褄が合わない話も、益州から孫夫人が帰ったのなら、辻褄は合います。
しかし、『漢晋春秋』の記述だと、呉から迎えに来たとあります。それまでの劉備と孫夫人の間柄を考えれば、呉としては(いやこの孫劉同盟賛成派の魯粛としては)孫夫人を置いておくのが得策。ましてや荊州分割時にすら西半分を劉備に残す程の譲歩をしていてです。
私が思うのですが、穆皇后を正室に迎えるのは劉備と益州人士の間柄を親密にする政治的意図があると思います。その場合、正室である孫夫人は正室から廃さねばなりません。
私は劉備側の都合で孫夫人を送り返したのではないかと推測します。
もしかしたら、荊州分割時に一時的に関係が断絶した折に、絶交の意味で離縁した可能性も(時系列が不明なので)あると思います。
この一件、かなり気になってます。知識ある方のご意見をお聞かせ願えないでしょうか?。
(P905i/FOMA)