26 寿君
以前、諏訪さんと黄蓋が210年代に武陵太守になった事の疑問を論じ、不審な点が見つかりました。内容は>>25のアンカーの先にある通りです。
で、この黄蓋の武陵太守拝命の件に関してなんですが、劉備は赤壁戦後に南征して湖南四郡を獲得し、公安に本拠地を定めました。
で、趙雲が桂陽太守、廖立が長沙、ほんで名前忘れましたが、呂蒙が215年に三郡を占領した時に降伏した人が零陵を治めたはずで、諸葛亮は軍師中郎将として上記三郡を統治したとあります。
で、今まで見落としていたのですが武陵だけ太守がいないんですよね。
武陵蛮が居たからにしては、それまでは金旋と言う太守が居ました。

とすると黄蓋が武陵太守をしているのは確かに正解なのは正解なんですが、諏訪さんがおっしゃったように、武陵蛮を追い払った事件で関連する「蜀の勢力」と言うのは、蜀漢(季漢)の事であり、普通に考えるなら、夷陵戦で蜀に呼応した武陵蛮を黄蓋が鎮圧したと見るべきです。ところが、黄蓋は死んで孫咬(蒼天では関羽に殺られて晒し者にされたあの人)が部曲を引き継いだとあります。
これでは話が滅茶苦茶です。
ちくま訳本は時折誤訳があると聞きます。この黄蓋伝の記述は全体的な歴史の流れと違います。
それとも、陳寿が呉書編纂時に参考にしたイ昭の呉書の記述が誤っているのでしょうか?。
これは黄蓋の没年、経歴のみならず、劉備と孫権の荊州問題に異論が生じる事ではないかと思い、書いてみました。
乱文になりました。申し訳ありません。
(P905i/FOMA)