こんばんは。
途中から参加させて頂いているヒロサトルです。こちらでも
よろしくお願いします。

フ俊さんのお言葉が
いい線を突かれおられると思われますので、
私なりの
考察を述べさせて
いただきます。
まず司馬氏が纂奪を成し遂げられたのは、有力な政敵を効率良く葬った
からで、その一人が
司馬イ時代の、ギ朝最大の皇族曹爽であり、
もう一人が
司馬昭時代の鐘会です。そもそもギ朝自体が、
漢に於ける旧家の名門であった鐘ヨウや司馬氏の
協力の下に、纂奪を成功させた帝国です。
そのギに於ける
鐘家の当主鐘会には、
軍功こそ司馬一族には
及ばなかったものの、
権威や名声は比類無きものがあり、国内では、
当時の司馬氏専横を快く思わない勢力の支持を、一身に集めていたとも
考えられます。
もしかしたら鐘会と
一緒にショクへ侵攻した
トウガイが司馬派の代表で、鐘会が、鐘派の筆頭と言う肩書きが、あったのかも知れません。つまり司馬氏にしてみれば、
トウガイが鐘会を出し抜いてショクを攻略することで、ギに於ける絶対的権力を確立する千載一遇の
機会であり、事実
その通りに事が運んだ。しかしトウガイの功績が
余りにも巨大過ぎたため、危機感を覚えた鐘会が
キョウ維に唆されてトウガイを陥れ、トウガイは護送中に殺されてしまう。そして事の真相を知り司馬昭が長安に鐘会討伐のための大軍を結集させるも、反乱は未然に防がれた…
私はこれが、
鐘会反乱の顛末では
ないかと思います。
皆さんのご意見は
いかがでしょうか?
(PENCK/au)