26 諏訪
>>18
>>>540-3で少し述べましたが、当時軍人の地位は低くみられていました。
政治家だから指揮しないのではなく、むしろ政治家などの文官が軍人の上位に立って指揮することは、わりと普通に行われていたことです。
司馬懿や諸葛亮だって、もともとは政治家です。

>>19
趙儼の説明、ありがとうございます。
「儼」の区点コードは4923です。
(W51S/au)
27 諏訪
>>21
206〜207年頃に、張遼は盪寇将軍、楽進は折衝将軍、李典は破虜将軍になっています。
その後合肥の戦いまで三者とも官位の記述がありませんから、そのままと考えていいでしょう。
また、張遼と楽進は仮節になっています。
爵位は張遼が都亭侯、楽進が広昌亭侯、李典が都亭侯です。
楽進は500戸加増されて1200戸になっていますからその前は700戸、李典は100戸加増されて300戸になっているのでその前は200戸ですね。
張遼は>>23で皇澪桜さんが述べられているように、文帝が帝位に即いたときに1000戸加増されて2600戸になっていますが、それ以前に都郷侯に昇進していて、このときの加増数が不明なので、215年の時点での戸数はわかりません。

まとめると、215年の合肥の戦いの時点では

張遼 盪寇将軍・仮節・都亭侯(?戸)
楽進 折衝将軍・仮節・広昌亭侯(700戸)
李典 破虜将軍・都亭侯(200戸)
(W51S/au)