27 飛燕
続きですが…

自分は、曹操暗殺未遂事件がこのことを示している気がします。彼は、これを成し遂げて、漢の救世主として、名を売るつもりだったんじゃないですか?名を売る為なら、恩人への裏切りも厭わないほど、彼は貪欲だったんじゃないですか?その貪欲さに目を付けて、董承らも計画を持ち掛けたのかもしれません。確かに、ある程度の信念は持ってたかもしれないですが、それは欲に負けてしまう程度のもの、ではないですか?

劉備が諸侯に受け入れられたのは、あくまで、びっくりするほど強くないという評価からの気がします。
何をしでかすかはわからないが、そんなに強くないから、すぐに揉み消せる。
かといって、弱いわけじゃ無いし、貪欲だから戦ではそこそこ使える。
そういう評価だったから、彼は受け入れられたと思います。
(F900iC/FOMA)
28 ヒロサトル
こんばんは。こちらでもよろしくお願いします。天草さんはじめまして。よろしくです。ご指摘の
"皇叔"につきましては、どうやら演義が出典の、創作とも取れそうです。また劉備の全国デビューも、陶謙に徐州牧を譲らてから、に間違いないと思います。ですが呂布に徐州を奪われ、曹操の元に身寄せてからは、朝廷から劉備に、曹操以上の地位が与えられ、さらには、献帝の曹操暗殺計画にまで荷担しています。それは劉備が、それだけ献帝に信頼が篤かった証しでしょう。後に劉備は
曹操に反旗を翻し、敗れてエン紹の元へ逃れる訳ですが、対呂布戦に於ける曹操との連合が、劉備には、曹操と対決する大義名分を得る契機となった事実は否めません。
その意味から、呂布が
死に際に叫んだ言葉はまさに、せい鵠を射ていたと言えるでしょう。
結局曹操は自ら、
劉備玄徳と言う尊皇攘夷の旗手を作り、天下統一の機会を逃してしまったのです。
(PENCK/au)