3 元歎
ある本の要約みたいなもんですが…
『荊州はもともと不穏な地でした。後漢書には「荊州の人情はさわぎを好み、そのうえ四方は駭震し、寇賊は煽動しあい、あちこち沸きたっている」とあります。劉表はそんな荊州に190年に刺史として赴任します。当時の荊州の一番の問題は宗賊(一族郎党、あるいは一村一地区が単位になって横行する賊)というものでした。劉表は、宜城にこの宗賊の首領五十五人を招き、一挙に全員を誅殺して、そのあと襄陽にはいりここを治所としました。以後、兵十余万を常備しながら外へ兵を出すこともなく、群雄の争いにはすべて中立の立場をとります。周辺が戦乱に荒廃するなかで荊州のみが平和で豊かなので、学者や文人(諸葛亮もそのうちの一人)が数多く避難して来て文運隆盛します。演義では、進取の気象に乏しい、優柔な大将となっているが、果断を要する時には果断であったのは宗賊誅殺の件が示している。
しかし、劉表の晩年には中立は難しくなり、劉表の臣であるカイ越や韓崇・劉先・蔡瑁などは荊州の平和のために曹操につくしかないと考えます。そして劉表死後、荊州は曹操に降ります。』
いや〜、これを読んだとき劉表に申し訳なさでいっぱいでしたよ(笑) 宗賊誅殺のことなんか知りませんでしたから(汗)
『荊州はもともと不穏な地でした。後漢書には「荊州の人情はさわぎを好み、そのうえ四方は駭震し、寇賊は煽動しあい、あちこち沸きたっている」とあります。劉表はそんな荊州に190年に刺史として赴任します。当時の荊州の一番の問題は宗賊(一族郎党、あるいは一村一地区が単位になって横行する賊)というものでした。劉表は、宜城にこの宗賊の首領五十五人を招き、一挙に全員を誅殺して、そのあと襄陽にはいりここを治所としました。以後、兵十余万を常備しながら外へ兵を出すこともなく、群雄の争いにはすべて中立の立場をとります。周辺が戦乱に荒廃するなかで荊州のみが平和で豊かなので、学者や文人(諸葛亮もそのうちの一人)が数多く避難して来て文運隆盛します。演義では、進取の気象に乏しい、優柔な大将となっているが、果断を要する時には果断であったのは宗賊誅殺の件が示している。
しかし、劉表の晩年には中立は難しくなり、劉表の臣であるカイ越や韓崇・劉先・蔡瑁などは荊州の平和のために曹操につくしかないと考えます。そして劉表死後、荊州は曹操に降ります。』
いや〜、これを読んだとき劉表に申し訳なさでいっぱいでしたよ(笑) 宗賊誅殺のことなんか知りませんでしたから(汗)
(PC)