3 諏訪
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はじめまして。

まず武帝から文帝の時代にかけては、司令官には曹・夏侯氏を任命する方針でした。
武帝の時代の末期には、夏侯惇が揚州方面、夏侯淵が雍州方面、曹仁が荊州方面の司令官になり、張遼・楽進は夏侯惇の配下、張コウ・徐晃・朱霊は夏侯淵の配下でした。
文帝の時代になると、各方面の司令官は曹休・曹真・夏侯尚に代わります。

しかし明帝の時代になってこの方針が崩れ、227年に司馬懿が夏侯尚の死後空位になっていた荊州方面の司令官に、228年に曹休の死後満寵が揚州方面の司令官になります。
ところが231年に曹真が死去すると、司馬懿を荊州方面から移動させて雍州方面の司令官にし、張コウはその配下にされました。

曹・夏侯氏を司令官にするという方針が崩れ、司馬懿や満寵が司令官になれたのに張コウがなれなかった理由として、張コウがたたきあげの軍人であったことが考えられます。

中国では伝統的に文尊武卑の風潮があり、軍人の地位は非常に低くみられていました。
張コウが司令官になれなかったのもこのためで、張遼・楽進が生きていても司令官にはなれなかっただろうと思います。
(W51S/au)