31 巫俊(ふしゅん)
>>10
河東が関中の範疇に入るというのは、考えたことがなかったです。
あまり現在の地理区分としても使いませんしね。
「関中」で二十四史を検索すると泡を吹くことになるので、試してませんが、関西はたしかに河東を包括するみたいです。

さて関中とか、関西とかの「関」とは函谷関という、関中平野と河南の洛陽地域を結ぶ山中の街道に設けられた関なわけです。

そこから「東」にある河東の郡治の位置がどうして関西になるのは長らく謎でしたが、2008年、タイムマシンの発明によってついに明らかになった...
じゃなくて(笑)違う違う。

要するに河東郡が設置されたのは、戦国時代後期の秦の政権によって、戦国魏の河東地域が制圧されたことにはじまりますが、明らかな関外なわけです。
司馬遷も、「河東と河内と河南は王者のいたところ」と書いているように、河東地域を河南地域といっしょに三晋地域として叙述しています。
どちらかというと、河東は広義の中原に入るんじゃないでしょうか?

で、本題ですが、漢代のいつか忘れましたが、なんと函谷関がほぼ112キロメートル前後東方に移動したという事実が発覚(笑)。生半可に古代の知識があるだけに騙されてました(笑)
まさかこんなに移動していたとはね。
河東郡のほとんどが、いつの間にか関西に化けているではないですか。

たまたま私の手元に、『中国歴史地図集』の、戦国魏韓のページと西晋司州のページのコピーがあるんですが、
定規で計測してみました。
戦国時代の時点の函谷関は、西晋時代における弘農郡の郡治の置かれた位置とほほ同じ地点なんですが、
西晋時代の函谷関は、112キロ前後東方に移動していて、ほとんど洛陽のすぐ手前の山中に置かれていたことが分かります。

おそらく曹操も移動した函谷間はこの洛陽の近くの位置の函谷関であって、
老子が函谷関の関守に老子経を伝授したりとか、孟嘗君が食客の鶏鳴狗盗の能力で函谷関を脱出したりとか、そういう漢代以前のエピソードに出てくる函谷関は別ということです。

故の函谷関とか呼ばなければいけないのかな、、、
(PC)