31 大伴
劉範と劉誕は長安にいて、献帝に従っていました。劉範は馬騰の挙兵に呼応し失敗。劉誕もこの時処刑されたと記憶しています。
(F2102V/FOMA)
32 ユウキ
そんな人物がいたんですか…挙兵に呼応するという事はなかなかの決断力をもっていた??
(P900i/FOMA)
33 大伴
調べてきました。蜀書劉二牧伝第一から要約しましょう。

範は左中郎将、誕は治書御史、璋は奉車都尉として、献帝に従い長安にいた。ただ三番目の息子、別部司馬の瑁だけが焉の傍に従っていた。献帝は焉をたしなめる為璋を使いに出したが、焉はそのまま留め置き、都に帰さなかった。この頃ビに駐屯していた馬騰は、朝廷に反逆した。焉と範も協力したが失敗。範は直ちに殺され、誕も捕われて処刑された。焉はこの後、悪性の腫瘍の為死んだ。人々は璋の人柄が温厚な事を自らの利益と考え、共同して璋を刺史とする様上書した。(中略)曹操が荊州を征し漢中を平定したと聞き、敬意を表した。曹操は璋とその兄瑁に位を贈った。


瑁は璋が刺史となった後に死んでいますし、そもそも相続では無い様です。人々が璋ならば操り易いと、刺史に推した節がありますね。
(F2102V/FOMA)
34 くわぁまん
と言う事は、操りやすい…親劉璋派とはあまり良い者達の集まりで無いとも言えますなぁ…。
(SH900i/FOMA)
35 赤龍
操りやすいというと、表現が悪いですが、益州の豪族達にとって、自分達に望ましい(都合のいい)主を求めるのは当然の事と思います。特に劉焉は自己の権力を確立するため、益州豪族への迫害を行っており、これにこりた豪族達が 温厚な(自分達の権益を害しない)璋を求めたと考えます。
(J-SA05)
36 大伴
こういった議題があると、何気なく読んでいた箇所に目が止まる事がありますね。先程孫和伝を眺めていましたところ、孫和派の一部が列挙されていましたので書いておきます。

陸遜、諸葛恪、顧譚、トウ胤、施績、丁密、張休、吾サン、朱拠、屈晃。
(以下は太傅、少傅、お相手役)カン沢、薛綜、蔡頴、張純、封フ、厳維

特に諸葛恪はかなり推していた様で、その為に恪の謀殺後、孫和は孫峻から自殺させられた様です。

尚孫覇派には、
歩シツ、呂岱、全ソウ、呂拠、孫弘、全奇、呉安、孫奇、楊竺
といった名が挙げられています。
(F2102V/FOMA)