32 諸葛蘭
どうも、ちょいと立ち寄った記念に書き込みします。

関羽の荊州失陥の頃、孔明は軍事に関する権限を持っていましたか?
この時期の軍師はホウ統や法正であって、孔明が軍事に関ったのはホウ統戦死の緊急時だけです。あくまで役割は宰相であって参謀ではなかったと思います。そして、その緊急参戦においても成都攻略という結果を出しています。馬超を引き込むことによって。

孔明が初めて総司令官として参軍した南蛮侵攻も、孟獲を降伏させるなど一定の結果を出しています。

北伐においても、宿将趙雲を囮にし迂回して天水・安定方面を攻略しており、また武都・陰平の攻略、さらに追撃してきた司馬懿率いる魏軍を撃破したり、名将張コウを討ち取ったりと、一定の軍事センスは見せてはいます。
まぁ陳倉の失態や街停の人選ミスなどもありますが。
陳倉の敗因は、大軍を投入し攻城兵器も相当数用意した孔明だが、守将カク昭はそれを上回る篭城戦のスペシャリストだったから。
街停は完全に人選ミス。本来は魏延か呉懿のところ、馬謖の活躍と成長を願って抜擢したのが裏目に。

プラスマイナス差し引いても、評価出来る点のほうが多いように見えます。

基本的には宰相にしても、軍事的にも一定の評価は出来そうです。
感覚的に、曹操・劉備・司馬懿の域には届かず、賈クや法正に肉薄するレベルでは無いかと思います。

長文失礼しました。
(PC)
33 天草
蘭殿>ようこそ!

確かに孔明は軍の事には口出ししてなかったかも知れませんね。

史実の長坂の戦いではどうだったんでしたっけ?
(PC)
34 大伴
蘭さん、こちらでははじめまして。

さて、長阪の前に、樊城進攻と、蘭さんが挙げた人物の没年を。

214年 五月、ホウ統戦死。
219年 八月に関羽樊城へ進攻。同年十二月、関羽死亡。
220年 七月頃(?)、法正病没。

ホウ統は死んでいますし、法正も翌年病死していますから、実に妖しい。このころ孔明は、軍師将軍、左将軍府事ですから、軍事について意見を言えない立場では無いと思います。

また、天下三分計を良く思い出して下さい。荊州から中原を攻め、益州から関中平野を攻める事を、基本戦略としています。この戦略の実現に、関羽の荊州が重要な事は話すまでも無いでしょう。孔明という人は、軍事全般に秀でている訳では無いと思いますが、戦略思想にだけは、政治家だけあって明るいのです。この戦略の実現を目指していたとするならば、やはり忠告をすべきです。これは孔明の失策としても良いと、私はそう思いますね。
(F2102V/FOMA)