36 巫俊(ふしゅん)
崇寧四年(1105年、文人皇帝として知られる北宋の皇帝徽宗が即位して6年の年。21年後にこの皇帝が北宋を滅ぼす)に八十九歳で死んだ故の宰相の章惇という人は、『宋史』の列伝の中で一例だけですが章「淳」と書かれていました。
章惇は同僚である蔡●と組んで国政を主導している政治家であることが本紀などから読み取れますが、当該の箇所はある人が章「淳」と蔡●の政治を悪であると批判したとし、その批判のあらましは「・・・である」と文が続くのですが、「・・・である」の部分では「惇」という字に戻っています。
これは明らかに「惇」という字を書き誤って「淳」と伝写したものであると思われますがどうでしょうか。

だから私は廖化二人説、廖惇、廖淳別名説とかは突飛な発想だなと思うんですが、総じて歴史というものは同一の人物を二人であると言ったり二人の人物を同一であると言ったりすることは稀にですがあるものなので(笑)、そういうことが有り得るということを知っておく必要はあるかと思います。
あんまり拘らなくても良いかなと思うところですが、こういうこと調べることが病み付きになるってことは結構ありますし、私もそのひとりです(笑)
まあ気楽に行きましょう。




●は「十、」という字。「べん」と読む。
(PC)