37 赤龍
>>36
まず最初に、演義のイメージが完全に払拭できぬまま論を進めている可能性も大ですが、史実について議論しているつもりです。
次に、何度も繰り返していますが、現在の私の主張は断片的な記述から推測した仮説の段階です。そもそも、そのまま丸々記述があれば、仮説なんて建てる必要が無くなりますしね(笑)
時系列の調査をしましたが、建安三年六月は、曹操の天子奉戴以前。確かにこの時点で曹操に従うという意見はまだでないでしょうね。呂布陣営の外交方針が袁術か曹操かに二分されるのはもう少し後でしょうね。
ただ、迷子さんはこれ自体を演義扱いされてるようですが、呂布伝の記述、当時の勢力の状況、配置から、後に呂布陣営の外交方針が大きくこの二つに絞られるのは明らかであり、両者の間で揺れている以上、そこに二つの派閥的存在を想像することは、それほど小説と馬鹿にされる仮説でしょうか?
まず最初に、演義のイメージが完全に払拭できぬまま論を進めている可能性も大ですが、史実について議論しているつもりです。
次に、何度も繰り返していますが、現在の私の主張は断片的な記述から推測した仮説の段階です。そもそも、そのまま丸々記述があれば、仮説なんて建てる必要が無くなりますしね(笑)
時系列の調査をしましたが、建安三年六月は、曹操の天子奉戴以前。確かにこの時点で曹操に従うという意見はまだでないでしょうね。呂布陣営の外交方針が袁術か曹操かに二分されるのはもう少し後でしょうね。
ただ、迷子さんはこれ自体を演義扱いされてるようですが、呂布伝の記述、当時の勢力の状況、配置から、後に呂布陣営の外交方針が大きくこの二つに絞られるのは明らかであり、両者の間で揺れている以上、そこに二つの派閥的存在を想像することは、それほど小説と馬鹿にされる仮説でしょうか?
(PC)
38 赤龍
そして、私の仮説の主軸は、陳宮の戦略自体が当初から親袁術勢力を前提としたものではなかったのか?というものです。
そこら辺は>>34-35で書きましたが山東諸侯が大きく袁紹派(曹操含む)と袁術派を軸に争っていたことを前提とするものです。
そうした袁術を主軸とする戦略を建てる陳宮らにとって、なんらかの不利な事態が起こり、それが巻き返しを図るクーデターにつながったのではないか?と。
実際、呂布が徐州を奪った時点では袁術との友好関係が結ばれたようですが、袁術が劉備を攻めた際は、これに協力すべしという意見を退けていますね。これも戦略方針の微妙なぶれとは考えられないでしょうか?
そこら辺は>>34-35で書きましたが山東諸侯が大きく袁紹派(曹操含む)と袁術派を軸に争っていたことを前提とするものです。
そうした袁術を主軸とする戦略を建てる陳宮らにとって、なんらかの不利な事態が起こり、それが巻き返しを図るクーデターにつながったのではないか?と。
実際、呂布が徐州を奪った時点では袁術との友好関係が結ばれたようですが、袁術が劉備を攻めた際は、これに協力すべしという意見を退けていますね。これも戦略方針の微妙なぶれとは考えられないでしょうか?
(PC)
39 赤龍
ついでにいうと、時系列の問題もあるものの、陳宮は呂布陣営の中で地位こそ重きをなしたものの、呂布との関係はあまり良好でなかっただろうということも付け加えておきます。
『典略』にも「呂布のために策略を立てたが、呂布はいつも従わなかった」とあり、『魏氏春秋』にも、呂布の妻の「将軍は陳宮を手厚く扱っているが、とても曹操ほどではない」という微妙な距離感を示す記述がありますね。
こうした両者の不信感があったから、あの事件が起きたのか、事件発覚から両者の距離が開いたのかはなんともいえませんが。
『典略』にも「呂布のために策略を立てたが、呂布はいつも従わなかった」とあり、『魏氏春秋』にも、呂布の妻の「将軍は陳宮を手厚く扱っているが、とても曹操ほどではない」という微妙な距離感を示す記述がありますね。
こうした両者の不信感があったから、あの事件が起きたのか、事件発覚から両者の距離が開いたのかはなんともいえませんが。
(PC)