37 赤龍
>>36
司馬コウについて調べるとなると、まずは『史記』か『漢書』でしょうが、この人はあまりまとまった記録がないようです。

『史記』をざっと調べたところ、項羽本紀、高祖本紀、陳丞相世家、淮陰侯列伝、灌エイ列伝あたりに記述が散見されるようです。
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38 赤龍
簡単にこれらの記述をまとめますと、
始皇帝死後の戦乱で、趙の将として河南を平定し(項羽本紀)、函谷関に攻め入ろうとしていました(高祖本紀)
こうした功績を項羽に認められ、秦滅亡後に殷王に封ぜられます(項羽本紀など)。
劉邦が項羽にそむき、関中を平定し、東進をはじめると、項羽に叛きますが、項羽配下の陳平により攻め降されます(陳丞相世家)。
しかし、劉邦軍の攻撃を受け、再び降服(高祖本紀、陳丞相世家など)。以後の消息は、史記を見る限りは不明です。

ちなみに、この司馬コウが再び漢に降った事件で、項羽が怒って、先に司馬コウを攻めた関係者を誅殺しようとしたのがきっかけで、陳平は項羽のもとを離れ、劉邦に仕えることになります。
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39 巫俊(ふしゅん)
司馬コウとはどんな人か。
『新唐書』儒学列伝、張斉賢伝という伝に司馬コウの名前が出てきます。

張斉賢は陝州の陝県の人、陝県は三国時代の弘農郡陝県ですが、張斉賢は則天武后の死後に活躍した儒者です。
彼は則天武后死後の唐の新体制の儀礼について上奏して建白しているのですが、以下が要旨です。

唐の新体制は唐の皇帝一族の始祖を涼の武昭王として唐朝の太祖としています。しかし歴史を調べれば歴代の王朝の太祖はその王朝の建国者を太祖としています。我が唐朝の建国者は高祖李淵でありまして、五胡十六国の時代の武昭王は涼国の建国者でありました。典礼によれば天子は七廟を建てます。七廟には太祖以下の皇帝の位牌が祭られ、建国の功績を記念しています。臣が考えますところ、殷の始祖はツバメの子どもの契でありますが、殷の太祖は殷を建国した湯王であります。それは周も同じでありますし、魏は曹参を太祖としていません。晋も司馬コウを太祖とはしていないのです。(以下略)」

司馬コウは楚の帝室に従う殷王ですから、晋の皇帝の太祖にはならないと言っています。
ここで面白いのは、廟堂(日本で言えば仏壇みたいなもの)の様子が写実的に描かれていることです。ひとつの廟堂に飾っておける位牌の数には制限があって、これも日本の仏壇と同じですね。
中国では位牌のことを「祖」と言います。祖という字の旁は位牌を描いたものなんですが、

ともかく晋の朝廷では、司馬コウは別格というか、遠い祖先として晋室の皇帝とは別格に祭られていたらしいということです。

司馬コウってそれくらい晋室からは遠い存在だと思うんですよ。皇帝の廟に入ってないんですからね。

そうえいば、三国志の誰かに皇帝の廟の壁に穴をあけた罪で起訴されそうになった寵臣がいませんでしたっけ?それとも漢代の故事だったかな?
(PC)
40 巫俊(ふしゅん)
『史記』の太史公自序に司馬一族の伝記として司馬コウと司馬遷の系譜的関係が示されていますね。
司馬遷と司馬コウは遠い系譜的関係があるとされています。
(PC)