38 巫俊(ふしゅん)
>>36
私は等高線を使った研究は試したことがないのですけど、研究上の地域の区分なのは、まさしく断続か連続かの選択の連続でした。

河東地域と関中地域の関係についてもそれがいえますね。


『漢書』溝洫志の本文と注には、河東郡を関外として扱っているように感じますけど、水利の用語は煩雑でよく釈読できません。
どうやら河東郡を経由して関中の長安に穀物を移送するという話のようですが。
年号を確認したところ、武帝の元鼎年間より以前のようですね。

最初は関外だったということもお分かりいただけると思いますし、

『漢書』地理志では、河東と河内は魏地と書いてあります。
『史記』貨殖列伝では、三河の地は世界の中心であると書いてありますし、第一河東郡は帝堯の都の故地とされています上に、夏王朝の発祥の地でもありますから(もちろん伝承上の発祥地)、夏王朝を中原王朝と呼ぶ場合は、この河東の地も包括することは明確だと思います。

新石器時代の土器の研究では、河東と河南は二里頭文化を共有する地域で、土器の形式には密接な関連があります。

つまり、「中原」と河東の間には、インド亜大陸の衝突で形成された華北西部の険峻な地形をも越える人為の関係があったといえるでしょう。

交易は無論のこと、中原王朝や先秦時代の群雄(晋〜魏)は、河東と関中との関係よりも、河東と河内、河南の関係を重視しているのです。

有名な話では、孟子に載っている内容で、河東が食料不足のときは河内に人民を移動させ、河内が食料不足のときは河東に人民を移動させるという、魏の自慢の福祉政策ですね(これは五十歩百歩として孟子に批判されるが)。
(PC)