4 しす
玉泉山の廟というのは恐らく彼の死後まもなく祀られたものでしょう。
偉業を讃えるというよりは、祟りを恐れてのことだと思います。
関羽の死後、呂蒙や曹操が相次いで死んだことを、当時の人々が関羽の祟りであると思ってもなんら不思議ではないですから。
ま、菅原道真や平将門と同じですね。
それからしばらくは民間レベルで細々と信仰が続けられていたのではないでしょうか。
そういった土壌があって、後に講釈師らによって「三国志」の物語が広まるにつれ、彼の神としての地位も向上していったのではないかという気がします。
偉業を讃えるというよりは、祟りを恐れてのことだと思います。
関羽の死後、呂蒙や曹操が相次いで死んだことを、当時の人々が関羽の祟りであると思ってもなんら不思議ではないですから。
ま、菅原道真や平将門と同じですね。
それからしばらくは民間レベルで細々と信仰が続けられていたのではないでしょうか。
そういった土壌があって、後に講釈師らによって「三国志」の物語が広まるにつれ、彼の神としての地位も向上していったのではないかという気がします。
(PC)