41 珠樹
司馬懿作と伝えられる詩は一首だけ残っています。遼東遠征の帰り、故郷で開かれた祝宴の席で詠んだとか。
原文を忘れてしまって申し訳ないのですが、大意としては戦勝を喜び、自身の栄誉を思い、めでたい結果を都へ報告に行こう、といった内容。
いかにも即興で作ったらしい詩で、押韻を除けば普通の文に近い。このあたり、司馬懿は技芸に嗜みがないと言われるのでしょう。

一方の諸葛亮は、陳寿の編纂による『諸葛亮集』の存在したことが、ハイ松之注に書かれています。今は散逸していますが、どうやら彼の文を集めたものだったよう。
諸葛亮も知識人階級ですから、詩や文は当然作れたはず。
文以外は書く機会がなかった、とのご意見はもっともだと思います。

蜀はともかく、賦や楚辞を作り出した呉越に文芸が見られなかったのはなぜか。
これは、秦漢以来、文化が全て都のある中原で発生したから、につきるでしょう(何よりも言語が違います)。
ですから、都して間もない建業には文芸が生まれなかった。半世紀後に陸機が出ますが、これは洛陽で培われたのかもしれません。

逆に、江南に漢人の都がおかれた南北朝では宮体詩や四六文が生まれたことを、蛇足とさせて頂きます。
(F902i/FOMA)