41 諏訪
空城の計の記述は『趙雲別伝』という著者も成立時期も不明の史書にありますが、まずこの『趙雲別伝』について考える必要があるでしょう。
裴注には『〇〇別伝』というタイトルの史書がよく出てきます。
この『〇〇別伝』というタイトルは、正史の伝と区別するために、後世便宜的につけられたタイトルでしょうが、その多くは子孫が先祖を讃えるために書かれたもので、たいていは先祖の功績を誇大に記してあります。
実際『趙雲別伝』を読むと、趙雲を誉め讃える内容ばかりです。
このため、『趙雲別伝』を読む際には注意する必要があります。

そもそも空城の計自体が非現実的です。
空城の計といえば諸葛亮が有名で、これは「諸葛亮伝」注の『蜀記』にありますが、裴松之は「たとえ伏兵がいるかもしれぬと疑ったとしても備えを設け、慎重に行動するはずである。どうして到達したとたんに逃走することがあろうか」と述べてこれを否定しています。
『趙雲別伝』の空城の計でも、曹操が伏兵の疑いがあるからと撤退していますが、百歩譲って撤退するにしても、伏兵の存在を疑うなら用心しながら撤退するはずなのに、不用心に撤退して趙雲に追撃されており、実に不可解です。
他に裏付ける史料もありませんし、『趙雲別伝』の記述は相当胡散臭いです。

私は史書に空城の計の記述をみかけると、まず疑うようにしています。
日本史でも、三方原の戦いでの徳川家康の空城の計がありますが、これも信頼できる史料にはみられませんね。

というわけで、趙雲の評価は演義成立以前から底上げされていると思いますが、実際にその地位をみれば、とても関羽らと同列の存在ではないでしょう。
(W51S/au)