43 元歎
中立とはそんなに良いものでしょうか。当時の荊州の状況で、中立というのは孤立になります。逃げてきた劉備には危険すぎます。また、荊州豪族の支持があったんですから、中立というのはありえませんし。あと、劉キ派、といっても実際に劉キの意見が尊重されるわけではなく、意見が尊重されるのは実力ある豪族とか名士です(この時代はどこでもほとんどそう)。

ちくま訳『劉キはいつも諸葛亮と自己の身の安全策を謀ろうとしていたが、諸葛亮はそのたびに拒否して、相談に乗らなかった。劉キはそこで…ともに高殿に登って…はしごをとりはずさせて、諸葛亮にいった、「(誰にも聞かれないよ)」諸葛亮は答えた「…申生…重耳…をご存知ではありませんか」劉キは…悟り、ひそかに…計略をめぐらせた』
この話についてですが、何も考えずに読むと無理強いさせられているように思えます。しかし、見方を変えてください。『諸葛亮はそのたびに(劉キのための安全策を誰かに聞かれて、阻止されると困ると言って)拒否して』のように考えてみてください(一例)。

劉キ派の名前が残っていないことについては、敗者の中の敗者なんですから残っていなくても仕方ありません。
僕も劉キ派は(圧倒的かどうかはわかりませんが)不利という考えです。55人も斬られたんですから。

ちょっと話が膨らみすぎましたが、主張したかったのは>>17の否定。言葉を変えて言うと、劉備を警戒して防備を設けていたのに、蔡瑁らといっしょに荊州を任せようというのはおかしいです。

ところで、僕の考え、矛盾はありませんよね?

ちょっと語尾に気をつけてみました(笑) 今回のは充分考えられることなのに、史料がない。これは口惜しいですね。新たな出土史料を待つしかないですね。96年にも何か発見されてたような。
(PC)