46 巫俊(ふしゅん)
三国時代に至るきっかけになった山東で反董卓の兵を挙げた人たちはすべて知識人だったと思うんですけど、結構剣を手にもって直接指揮するのも普通のことで、憚るようなことじゃないんじゃないでしょうか。

伝統的に中国史では、士大夫が武官を蔑視していたと説明されていますし、一概に否定する訳ではないんですが、

「そう通説的に説明されてるけど、根拠があるんだろうか疑ってみる」
ことが魏延を考える上で重要で、
そう考えてみると第一、漢制では文官と武官を峻別していましたっけ?
文官と武官を峻別していないなら、魏延は漢中大守なのだし、文武の官を兼ねている訳です。
官職としての文武の官と、劉巴の言い放った観念というか社会の通念は、これも別個のものの概念だと思いますよ。

「でべそ」と同じで士大夫であっても、軍人と馬鹿にされたりするんじゃないでしょうか。
そうなると、魏延は士大夫の可能性が依然として残ります。

あと参考程度に書くと後漢の南陽郡って名士の産地でしたよね。
それと士大夫と士大夫でないものを峻別するものは、この時代制度化されてなかったはずですよ。
峻別は南北朝時代以降に強化されていきますから、演義のつくられた時代の背景にある科挙官僚=士大夫の空気とは別なんです。
(PC)