47 巫俊(ふしゅん)
仮に赤龍さんが、相対的に軽く考えている部分を「軽視」と、相対的に重く考えている部分を「重視」と便宜上呼ばせて頂きます。

「軽視」部分は、平面的な単なる名称の変更。
「重視」部分は、河川や平野といった自然な地形の問題。

私は地形を重視するのに少しもやぶさかではないですが、平面的な単なる名称の変更という解釈は疑問に思います。

河東地域の地理的位置は、(武帝期以前の故)函谷関・武関・散関・ショウ関を四角で囲んだ線よりも、大幅に東北辺に飛び出していることは明瞭です。

赤龍さんはストラップさんのまとめによりますと、「河東郡は(--中略--)関中の範囲に含めて考えてもいい」とお考えなのですから、この問題は三国時代のみならず、4世紀の五胡十六国時代の地理的理解から、ひいては7世紀以降の唐代の「唐代長安城与関中平野的生態環境変遷」といった研究にまで、関中の歴史的範囲について再考を求めることになるのかもしれません。赤龍さんはそこまで考えておられないのかもしれないですけれども、立体的な地形の理解と文献上の関中の位置の理解に少しもやぶさかではないですよね?
(三国時代に限ってのことなら)

単なる名称の問題なんてものじゃないですよ。杜畿伝を拝見しましたが、そこで河東は明瞭に関西と定義されていますからね。
(PC)