48 赤龍
>>28や>>46あたりをみて感じるのが、現代の歴史という学問と同じ感覚だけで、過去の「歴史」というものを考えてはならない。ということです。
すなわち、かつての歴史を学び、史書を書き、歴史を論じた人達。彼らは単純な歴史への興味や、事実の探求のみで歴史を学び、記していたわけではありません。時として、自分の信じる思想・理念を表し、証明するための手段として歴史が用いられたということです。
また「儒学者たちは、歴史にもクチバシを挟んで」というと、儒学と歴史が完全な別分野である印象を感じさせますが、実際は儒者であり且つ史家であるというのもごく普通のことです。
これは、日本でも充分当てはまる事は『神皇正統記』や『大日本史』の例を見ても明らかですね。
それこそ「現在の常識で過去を断罪する」ような危険を感じます。
すなわち、かつての歴史を学び、史書を書き、歴史を論じた人達。彼らは単純な歴史への興味や、事実の探求のみで歴史を学び、記していたわけではありません。時として、自分の信じる思想・理念を表し、証明するための手段として歴史が用いられたということです。
また「儒学者たちは、歴史にもクチバシを挟んで」というと、儒学と歴史が完全な別分野である印象を感じさせますが、実際は儒者であり且つ史家であるというのもごく普通のことです。
これは、日本でも充分当てはまる事は『神皇正統記』や『大日本史』の例を見ても明らかですね。
それこそ「現在の常識で過去を断罪する」ような危険を感じます。
(PC)