48 赤龍
>>28>>46あたりをみて感じるのが、現代の歴史という学問と同じ感覚だけで、過去の「歴史」というものを考えてはならない。ということです。
すなわち、かつての歴史を学び、史書を書き、歴史を論じた人達。彼らは単純な歴史への興味や、事実の探求のみで歴史を学び、記していたわけではありません。時として、自分の信じる思想・理念を表し、証明するための手段として歴史が用いられたということです。
また「儒学者たちは、歴史にもクチバシを挟んで」というと、儒学と歴史が完全な別分野である印象を感じさせますが、実際は儒者であり且つ史家であるというのもごく普通のことです。
これは、日本でも充分当てはまる事は『神皇正統記』や『大日本史』の例を見ても明らかですね。
それこそ「現在の常識で過去を断罪する」ような危険を感じます。
(PC)
49 巫俊(ふしゅん)
クチバシを挟んでないように思っている人もいるかもしれないですから。
宋代の人たちの思っていたものは幻想だと私は判断しますけど、私は幻想のなかでしか人は生きられない、、とも考えるからです。
(PC)
50 巫俊(ふしゅん)
宋代史家も「現在の常識で過去を断罪」してるんですよ。
私の解釈も「も」であることは否定しません。
(PC)
51 赤龍
>>50
そのことは>>48の前半で説明してますよ。
最も、宋代史家に限定せずかつての史家の場合は、常識というよりも、より強烈に自らの信じる(かくあるべきという)思想、価値観で歴史を記してきたことも多々あったと。
だからって、我々までもがそうした見方で歴史を見ても、また偏った見方しかできなくなるわけですが。
(PC)
52 巫俊(ふしゅん)
>>51
片寄っていない歴史叙述など存在できるんでしょうか?
わたしはできないと思いますよ。
極力公平を期することはできるわけで、「当時の人の考え方にしたがってみる」というのもひとつの方策なわけです。
(PC)
53 巫俊(ふしゅん)
あんまりそれを絶対視なさいますと、それが「現在の常識で過去を断罪」する行為と同義であると思われるのですかどんなもんでしょう?
(PC)
54 赤龍
うーん、なんか、問題点ずれてるとこに食いついてきますね(苦笑)
私がここで一番言いたいことは、このスレの主旨に沿って、当時の歴史家の姿に関しての部分なんですけど。

とりあえず>>52について。
歴史を学ぶものにとっては現在の常識のみではからず、背景となる当時の実態や常識を学ぼうとするのは当然の努力。
勿論、当時の人間で無い以上、完全にそれを理解するのは無理であり、人が書く以上、完全に主観をはずすなんてことは無理なのは当たり前。
だからって、その努力を怠っていいのか?放棄してもいいのか?
最終的にどういうスタンスでいくかはその人次第ですが、少なくとも私は、できうる限りこの点に注意するよう心がけています。
これ以上あんまり脱線するようでしたら、歴史を学ぶ方法に関するスレがあったと思うんで、そちらに移った方がいいですね。
(PC)