49 巫俊(ふしゅん)
武陵郡の蛮であるから武陵蛮であると思います。ただし長江の支流の更に支流の山谷にひしめいているのだと思いますから、もともと郡の境に沢山いるんじゃないですかね?
私はブログで四川から雲南への入り口の金沙江沿いの歴史を調べて書いたことがありますけど、金沙江という雲南の中でも大きい河川沿いではかえって郡県の成長が遅れていました。
蜀の時代は郡の外れという感じで、唐の時代になってようやく増え始めてきた感じです。
だから諸葛亮も南征の際は山越えの道を多様したみたいですね。舟もつかったかもしれませんが。

それから、私たちは大きな渓谷から開発が進んでいくだろうと思いがちなんですが、大規模な水利、土木の開発の遅れがち、というよりそんなことしなくても豊かに暮らせる耕せる山沿いの小さな渓谷の小河川や泉のあるところで蛮夷の農耕(焼畑ふくむ)は規模を増やしていったようです。
武陵郡あたりは幾らでも小さい谷があるでしょう?山脈というのは地球の皺ですから、そこに水が流れると皺が彫られてV字の谷になります。『山海経』などに乗る羌の古い神話でも禹が谷を埋めたり彫ったとあり、集落をつくって耕すに丁度いい深さの谷を選ぶのに苦労したということを反映する神話らしいです。

それから渓谷の大きな河川だと、集落をつくるような平地よりも川が随分下の谷の下を流れているんですよ。これでは相当の上流から取水して蜀の桟道みたいな木製の岸壁をゆく水路をつくらねばなりません。

余談ですが、ここに私の撮影した写真がありまして、
ttp://W三つ.panoramio.com/photo/8179709
私の住む三重県名張市(旧伊賀国)の西南隅にも蜀の桟道なんて規模ではない小さなものですが、似たような崖沿いの川があり、そこに木製の水路を崖に棚をつくって渡していました。それは宇陀川という一級河川から水のない荒地に水を引く為の村人の努力です。その村の名前を矢川村といい、合併を重ねて今は名張市ということです。
(PC)