5 TS
赤壁を含む一連の戦いは、「曹操が荊州全域の制圧に失敗し、荊州から追い出された戦い」です。
あえて言うなら、
漢の朝廷の名を借りた曹操
vs
荊州を中央の支配から独立させたい勢力(当時の暫定的リーダーは劉備)
の戦いでしょう。
孫権は戦いに介入し、荊州独立派に肩入れして荊州での自分の影響力を拡大しようとしていたと見るべきでしょう。最終目的は自分たちによる荊州制圧ですが、赤壁時点では荊州独立派と「曹操を(荊州から)駆逐する」という目的を共にする同盟勢力です。
荊州制圧が済めば呉が危ないのも事実であり、早くも曹操への臣従が検討されていたためにわかりにくくなっていますが、赤壁における呉は防衛側ではありません。
曹操は荊州独立派のリーダーという意味では劉備に敗れたと言えるし、実際に戦った相手という意味では孫権(の配下周瑜)に敗れたとも言えるのではないでしょうか。
たとえるなら、劉備はWW2西部戦線におけるフランスパルチザン・イギリス、曹操はナチスドイツ、孫権はアメリカというところではないでしょうか。
あえて言うなら、
漢の朝廷の名を借りた曹操
vs
荊州を中央の支配から独立させたい勢力(当時の暫定的リーダーは劉備)
の戦いでしょう。
孫権は戦いに介入し、荊州独立派に肩入れして荊州での自分の影響力を拡大しようとしていたと見るべきでしょう。最終目的は自分たちによる荊州制圧ですが、赤壁時点では荊州独立派と「曹操を(荊州から)駆逐する」という目的を共にする同盟勢力です。
荊州制圧が済めば呉が危ないのも事実であり、早くも曹操への臣従が検討されていたためにわかりにくくなっていますが、赤壁における呉は防衛側ではありません。
曹操は荊州独立派のリーダーという意味では劉備に敗れたと言えるし、実際に戦った相手という意味では孫権(の配下周瑜)に敗れたとも言えるのではないでしょうか。
たとえるなら、劉備はWW2西部戦線におけるフランスパルチザン・イギリス、曹操はナチスドイツ、孫権はアメリカというところではないでしょうか。
(W31T/au)