51 赤龍
遅くなりましたが、陸遜伝にみえる陸遜の孫権への上疏に「最初、敵は水陸両路から攻めてくるのではないかとと警戒していましたが、船を捨てて徒歩になり、処々に陣営を設けています」とあり、ここからも移動には船が用いられていたものの、劉備は陸戦主体で戦に臨もうとしていたことが推測できます。
さて、夷陵以前の陸遜の官職ですが、荊州侵攻の直前、病の呂蒙の後任ということで偏将軍右部督となり、対荊州方面の司令官に。
荊州侵攻後は宜都郡の太守となり、撫辺将軍、華亭侯に。その後も荊州の蜀の残党、親蜀派の豪族達の討伐に転戦し荊州の平定に活躍。右護軍、鎮西将軍、婁侯に昇進。これが夷陵直全の状態です。
呉郡の名族出身で、孫策の娘を妻にと、家柄は申し分なし。地位的にも元々荊州方面の要職にあり、世間ではなぜか若僧というイメージがあるものの、実際はこのころ四十前後のおっさん(笑)年齢的にも問題無し。されに、夷陵の戦いの舞台は陸遜が太守をしていた宜都郡の中。
つまり、演義のイメージ程の大抜擢ではなく、わりと妥当な任用だったのではないでしょうか?あえていえば、さかのぼって呂蒙の後任に推挙されたことが大抜擢と言えるかもしれません。
さて、夷陵以前の陸遜の官職ですが、荊州侵攻の直前、病の呂蒙の後任ということで偏将軍右部督となり、対荊州方面の司令官に。
荊州侵攻後は宜都郡の太守となり、撫辺将軍、華亭侯に。その後も荊州の蜀の残党、親蜀派の豪族達の討伐に転戦し荊州の平定に活躍。右護軍、鎮西将軍、婁侯に昇進。これが夷陵直全の状態です。
呉郡の名族出身で、孫策の娘を妻にと、家柄は申し分なし。地位的にも元々荊州方面の要職にあり、世間ではなぜか若僧というイメージがあるものの、実際はこのころ四十前後のおっさん(笑)年齢的にも問題無し。されに、夷陵の戦いの舞台は陸遜が太守をしていた宜都郡の中。
つまり、演義のイメージ程の大抜擢ではなく、わりと妥当な任用だったのではないでしょうか?あえていえば、さかのぼって呂蒙の後任に推挙されたことが大抜擢と言えるかもしれません。
(PC)