53 天草
では正史の各伝から、真実を紐解きます。

『諸葛亮が祁山に出陣した。張儁乂は特進の位を与えられ、諸軍を指揮して諸葛亮の武将、馬謖を街亭で防いだ。馬謖は南山を頼りとして抵抗し、平地に降りて戦おうとしなかった。張儁乂は彼らの水源を断ち、攻撃して散々にこれを打ち破った』(張コウ伝)

『228年、諸葛亮は出陣して祁山に向った。当時経験を積んだ指揮官として魏延、呉懿らがおり、意見を言ったものは皆、彼らを先鋒にするべきだといった。しかし諸葛亮はそれに反して馬謖を抜擢して先鋒として大軍を率いさせて前方にやり、魏の将軍、張儁乂と街亭で戦わせたが張儁乂によって打ち破られて軍兵は散り散りになった。諸葛亮は進軍しても拠点にするべき場所が無かったので軍を撤退させて漢中に戻った』(馬謖伝)

『228年、参軍馬謖の先鋒隊に属した。馬謖は水路を捨てて山に登って陣を構え、指示する措置は煩雑を極めた。王平は何度も馬謖をいさめたが馬謖は取り上げず、街亭で大敗を喫することになった。軍兵はことごとく四散したが、王平指揮下の兵一千だけは陣太鼓を打ち鳴らして踏みこたえたので張儁乂は伏兵がいるのではないかと怪しんで近づこうとしなかった。そこで王平は徐々に緒営の残留兵を吸収して、将兵を率いて帰還した』(王平伝)

たったこれだけかよ…(汗)
(PC)
54 天草
さて、ここからは私の推測です。

まず水路と馬謖の布陣の問題。私は祁山という地(安定ら帰順させた地と長安を結ぶ要所)に砦があったのでは…と予想します。
諸葛亮は、自分は帰順させた地方の平定に取り掛かり、その間に魏の大軍を祁山で馬謖に防がせようとした。しかし、馬謖は守りやすい砦で守らず、街亭に出陣して迎え撃とうとした。その際、王平は猛反対。張コウはその山と砦を包囲し、補給のやり取りをさせなかった。こんな感じではないでしょうか?

なぜ馬謖はわざわざ守りやすい砦でなく山頂に布陣したのか?それは諸葛亮と馬謖の北伐における『認識の違い』があったのだと思います。
諸葛亮は、困難な補給を少しでも楽にさせるように少しずつ魏の地を帰順させながら平定し、長安を目指した…のに対し、馬謖は、張コウ率いる魏の大軍を見て功をあせり、侵攻を続ける事で長安を奪取しようと考えた。

そう考えると馬謖の布陣の意味も分かる気がします。

事実、この戦いは蜀が攻め込んだのに、まるで攻め込んだのが魏軍のようなイメージになりますから、諸葛亮としては祁山をどうしても守りたかったのではないでしょうか?
(PC)
55 漢森
勝手な憶測ですが、何故馬禝は高所に布陣したのか?何故馬禝は破れ去ったのか?と云う疑問に対して、もう一つの『認識の違い』もあったのではないでしょうか?

つまり高所に陣取り大勝した漢中争奪戦の再現を目論んだ馬禝と、その敗戦を糧とした張コウ、と云う前線司令官同士の高所の布陣に対する認識の差があの結果に繋がったとは考えられませんか?
(P900i/FOMA)
56 くわぁまん
わざわざ敵の見える位置に布陣する…。

普通は守りが堅く、伏兵がいるであろうから攻めないと考える。しかし張コウは攻めて来た。これは言わば、一種の空城の計。成功すれば敵を足止め出来作戦成功。しかし策は失敗…。

意外と張コウは何も考えずに攻めてたりして…
(SH900i/FOMA)
57 ユウキ
疑問なんですが、馬ショクは他国からの評価はどのようなものなのでしょうか??くわぁまん殿の意見は確かにと思いましたが…馬ショクなめられてた!?
(P900i/FOMA)
58 天草
この行軍には趙雲や呉懿といった名将も従軍していて、彼らを押し退けての抜擢だった事が書かれてますから、恐らくはまだまだ無名に近かったのではないかと思います。

確かに無名の馬禝にとっては敵の名将張コウを破るのは大金星ですから、彼にとってはチャンスだったんでしょうね。
(PC)