57 ストラップ
>>>317-65に、周倉の出身地が「周家湾」という都市であると書いてありますが、「周家湾」について詳しくご存知の方はありますか?

演義で周倉は、裴元紹に因って、「板肋虬髯」といわれますが、「虯髯」を漢和辞典で調べたところ、「みずちがとぐろをまくように曲がっているひげ」とありました。何故岩波訳ではここを「赤ひげ」と訳しているのでしょう?「赤ひげ」って、我が国では西洋人の意味ですよね?リュウキュウコマドリという鳥のことでもある様ですが、やはり関係ありませんし。
(PC)
58 天草
今更アンカーをつけるのも申し訳ないほど遅いのですが…(;^_^A

>>55
魯粛が関羽相手に会談をしている事自体が、外交権の有無を指しているとは考えられませんか?
そもそも通常なら、成都に趣き、劉備に直接か、諸葛亮への会談…という事になると思うのですが、この場合、関羽に会いに行ってますよね。

関羽の立場が、一介の交渉役として、役不足だとは思いませんが、はなっから関羽への交渉が行われた様に思えます。
(N902i/FOMA)
59 しす
>>57
ちょっと調べて見ました。
現在の周家湾と言うと内モンゴル自治区を走る准東鉄路の始発駅が周家湾だそうです。
現在は鉱山地区のようですね。
場所は内モンゴル自治区のオルドス(鄂爾多斯)市のジュンガル(準格爾)旗。
オルドス市は遊牧に適した地であり、華北からモンゴルに至る交通の要衝だったようです。
三国の時代で言えば匈奴や鮮卑が暴れまわっていた地ではないかと思います。
ただ周倉と言うと、例の籐編みっぽいヘルムや、水練達者であることから、どうも南方のイメージが強い気がするんですよね。
その伝説がいつ頃生まれた話なのかが見えてくると、また面白いかもしれませんが。
(PC)
60 ストラップ
>>59
ありがとうございました。
ネットで「周家湾」を検索しても、スチームロコモーターの画像ばかりで、参っておりました。

周倉は第二十八回で、裴元紹に「山上有一関西人、姓周、名倉」と言われていますから、僕はそのイメージでした。
赤莵を関羽に渡す際、関西の大男というのが出てきます。岩波の注に因ると、
「(前略)関西の大男という事場は、宋・元時代の書物によく見える。今でも北方の中国人は中部(揚子江流域)の人々にくらべて、背も高く大柄であるが、宋・元時代には陜甘地方の人が特に大男と思われたらしい。」
とあります。
周倉自身も「黒面長身」ですから、演義ではそのイメージで関西人という設定に書かれている様です。
(PC)