57 ストラップ
日本書記は、固有名詞を代えると、三国志の文章になる箇所がある位に三国志の影響を受けているそうですね。

日本書記では倭の女王を、神功皇后としていますが、
明帝景初三年六月

に使者を出した事になっていますね。
明帝は景初三年一月に死んでいますし、そもそも三国志ではこの記述、景初二年の筈。
古来より論議の的と、書物にありました。
(F2102V/FOMA)
58 赤龍
景初三年六月を明帝としたのは単純なミスとして(景初が明帝の年号だからという勘違いでしょうか?)、二年とするか三年とするか、おもな論点は2つあります。
第一は文献上の問題。現存の『三国志』の諸本では皆景初二年ですが、『日本書紀』だけでなく、『梁書』の諸夷伝、『翰苑』の注に引く魏志、『太平御覧』等は景初三年と記述している。
そして、より重要な第二の問題は、この前後の情勢を考えて、二年と三年どちらが妥当か?
これら二点の問題をふまえ、現在の日本では景初三年説が有力で定説化されてます。歴史教科書なんかにも魏志倭人伝を紹介しつつも、当然のように景初二年は三年の誤りであると断定する有様だったかと。私の高校時代の教科書の記憶なんで、間違ってるかもしれませんが。
(PC)
59 赤龍
『三国志集解』で清代の沈家本も、景初三年のほうが正しいと主張していることが紹介されてます。
(PC)
60 ストラップ
>>57-59
神功皇后という人物は、日本書紀の創作上の人物ですよね?
景初三年が正しいとすれば、この記述は三国志では無い史料を参考に書かれたか、三国志の記述が後世、何らかの理由で変更された、と見るべきなのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
61 赤龍
景初三年説の立場としては、『三国志』も当初は景初三年としてたが、後世(唐〜宋)書き写していく際に誤写が生じ、二年としてしまい、宋代以降の現存の版本は皆景初二年となってしまった。しかし、唐代の『翰苑』注で引用されている『三国志』の該当箇所は三年となっている。つまり、唐代以前の古い本では『三国志』も三年と記述していたであろう。
てな感じの主張となってます。
(PC)
62 ストラップ
日本書紀(日本紀)が舎人親王によって元正天皇に献上されたのは、720年(遣唐使の時代)ですが、これが三国志を本当に参考にしているとすれば、同時代のものでは無く、旧い時代の三国志を参考にした事になりますね。
と、するならば、本邦に最初に三国志が伝わったのは、(唐は七世紀初頭からだから)遣唐使の初期の頃か、遣随使の時代という事になる計算ですよね。
(F2102V/FOMA)