6 元歎
>呂蒙にまんまと騙された
それは確かです。言いたかったのは、初めから油断していたわけではないということです。

>頭で呂蒙以上を求めるのは酷ですか?
呂蒙は、周瑜や魯粛とは違い、政治などには関与していません。ということは、呂蒙は関羽と同じタイプ。呂蒙は勉強によって戦略の才を身につけたのではなく、もともと戦略の才はあったと思います。しかし自分の考えを文書として総大将(周瑜など)に提出することは出来ませんでした(字を知らないため。この時は仕方なく口頭でだったと思います)。しかし、総大将となるためには、文書ぐらい書けないといけない。そこで発奮、(字を覚えたり、史書などを読んでどう表現するかを)勉強し、その勤勉さは魯粛を感嘆させるほどになります。ここで注意して欲しいのは、頭が良くなったなどというわけではないということ(文書を自分で自由に書け、すらすらと話せるようになっただけ)。呂蒙は、魯粛を感嘆させたことから頭が良いと思われがちですが、それは間違いであると思います。
結局、関羽は呂蒙の計略を見抜けなかっただけです。関羽も、侯音を反乱させたり、盗賊を味方につけたりなど計略は用いています。曹操が侯音の反乱を未然に防げなかったからといって、関羽が曹操より頭が良かったとは言えないことと同じだと思います。

>やはり曹仁を落とせなかったのが引っ掛かります。
ですから、周瑜も一年を費やしています。そして、劉備が漢中王になったのが219年秋。その後関羽は兵を発し、219年のうちに敗北。実際に樊城を攻めていたのはわずか。落とせないのも無理ないでしょう。逆に、もう少しの兵力があれば落とせたということは、周瑜以上といえるのではないでしょうか?(周瑜の時と兵力・地勢などが全然違うので一概には言えないですが…)

朱家さん>裏切りましたな!(笑) もう一度裏切るようにしないと…(笑)

>樊城が落ちそうだったとはいえ、援軍を断られた時点で退いていれば、江陵は防げた
確かにそうですけど、樊城さえ落ちていればあとは勢いで江陵も奪取できたと思います。魏では反乱が相次ぐでしょうし。劉封の守っていた上庸も、たとえ援軍を送ったがために魏に奪われたとしても、やはり勢いで取り返すことはできたと思います(無理かな…勢いがどのくらいになるのかわからない)。何にしろ、樊城を落とすことが何よりも大事であったと思います。
(PC)