60 元歎
レスが遅くなってすいません。

>>58
完全に二派に色分けはされていなかったと考えています。例えば司馬徽グループなら、劉表の支配は受けていますが劉表政権に参加はしてません(龐統?)。賓客グループもそうです。この二つのグループを二派が利用しなかった(できなかった)理由として、どちらも劉表を主となすに足らない人物としていて距離を置いていたことが考えられます。この他にも中小豪族はいたと思いますが、カイ越を動かすほどの勢力ではないと思い、大きく四つぐらいに考えてます(勢力の大きさの差は結構ありますが)。

>>59
すいません、宗賊をひとつの勢力としていました。そこで即席の考え方を…^^;
ちくまの訳注を見ると、宗賊とは江南をあらした一揆のことで各地で有力者を中心に結集して官に刃向かった…とあります。だから宗賊たちには官と利害が対立し、そして劉表赴任まで官が抑えられなかったという二つの共通点があります。また蔡瑁は襄陽の豪族でありながら、張虎・陳生に襄陽を占拠されてます。これらから宗賊は団結はしていなくても、個々だけでもかなりの力があり(といっても大豪族は極少数で、ほとんどは中小豪族だと思いますけど)、特に張虎・陳生は蔡瑁を上回る兵力を持っていた…と考えられます。赤龍さんの指摘から、今は張虎・陳生が反蔡瑁派の中心と考えてます…また指摘されて変わりそうですが^^;

ところで、劉表は単身宜城に乗りこみカイ越や蔡瑁と宗賊対策を相談してますが、宜城は襄陽の南。襄陽は占拠されているはずなのに。なんか変ですね。さすがの宗賊でも、全国レベルの名士である劉表には手を出せなかったということでしょうか…。うーん。
(PC)