65 寿君
色々再確認した事があるのですが、江陵から零陵にかけての旧劉備(関羽)領には、劉備が夷陵で勝てば、下手すると一変に勢力地図が塗り変わる危険性が孕んでいたんですね。
諏訪さんが劉備のスレで叶兄弟さんにレスされてましたが、まさに荊州西部は火薬庫状態。関羽の配下だった人(零陵の守将)が武陵蛮の地に行って、頑強に抵抗して、ついには自決。それ聞いた劉備が哀悼を捧げたと言う話をむじんさんちで目にしました。

もしかして劉備の東征は武陵から零陵にかけての残党勢力を支援(と言えばおかしいですが)して、西部三郡でも奪回…。いや江陵抜かれたら、次は武昌の孫権ですから、戦略的な点での勝算のメドはあったが、残念ながら戦術的な誤算が大敗になってしまったんでしょうね。
調べてみるもんです…。
(P905i/FOMA)
66 赤龍
>>65
馬良伝には、馬良が武陵蛮の帰順工作に派遣され、その工作自体は成功していたことが書かれてますね。
歩シツ伝にも、劉備敗北後も荊州南部の反抗は続いたと書かれてますし、明らかに寿君さんが考えられてるような意図はあったと、私も思ってます。

逆に呉の方もこの時期、南蛮の反乱を後方支援し、蜀を牽制しようとしていますし、夷陵の一局面だけをめぐって両国が争っていたわけじゃあないことがわかります。
(PC)